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日本の男性プロレスラー (1976-) ウィキペディアから
諏訪魔(すわま、1976年〈昭和51年〉11月23日[1][2] - )は、日本の男性プロレスラー。本名・旧リングネーム:諏訪間 幸平(すわま こうへい)[1]。神奈川県藤沢市出身[1][2]。全日本プロレス所属。血液型A型。
実父がプロレスファンで、諏訪魔も幼い頃からプロレスのテレビ中継を好んで見ていた[3]。
藤嶺学園藤沢高等学校[4]時代は柔道部で活躍(入学当初は柔道部でいじめに遭い、登校拒否寸前であったと自ら告白している)し、中央大学進学後にレスリングを始めて主将となる。卒業後はクリナップに就職しレスリングを続けた。
2001年12月、天皇杯全日本レスリング選手権大会・フリースタイル130kg級(最重量級)に出場。準決勝で田中章仁[5]、3位決定戦で沢田直樹に敗れ4位となった[6]。
2002年7月、全日本社会人選手権では両スタイル優勝、10月の国体も吉田清太郎[7]を決勝で破り、初優勝を果たす。12月の天皇杯全日本選手権大会・フリースタイル120kg級では決勝で田中に敗れ、準優勝となった[8]。
2003年5月、全日本選抜選手権・フリースタイル120kg級決勝で田中を破り優勝[9]。9月に行われた世界選手権に出場するも、予選敗退で18位に終わる。12月の天皇杯全日本レスリング選手権大会・フリースタイル120kg級では、決勝で前年と同じ顔合わせとなった田中に敗れ、2年連続の準優勝にとどまった[10]。
2004年のアテネオリンピックを目指すが、自分の階級の出場枠が無くなったこともあり馳浩のスカウトで27歳でプロレスに転向[4]。
2004年4月に全日本プロレスに入門し、同年10月11日後楽園ホール大会での馳戦でデビュー。
試練の7番勝負初戦ではベイダーと戦い、ベイダーのその巨体を投げ切った。しかし、この途中でヒールターンしたため、試練の7番勝負は5戦しか行っていない。
2005年1月4日には、ヘビー級バトルロイヤルで優勝して賞金100万円を獲得。後に武藤敬司と組み、世界タッグ王座に挑戦した。
2006年1月8日の大阪大会で「VOODOO-MURDERS」(VM)へ加入、ヒールターンを果たすと、この頃から同年2月にリングネームを諏訪魔に改名した。同年のチャンピオン・カーニバルでは、当時三冠ヘビー級王者の小島聡を破り準優勝。6月10日の熊本三井グリーンランド大会「武藤祭」にて、小島の三冠王座に挑戦したが、敗れた。
2007年のチャンピオン・カーニバルでは予選で敗退した。同年、12月に行われた世界最強タッグ決定リーグ戦には小島とのタッグで出場、武藤&ジョー・ドーリング組に敗れはしたものの、準優勝となった。
2008年1月3日の後楽園大会にてVMを離脱した。同年4月、決勝戦にて同学年で新日本プロレスの棚橋弘至を下し、デビューから最短でチャンピオン・カーニバル優勝を果たした。同月29日には、三冠王者の佐々木健介をも破り、デビューから最短で三冠ヘビー級王座初戴冠も果たした。
9月28日、グレート・ムタに敗れ三冠王座から陥落した。同年の世界最強タッグリーグ戦には近藤修司とのタッグで出場し、準優勝を果たした。
2010年8月29日、鈴木みのるを破って2度目の三冠ヘビー級王座を奪取すると、翌日には全日本プロレス選手会長に就任した。ところが同年9月10日、諏訪魔は後楽園大会にて観客の野次に激怒して観客席にマイクを投げ、全日本プロレス側から厳重注意と3か月間30%の減給処分を下された。同年12月、諏訪魔は浜亮太をパートナーに迎え世界最強タッグリーグ戦に出場し、5年連続の準優勝を果たす。同月、第37回プロレス大賞で殊勲賞を獲得した。諏訪魔は「今年一年いろいろ先頭に立って全日本プロレスを引っ張っていこうという行動がこうやって“殊勲賞”という形で評価されたのは嬉しい」とのコメントを寄せた。
2011年4月、チャンピオン・カーニバルにて永田裕志と対戦するも敗れた。諏訪魔も結局優勝決定戦には進めず、永田のチャンピオン・カーニバル制覇を許してしまうという要因を作ってしまった(なお、永田の決勝の相手は真田聖也であった。)。同年6月、両国国技館大会の三冠戦にて永田に勝利してリベンジを果たす。同年7月、チャンピオン・カーニバル準優勝の真田と三冠戦を行い、勝利。この三冠戦は武藤体制になって、以降の入門生同士による初の三冠戦となった。同年10月、チャンピオン・カーニバルで対戦する機会が全く無かった当時プロレスリング・ノアの秋山準との対戦を熱望し、両国大会での三冠戦で激突するも30分を超える激闘の末、秋山のスターネスダストαで敗れ三冠王座から陥落した。この試合は、同年プロレス大賞ベストバウトの選考にノミネートされた。
2012年、諏訪魔の出身地でもある藤沢市で5月12日に地元凱旋興行と銘打って、全日本プロレスがチャリティープロレス大会を秩父宮記念体育館(藤沢市鵠沼東)で開催[11][12]し、当日は1,850名の観衆を集めてメインイベントに出場、凱旋勝利を飾った[13]。同年10月21日、名古屋国際会議場大会にてドーリングとシングル・マッチで対決した。諏訪魔も戦いを通してドーリングと意気投合し、「ラスト・レボリューション」(L/R)を結成する。同年の世界最強タッグでは決勝進出を果たしたものの、優勝決定戦ではGET WILDに敗れ準優勝に終わった。
2013年3月17日、両国大会で三冠王者であった船木誠勝を下し、3度目の三冠ヘビー級王座を戴冠。L/Rに近藤修司、カズ・ハヤシ、中之上靖文が相次いで加入し、戦力も増強した。
2013年6月、白石体制が発足し多数の選手・スタッフの離脱が示唆される中、いの一番に諏訪魔も残留を表明し、新生全日本プロレスの名実ともにエースとなった。一方で、L/Rのメンバーも諏訪魔とドーリング以外は退団の道を選び、L/Rは解散となった。7月より、二人でチーム「エボリューション」を結成する。同年10月22日、新潟県の三条大会にてエボリューションで世界タッグ王座に挑み、5度目の正直で戴冠。これにより、諏訪魔は武藤以来の三冠ヘビー級王座、世界タッグ王座を同時に所持する五冠王となった。5日後の27日、両国大会にて曙に敗れ三冠王座を手放すことになった。
2014年1月、「チャリティー大和大会〜すわまちおこし Vol.3〜」のプロモーションとしてコンビニエンスストアのローソンの一日店長体験イベントを行うなど、リング外でも精力的に活動した。同年6月28日、札幌テイセンホール大会にて秋山&大森隆男組に敗れ、世界タッグ王座から陥落するが翌29日の同会場にて大森を破り、4度目の三冠ヘビー級王座を獲得した。7月27日の後楽園大会では、同志でもあるドーリングとの初防衛戦に挑み、敗れた。
2015年5月5日、諏訪魔はIGF大阪大会に来場し、藤田和之と睨み合い対戦をアピールした。諏訪魔は11月1日の弘前大会にて佐藤光留とのタッグで船木&ケンドー・カシンと対戦した。しかし試合後、カシンのセコンドとして来場予定だった藤田が登場すると、諏訪魔もエプロンサイドで煽り合いを展開し乱闘寸前までに至った。そして迎えた同月15日、天龍源一郎の引退興行にて藤田とのタッグマッチが実現した(パートナーはお互いに岡林裕二、関本大介)。試合開始直後、両者ともに3分にも及ぶにらみ合いをしながら壮絶な打撃戦・場外乱闘も展開したが、諏訪魔も終始、藤田とは噛み合わず消化不良のまま試合は岡林が関本をゴーレムスプラッシュで仕留めた。試合後藤田が空気を読まず、マイクパフォーマンスをしたところに諏訪魔は、「俺は天龍さんみたいな熱い試合がしたいんだよ!」と絶叫し、観客の後押しをかろうじて得た[14]。世界最強タッグには、互いにパートナーを欠く宮原健斗とタッグを組み優勝した。だが、諏訪魔は試合後の握手を拒み宮原を袋だたきにし、宮原にNEXTREAM結成のきっかけを与えることとなった。
2016年1月2日の後楽園ホール大会で秋山を下して自身5度目となる三冠ヘビー級王座(第54代)を獲得したが、その試合で諏訪魔は右足首に違和感を覚えて後日病院で精密検査を受けたところ、右足アキレス腱完全断裂が判明したことにより1月12日に三冠王座を返上して治療のために休養に入った[15]。7月15日、後楽園大会にて復帰。同年の王道トーナメントにて初優勝し、満を持して宮原との三冠戦に挑むも敗れた。世界最強タッグでもNEXTREAMに一歩及ばず、グループリーグで敗退となった。
2017年、留学生の時代から長年苦楽を共にし、諏訪魔のL/R時代からのパートナーでもあったドーリングが脳腫瘍より完全復帰するものの、7月にはエボリューションを脱退。一方で、前年よりフリーランスとして参戦していた石川修司とのコンビ「暴走大巨人」を結成する。王道トーナメントでは2年連続で優勝を飾り、10月9日の後楽園大会では三冠戦で宮原を降し、6度目の戴冠(三沢光晴・川田利明を抜き歴代最多戴冠回数を記録)を果たすも、12日後の同月21日横浜文化体育館大会にてドーリングに敗れ、三冠を失冠。世界最強タッグでは暴走大巨人で参戦し優勝、同年のプロレス大賞にて最優秀タッグチーム賞を獲得した。
2018年は前年の勢いを駆り、1月3日に暴走大巨人で世界タッグ王座を獲得。しかし約1ヵ月後の2月3日、横浜文化体育館大会で宮原&ヨシタツ組に敗れ、初防衛に失敗した。藤田やカシンらの「はぐれIGF」と抗争しつつ、6月30日には札幌で暴走大巨人として2度目の世界タッグ王座を獲得する。4度の防衛を重ね世界最強タッグでは準優勝となるも、プロレス大賞最優秀タッグチーム賞を2年連続で受賞した。
2019年、1月13日の後楽園大会で関本&岡林組に敗れ、世界タッグ王座から陥落するが同年3月19日に同会場で奪回した。チャンピオン・カーニバルや王道トーナメントでは結果が出ず、世界タッグ王座も9月3日にゼウス&崔領二組に敗れ手放すが、世界最強タッグでは暴走大巨人で優勝し、3年連続でプロレス大賞最優秀タッグチーム賞を受賞した。
2020年1月2日、ゼウス&崔組より世界タッグ王座を奪還し、暴走大巨人として4度目の戴冠を果たす。新型コロナウイルス感染症の流行により興行数が激減する中、三冠王座の連続防衛記録更新を狙う宮原に挑戦し勝利。7度目の戴冠を果たすと同時に、自身2度目となる五冠王に返り咲いた。このあと、タイトルは防衛しつつも精彩を欠き、秋にスライドされたチャンピオン・カーニバルはわずか1勝の最下位タイ、世界最強タッグはすんでのところで優勝を逃した。世界最強タッグに優勝した宮原&青柳組の世界タッグ王座挑戦を受け、負けたら暴走大巨人の解散を宣言した[16]。そして迎えた2021年1月2日の選手権試合にも敗れ、公約どおり暴走大巨人は解散となった[17]。その後も三冠王座の防衛は続けてきたが、チャンピオン・カーニバル優勝者のジェイク・リーを迎え撃つ6月27日大田区総合体育館大会を前に、諏訪魔の新型コロナウイルス感染症への罹患が判明した。諏訪魔も大会を欠場するとともに、三冠王座を返上した[18]。
暴走大巨人解散後は、Enfants Terribles分裂時より共闘していた芦野祥太郎と正式にコンビを組み、宮原&青柳組から世界タッグ王座を奪還して自身6度目の戴冠を果たす[19]。芦野とのコンビは「暴走SUPLEX」と命名[20]。しかし2022年5月15日のホテルエミシア札幌大会で諏訪魔は芦野に決別のバックドロップを放ち、暴走SUPLEXは解散となった。
2022年3月21日、一日限りで復活したVMに、諏訪魔も髪を赤く染め合流。その後、同年5月にVMは本格復活を遂げ、諏訪魔も5月25日に本格的にVMに再加入し、エボリューションと決別した[21]。なお、専務・諏訪間幸平として公の場に出るときは黒髪となり、諏訪魔としての記憶は持ち合わせていない[22]。
7月14日にはジェイクを破り、自らの持つ歴代最多記録を更新する8度目の三冠戴冠を果たす。さらに王道トーナメントのボイコットを宣言、TARUを代替選手に指名[23]し、宮原を再三VMに勧誘するなど暴れ回るが、9月18日・日本武道館大会にて宮原に敗れ、またも三冠を明け渡した。
2023年5月29日、VMから追放された[24]。
三冠ヘビー級王座、チャンピオン・カーニバル共、デビューから3年5か月というジャンボ鶴田をも上回る史上最速で制覇している(三冠はその後、浜に記録を破られた)。
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