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ソ連のツポレフ設計局が開発した戦略爆撃機 ウィキペディアから
Tu-16(ツポレフ16;ロシア語:Ту-16)は、ソ連のツポレフ設計局が開発した双発の戦略爆撃機である。ソ連初のジェット爆撃機となった。DoDが割り当てたコードネームはType 39。NATOコードネームは「バジャー」(Badger:アナグマ)。
1940年代後半から開発が開始され、1952年初飛行、1954年より実戦配備、同年メーデーで初めて飛行姿を公衆の面前に現した。翌1955年7月、赤の広場での航空記念パレードで54機の大編隊で飛行し当時の西側諸国に衝撃を与えた。
Tu-16では、エンジンを主翼と機体の取付け部近くで、主翼に埋め込む方式が採用された。また、K-10S空対艦ミサイルを運用するミサイル爆撃機型、Tu-16K-10からは、機首にレドームが装備されるようになった。
主翼後退角は、内翼部で41度、外翼部で37度[要出典]。また、内翼部後部にバルジ(膨らみ)を設けており、主脚はそこに収納する。
初期生産型は通常爆弾搭載の爆撃機で空軍向けであった。最多生産数を誇ったTu-16Aは、核兵器運用型であった。加えて、電子戦機型、海軍航空隊向けの対艦ミサイルを搭載するミサイル爆撃機型、海上哨戒型も開発された。さらに空中給油機型は、翼端で空中給油を行うシステムを採用し全世界戦略の作戦展開を目指した。また、Tu-16の機体設計をもとに民間旅客機、Tu-104が開発された。これは、世界で2番目のジェット旅客機となった。
Tu-16各型はソ連空軍や海軍航空隊で運用され、第三次中東戦争やアフガニスタン侵攻やイラン・イラク戦争などに活躍し、アジアや中東アフリカの各国へ輸出され、長く使用された。
また、ツポレフ製爆撃機としては戦後最多生産数で、1963年の生産終了まで1500機以上が生産された。多くの機体が運用されていたため、冷戦時代には日本近海を飛行するTu-16に対して航空自衛隊の戦闘機がスクランブル発進する事態が日常的に発生した。海上自衛隊の艦船に異常接近する場合もあり、1980年6月27日には、新潟県佐渡北方約110kmの日本海で海上自衛隊輸送艦「ねむろ」の目前で墜落し、同艦が乗員3人の遺体を収容するという事故があった。
1987年(昭和62年)12月9日にソ連空軍Tu-16偵察機は沖縄本島付近上空に領空侵犯し嘉手納空軍基地・空自基地上空も通過した。それに対して航空自衛隊那覇基地第302飛行隊(当時)、F-4EJ戦闘機が空自史上初となる警告射撃を行った(対ソ連軍領空侵犯機警告射撃事件)。
1958年には中華人民共和国にも引き渡し、西安飛機工業公司によって轟炸六型(H-6)の名でライセンス生産が行われ、1965年5月14日にはTu-16の1機が中国初の核兵器投下実験を行った[1]。Tu-16の補充として中東のエジプトやイラクにも輸出された。これをもとに改修された空中給油機型、轟油六型(HY-6)も含め、中国人民解放軍空・海軍では半世紀近くも現役である。
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