アボルハサン・バニーサドル

イラン初代大統領 ウィキペディアから

アボルハサン・バニーサドル

セイイェド・アボルハサン・バニーサドルペルシア語: سید ابوالحسن بنی‌صدر, ラテン文字転写: Seyyed Abolhassan Banisadr Fa-ir-banisadr (1).ogg 発音[ヘルプ/ファイル], 1933年3月22日 - 2021年10月9日)は、イラン革命後のイランの初代大統領である。なお大統領職は革命後に現在のイラン・イスラム共和国となって初めて設置された。在任当時、日本のマスコミではバニサドルと表記・呼称された。

概要 任期, 最高指導者 ...
アボルハサン・バニーサドル
ابوالحسن بنی‌صدر
Thumb
アボルハサン・バニーサドル(1980年撮影)

任期 1980年2月4日 1981年6月22日
最高指導者 ルーホッラー・ホメイニー
首相 モハンマド・アリー・ラジャーイー

任期 1980年2月7日 1980年8月11日

イラン・イスラム共和国
第2代 経済財務大臣ペルシア語版
任期 1979年11月12日 1980年2月9日
内閣 イスラーム革命評議会

イラン・イスラム共和国
憲法専門家会議議員英語版
任期 1979年8月19日 1979年11月15日
選挙区 テヘラン州

出生 (1933-03-22) 1933年3月22日
ペルシア ハマダーン州ハマダーン郡英語版ハマダーン
死去 (2021-10-09) 2021年10月9日(88歳没)
フランス パリ市13区サルペトリエール病院
政党 国民戦線英語版→)
大統領と国民協力室英語版→)
イラン国民抵抗評議会→)
無所属
出身校 テヘラン大学
ソルボンヌ大学
配偶者 オズラ・ホセイニー英語版
(1961年 - 2021年)
子女 3人
宗教 イスラム教シーア派十二イマーム派
署名 Thumb
閉じる

経歴

反政府運動家

1960年代前半、バニーサドルは反体制運動に参加し、二度投獄された。1963年の暴動の際、負傷。その後、モジャーヘディーネ・ハルグのメンバーとフランスへ飛び、亡命中だったホメイニーと会って、パフラヴィー朝に対する抵抗組織に加わる。

大統領

1979年2月にホメイニーと共に帰国。経済学者だった彼は暫定蔵相・暫定外相に就任。その後、正式に蔵相に就任する。翌1980年の総選挙で、リベラリストや女性の支持を多く集め、イスラム共和制初代大統領に選出される。

しかし、暫定外相時代にイランアメリカ大使館人質事件でアメリカ政府との仲介役を行ったことが保守派の反発を買っており、国会(イスラーム協議議会)では保守的なウラマー(聖職者)が多数を占め、大統領側と対立するラジャーイーを首相に選出。「我が息子」と呼ぶほど親密だったホメイニーすらもバニーサドルを糾弾するようになってしまう。ウラマーではなかったバニーサドルは次第に追い詰められる。

亡命

バニーサドル自身はホメイニーに手紙を送り、独裁者にならないように警告するが、結局1981年6月21日に議会により弾劾決議が可決され翌6月22日にそれを受諾。ラジャーイーが大統領に就任する。バニーサドルは国外に脱出し、フランスのパリで亡命生活を始めた。晩年まで、記事の執筆などでイランの現体制を批判する活動を続けていた。

2019年のイラン革命40年に際して日本の『東京新聞』からインタビューを受けた。ホメイニーについては「亡命中は私と同じ国家像を描いていたが、権力を握ると変わってしまった」と述べ、イラン革命は「イスラム法による統治は実現せず」「一部宗教指導者による独裁体制」と批判した。ただし、欧米によるイランへの経済制裁や介入は、イラン国民の経済的困窮の責任転嫁につながるとして反対を表明している[1]

2021年10月9日、フランス・パリ南東部にあるサルペトリエール病院にて88歳で死去[2]

脚注・出典

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.