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この項目では、プロゴルファーについて記述しています。厚生労働官僚の同名の人物については「青木功 (厚生労働官僚)」をご覧ください。 |
青木 功(あおき いさお、1942年8月31日[2] - )は、千葉県我孫子市[2] 出身のプロゴルファー。日本プロゴルフツアー永久シード保持者。2016年から日本ゴルフツアー機構(JGTO)会長。1980年に全米オープンで準優勝、1983年には日本人で初めてPGAツアーで優勝を果たすなど、尾崎将司(ジャンボ)、中嶋常幸と共に「AON (エーオーエヌ)」と呼ばれる日本を代表する名ゴルファーの一人である。日本ゴルフツアー通算51勝は歴代2位[1]。
概要 Isao AOKI, 基本情報 ...
青木 功 Isao AOKI |
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2019年5月25日撮影 |
基本情報 |
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名前 |
青木 功 |
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生年月日 |
(1942-08-31) 1942年8月31日(82歳) |
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身長 |
180 cm (5 ft 11 in) |
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体重 |
80 kg (176 lb) |
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国籍 |
日本 |
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出身地 |
千葉県我孫子市 |
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経歴 |
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プロ勝利数 |
78 |
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優勝数 |
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PGAツアー |
1 |
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ヨーロッパ |
1 |
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日本ツアー |
51 (歴代2位)[1] |
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チャンピオン |
9 |
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他ツアー |
16 |
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メジャー選手権最高成績
|
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マスターズ |
16位: 1985 |
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PGA選手権 |
4位タイ: 1981 |
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全米オープン |
2位: 1980 |
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全英オープン |
7位タイ: 1978, 1979, 1988 |
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受賞 |
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日本ツアー賞金王 |
1976, 1978, 1979, 1980, 1981 |
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成績 |
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優勝回数 |
通算85勝 <国内シニア9勝・海外シニア9勝・海外グランドシニア3勝> |
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初優勝 |
日本男子: 関東プロ (1971年) 米国男子: ハワイアン・オープン (1983年) |
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賞金ランク最高位 |
日本男子: 1位 (5度) 米国男子: 34位 (1983) |
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殿堂表彰者 |
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選出年 |
2004年 |
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選出部門 |
国際投票 |
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殿堂表彰者 |
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選出年 |
2013年 |
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選出部門 |
プレーヤー |
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2012年9月23日現在 |
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- 1980年の全米オープンでは、準優勝。 (優勝はニクラスで、青木は2位。共に当時の優勝レコードを塗り替えての1、2フィニッシュ。これは2021年松山英樹のマスターズ優勝までの41年間、日本人男子選手のメジャー大会最高成績であった)
- 同年の全英オープンでは、3日目に最小スコアレコード「63」を叩き出している。 (2010年現在も、タイ記録)
- 日本人初の米国PGAツアー(ハワイアン・オープン)優勝。最終日・最終ホールでピンまでの距離128ヤードのショットでチップインイーグルを決めて、2位に1打差の勝利であった。1打差でリードしたままホールアウトしたジャック・レナーがスコアカードを提出しているさなかの奇跡の逆転であった。同ショットは米国にて、80年代を代表する印象に残るショットの一つに選定されており、このショットで使用したパワービルト社製のPW (ピッチング・ウェッジ) は、世界ゴルフ殿堂の施設内に展示されている。なお、128ヤードは勝利の翌日青木が歩測して確認した数字であり、翌日同じ場所から同じクラブで何度打ってもバンカーにつかまり、グリーンに届かなかったという。
日本ツアー (51)
- 1973 (5) 中日クラウンズ, ペプシウィルソントーナメント, 札幌とうきゅうオープン, KBCオーガスタ, 日本プロ選手権
- 1974 (4) 東西対抗, 関東オープン選手権, 関東プロ選手権, 産報クラシック
- 1975 (2) 中日クラウンズ, 関東オープン選手権
- 1976 (1) 東海クラシック
- 1977 (3) 東北クラシック, ジーン・サラゼン ジュンクラシック, ABC日米対抗
- 1978 (6) 中日クラウンズ, 日本プロマッチプレー選手権, 札幌とうきゅうオープン, 関東プロ選手権, ゴルフ日本シリーズ, ABC日米対抗
- 1979 (4) 中日クラウンズ, 日本プロマッチプレー選手権, 関東プロ選手権, 日本シリーズ
- 1980 (5) 中日クラウンズ, よみうりオープン, KBCオーガスタ, 関東オープン選手権, ジュンクラシック
- 1981 (3) 静岡オープン, 日本プロマッチプレー選手権, 日本プロ選手権
- 1982 (2) 日本プロマッチプレー選手権, 大京オープン
- 1983 (4) 札幌とうきゅうオープン, 関東プロ選手権, 日本オープン選手権, 日本シリーズ
- 1986 (4) 札幌とうきゅうオープン, 日本プロ選手権, KBCオーガスタ, 関東オープン
- 1987 (4) ダンロップインターナショナルオープン, 全日空オープン, 日本オープン選手権, 日本シリーズ (雪の影響で2日間36ホールに短縮、 デビッド・イシイと優勝を分け合う)
- 1989 (2) 東海クラシック, カシオワールドオープン
- 1990 (1) 三菱ギャラントーナメント
- 1991 (1) ブリヂストンオープン
- 1992 (2) 三菱ギャラントーナメント, カシオワールドオープン
PGAツアー優勝 (1)
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No. | Date | Tournament | 優勝スコア | 打差 | 2位 |
1 |
1983年2月13日 |
ハワイアンオープン |
−20 (66-70-65-67=268) |
1打差 |
ジャック・レナー |
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日本シニアツアー優勝 (9)
- 1994 日本シニアオープン
- 1995 アメリカン・エキスプレスグランドスラム, 日本シニアオープン
- 1996 日本シニアオープン
- 1997 日本シニアオープン
- 2000 N.カップシニアオープン
- 2002 N.カップシニアオープン
- 2007 日本シニアオープン
- 2008 鬼ノ城シニアオープン
メジャー選手権
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大会 |
1974 |
1975 |
1976 |
1977 |
1978 |
1979 |
1980 |
1981 |
1982 |
1983 |
1984 |
1985 |
1986 |
1987 |
1988 |
1989 |
1990 |
マスターズ |
CUT |
CUT |
DNP |
T28 |
CUT |
T34 |
CUT |
T45 |
CUT |
19 |
T25 |
T16 |
CUT |
CUT |
T25 |
DNP |
DNP |
全米オープン |
DNP |
DNP |
DNP |
DNP |
DNP |
T36 |
2 |
T11 |
T30 |
DNP |
T16 |
DNP |
DNP |
T14 |
T50 |
T33 |
T33 |
全英オープン |
DNP |
DNP |
DNP |
CUT |
T7 |
T7 |
T12 |
T11 |
T20 |
DNP |
T47 |
DNP |
DNP |
DNP |
T7 |
DNP |
CUT |
PGA選手権 |
DNP |
DNP |
DNP |
DNP |
DNP |
CUT |
DNP |
T4 |
T49 |
CUT |
CUT |
DNP |
T36 |
CUT |
T38 |
T17 |
T40 |
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DNP = 出場せず
WD = 怪我で辞退
CUT = ハーフウェイ・カット
T =順位タイ
黄色はトップ10入り.
シニアメジャー選手権
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大会 | 1993 | 1994 | 1995 | 1996 | 1997 | 1998 | 1999 | 2000 | 2001 | 2002 |
全米プロシニアゴルフ選手権 |
3 |
T5 |
T5 |
2 |
T20 |
T44 |
T15 |
T62 |
T20 |
CUT |
ザ・トラディション |
6 |
T9 |
2 |
T12 |
2 |
T13 |
T28 |
DNP |
T47 |
T35 |
シニア・プレーヤーズ選手権 |
T5 |
T3 |
6 |
T30 |
T2 |
3 |
T14 |
T18 |
T17 |
21 |
全米シニアオープン |
T20 |
10 |
T3 |
11 |
T49 |
T4 |
CUT |
T47 |
T2 |
T18 |
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大会 | 2003 | 2004 | 2005 | 2006 | 2007 | 2008 | 2009 | 2010 | 2011 | 2012 |
全米プロシニアゴルフ選手権 |
CUT |
T27 |
T62 |
T28 |
CUT |
CUT |
CUT |
DNP |
DNP |
DNP |
ザ・トラディション |
T20 |
T53 |
T32 |
T67 |
T71 |
DNP |
T57 |
64 |
DNP |
DNP |
シニア・プレーヤーズ選手権 |
T12 |
T28 |
T18 |
52 |
DNP |
DNP |
DNP |
DNP |
DNP |
DNP |
全米シニアオープン |
T30 |
DNP |
DNP |
T45 |
CUT |
DNP |
DNP |
DNP |
DNP |
DNP |
全英シニアオープン |
T14 |
T22 |
T36 |
T60 |
CUT |
50 |
CUT |
DQ |
CUT |
CUT |
閉じる
- 元々はドローヒッターで飛ばし屋というスタイルであったが、安定させるため持ち球をフェードに変えてから成功している[8]。
- パッティング・スタイルは、前傾を深くしてハンドダウンに構え、パターのトゥを立てた姿勢から、リストでテークバックしダウンブローに打ち込むという、タップ式あるいはリストパッティングなどと呼ばれるスタイルだった。現在ではショルダーストロークと呼ばれる手首をほとんど動かさない打ち方が主流で、この打法は過去のものとされ、実践する選手は少ない[9]。ボブ・トスキはリストパッティングを採りいれていた選手のうち、ゴルフ史上に残る名手として青木、ビリー・キャスパー、ボビー・ロックのいずれも1940年代以前に生まれた3名を挙げている[10]。
- すでに旧式の打法になっていたにも拘わらず、青木はそのスタイルを頑に守り、勝負所のロングパットや難しいラインのパットを次々と放り込み続けた。特に帝王ジャック・ニクラスをして、「パッティングの教科書を書き替えないといけない」と言わしめた。ゴルフ好きで知られ、青木からパターを贈られたこともある第45代アメリカ合衆国大統領のドナルド・トランプは「青木のパッティングは芸術だ。でもあの打ち方は彼にしかできない。決して真似しない方がいい」と発言している[11][12]。
- 非常に自己流に徹しているゴルファーとも呼ばれ、パッティングスタイルと共に、通常のショットにおいても個性的である。外見的な特徴としては、深い前傾姿勢とベタ足の二点が挙げられる。実際に打球する際には腕に意識を多く置くリストターン打法であり、本人は「ボールを直接打つのはクラブで、それを握るのは手なんだよ。多くのプロは体を回す事に重きを置いているが、俺のやり方は違う。」と述べている[13]。メタルドライバーは自身の打法に合わなかったため、ほとんど使用しなかったが、チタンドライバーが世に出ると、打法を変えることなく使えたため、すぐに実戦で使用するようになった[14]。 (ただしパーシモンドライバー時代に比べると、フェースローテーションを抑えているとされる。)
- 全英オープン初挑戦は1977年ターンベリー開催の第106回大会であり、54ホール終了時点で76-72-74のスコアで予選落ちした青木は、英国のリンクスコースを攻略するため、翌年の開催地セント・アンドルーズのオールドコースを視察、帰国して錦ヶ原ゴルフ場の河川敷コースで練習を重ね、1978年の全英オープンに臨んだ。初日68で首位、2日目71で首位キープ、本選は73-73で、優勝したジャック・ニクラスに4打差の7位タイ。
- 1980年全米オープンで「バルタスロールの死闘」を演じたジャック・ニクラスが、優勝インタビューの中で「アオキの (ホールカップから) 100Y以内は世界一だ」と語ったため、この距離内で少ない打数でホールアウトする事を競えば、青木の右に出るものはいないと言われた。これを裏付けるように USPGAのバンカーショット部門 (サンドセーブ率: バンカー内から2打以内でホールアウトした率) では、'80年、'81年と二年連続No,1の座に就いている。'80年代10年間の通算成績でも首位タイに輝いている。
- 青木の長打力に関しては、当時としては距離の長いコースセッティングだったバルタスロールでの全米オープンでの最終日に、日に日に飛距離を伸ばす青木に対して飛ばし屋のニクラスは「You are so long」とその打力を評する言葉を掛けている。[15]
- 中学時代は野球部で、長身の為、一塁手を任されていた。
- 初優勝までは鳴かず飛ばずでどん底生活に甘んじていた。「飲む打つ?で元キャディーだった前妻にはたいへんな重荷を負わせた」と「私の履歴書」に書いている。
- 鷹巣南雄の紹介で王貞治と親交を持つ様になる。青木は「王さんをスポーツ選手の鑑にする」と王貞治を手本として日々を過ごすと、1971年に関東プロで初勝利、その後は王さんと同じように、「“世界”の青木」というニックネームを頂くまでになったと青木は語る[16]。
- 尾崎将司が日本国内のツアーにほぼ専念していたのに対して、青木功はこれまで海外ツアーに積極的に参戦しており、アメリカでは最も名の知れた日本人プロゴルファーの一人である。
- 気さくで開けっ広げな性格で知られる。アメリカPGAツアー参戦後も英語は上手でなかったが、「米ツアーで戦うにはコミュニケーションが必要」と考え[17]、笑顔やボディランゲージを含めて色々な選手らにどんどん話しかけ、多くの人々と友人になれたという。
- グレグ・ノーマンは親友。ノーマンは奇行や人見知りで知られ、他者とはあまり交友関係を持たないが青木とは仲が良く、青木が左肘を故障した際には主治医の紹介やリハビリについてのアドバイスを与え、青木が世界ゴルフ殿堂入りした際にはプレゼンターを務めた。一方でノーマンは、日本ツアーの国際招待ゴルフ・中日クラウンズに出場するにあたり、青木に開催会場の名古屋ゴルフ倶楽部・和合コースの攻略方法を聞き出したりもしていた。その甲斐あって、ノーマンは1989年の30回記念大会で日本ツアー初優勝を果たした。その優勝インタビューの中でノーマンは、「青木のアドバイスのお陰で勝てた」と話していた。ゴルフ解説者の戸張捷の証言によると、二人は会話の際、青木は日本語でノーマンは英語で普通に喋って問題なく意思の疎通が出来るという。戸張曰く「僕の理解の外です」
- ゴルフ界以外の友人も多く、ビートたけしのことを「たけしさん」ではなく「ビートさん」と呼ぶ、数少ない人物でもある。
- 口調はべらんめぇ調で、一時期の口癖は「しゃんめえじゃんよ~」 (仕方がない、の意) 。ゴルフ解説などにおいても、フランクな口調が特徴。
- 私生活では離婚を経験の後現夫人と再婚している。夫人も再婚で夫人の連れ子である義理の娘がいる。このチエさんと結婚してからの青木はそれまでの生活様式や風貌が一変した。
- 日本人初のPGAツアー優勝を果たしたが、後にPGAツアーを勝利している丸山茂樹や今田竜二、松山英樹らがシーズンを通してのツアー参戦であったのに対し、青木は冬と夏のみをアメリカで過ごすという所謂スポット参戦という時差やグリーンの速さの違い等というハンデがつく厳しい条件の下で達成している。自身も著書の中で「行ったり来たりの生活を継続していると時差やグリーン速さの差やフォームのずれ等を調整するのが大変だった。中にはアメリカに行かなければこんな苦労をせずに済んだという人もいた。」と記している。
- アメリカなどの英語圏では、「アイセイオー・エイオーキ」、「アイザオ・エオーキ」などと発音されていたが、'80年の全米オープンでの活躍以後は「イツァオ・ェイォーキィ」と、日本語読みに近い発音で呼ばれるようになる。
- 米国レギュラーツアー時代は、長いパットを次々と放り込む姿や、難しいバンカーからの絶妙な寄せ技などから「東洋の魔術師 (オリエンタル・マジシャン) 」と呼ばれた。
- 1978年の「世界マッチプレー選手権」で海外ツアー初優勝後は「世界の青木」と呼ばれるようになった。青木自身は「青木功は青木功。何も変わっちゃいないんだ」と、急に「世界の」という冠を付けて語られ始めたことに、当初は戸惑いを表明していた。
- ライバル尾崎将司のニックネーム「ジャンボ尾崎」にちなんで、一時「コンコルド青木」と呼ばれていた時期もあったが、定着することは無かった。
DVD
- 青木功 生涯ゴルフの方程式 (2005年4月23日、発売元: 青木功ゴルフ企画/エンジンネットワーク、販売元: 紀伊國屋書店、品番: KKCS-22~23)
ビデオ
- GOLF 青木功の世界 Part1~Part3
- NHK趣味百科 青木功のベストゴルフ Vol,1~Vol,3 (定価各5,000円)
- 青木功のゴルフ早わかり OUT編/IN編
- 青木功の勝つためのゴルフ オリジナルレッスン・イン・ハワイ 第1巻/第2巻
- 青木功・倉本昌弘のゴルフ帝王学(Vap、1985年)
監修
- 『青木功「体」の奥義 「プロ生活50年、72歳まだまだ現役」を可能にした考え方とエクササイズ』(著者:比佐仁)(2014年10月22日、ベースボール・マガジン社)ISBN 9784583106267
注釈
ただし、「AO木」は「アオキ」ではなく「エオキ」と読む。
出典
『チョイス』ゴルフダイジェスト社 2002年5月号219頁
『チョイス』ゴルフダイジェスト社 2010年2月号
『バッフィー』CBS・ソニー出版 1991年1月号35~37頁
『チョイス』ゴルフダイジェスト社 2006年7月号114~115頁
『チョイス』ゴルフダイジェスト社 2005年9月号83頁