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鈴木 澄子(すずき すみこ、1904年10月26日 - 1985年1月18日[1])は、日本の女優である。「化け猫女優」として一世を風靡[1]。初期芸名は鈴木 すみ子(読み同)。
1904年(明治37年)10月26日、東京府東京市下谷区(現在の東京都台東区下谷)に生まれる[2]。
1921年(大正10年)、満15歳のとき、トーマス・栗原(栗原喜三郎)に見出され[1]、前年に設立された大正活映に入社、同年5月11日公開の栗原の監督した短篇映画『喜撰法師』に出演してデビューする[1][3]。同社には俳優として、岡田時彦(当時は野羅久良夫)、井上金太郎(当時は栗井饒太郎)、内田吐夢(当時は閉田富)、二川文太郎らが在籍した。
1922年(大正11年)、同社が製作を停止すると、京都に新設された小笠原映画研究所(小笠原プロダクション)に移籍、同所を主宰する小笠原明峯が監督した現代劇『三色すみれ Love in Idleness』に出演した[3]。翌1924年(大正13年)には東亜キネマに移籍した[3]。
帝国キネマ演芸を経て、1925年(大正14年)、マキノ・プロダクションに移籍する[3]。二川文太郎らの監督作に主演し、多くの映画に出演した後、1928年(昭和3年)、牧野省三の監督作『忠魂義烈 実録忠臣蔵』に出演したのを最後に、京都を離れ、東京・巣鴨の河合プロダクション(のちの大都映画)に移籍した[3]。翌1929年(昭和4年)には市川右太衛門プロダクションに移籍、1930年(昭和5年)には再び帝国キネマに入社した[3]。
1931年(昭和6年)、帝国キネマの新興キネマへの改組にあたり、継続入社し、1937年(昭和12年)、木藤茂が監督した『佐賀怪猫伝』に大友柳太郎とともに出演、同作のヒット以来、多くの怪談映画に主演し[1]、「化け猫女優」と呼ばれた[1]。
1941年(昭和16年)、吉田信三監督の『羅生門』に茨木の童子役で主演したのち、翌1942年(昭和17年)の戦時統制による同社の大日本映画製作(のちの大映、現在の角川映画)への統合にあたり退社、「鈴木澄子一座」を結成して実演の巡業を開始した[1]。
1985年(昭和60年)1月18日、脳出血が原因で死去した[1]。満80歳没。生涯で200作を超える映画に出演した[3]。
すべて出演である[3]。
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