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日本の文芸評論家 ウィキペディアから
秋山 駿(あきやま しゅん、1930年〈昭和5年〉4月23日[1] - 2013年〈平成25年〉10月2日[1])は、日本の文芸評論家、日本藝術院会員。位階は従四位。本名は駿(すすむ)[1]。
東京府池袋出身[1]。旧制東京都立第十中学校(現・東京都立西高等学校)を経て[1]、1948年に旧制第二早稲田高等学院入学[1]、翌年学制改革により新制早稲田大学第一文学部仏文科に移り[1]、1953年に卒業する[1]。1956年6月、報知新聞社に入社[1]。1960年「小林秀雄」で『群像』第3回新人文学賞評論部門受賞[1]。評論「内部の人間」「想像する自由」(いずれも1963年発表)などを、久保田正文や三島由紀夫に激賞された[1][2]。1979年から1993年まで東京農工大学教授[1]、1997年から武蔵野女子短期大学・武蔵野女子大学教授[1]。1997年に日本芸術院会員[要出典]。2001年同大学を定年退職[1]。2002年客員教授を務めた[1]。2004年11月、旭日中綬章を受章[1]。2013年10月2日に食道がんのため死去[3]。83歳没。
「石ころ」が秋山駿の批評のキーワードだと言われる[要出典]。目の前の石ころから発想するのである[2]。群像新人賞を受賞したが、以後三年間低迷する。『群像』が批評を掲載してくれないので、もう一度新人賞に応募しようとして止められたという。内向の世代の同伴者的批評家として出発する。[要出典]
『恋愛の発見』では、恋愛とは犯罪に似ており、「俺は、こうする」というもので、学校的な知性では計れないものだと論じた。『信長』は、ベストセラーになった。大病を患ったがそこから復活し、晩年は『私小説という人生』で、改めて私小説を擁護し、話題となった。[要出典]
瀬戸内寂聴、渡辺淳一など、通俗作家としてあまり文芸評論家が論じない作家を積極的に評価した。早くから時代小説家では、藤沢周平や宮城谷昌光を評価した(『時代小説礼賛』[要ページ番号]より)。
中上健次は、1985年の共同討議「戦後文学の「内部」と「外部」」のなかで、かつては秋山の「忠実な読者」だったと発言しているが、同時に、人間中心主義・文学中心主義的な傾向が強まったとして、その変化に不満を表している[4]。中上の発言を受けて、中野孝次は、文学作品や団地での生活に対しても同じように考えており秋山に変化はなく、そのような不満を抱くのは親切に読まないからだと擁護している[4]。
『近代日本の批評 昭和篇(下)』では「内向の世代」の批評家として言及されている。蓮實重彦は、秋山の批評が中上健次の初期作品に一定の影響を与えているとの見方を示しているほか、秋山を「愚鈍の人」と特徴づけ、それが徹底的でない点が惜しいと評する[5]。柄谷行人は、1960年代後半における秋山の思索の「単独性」が非常に好きだったとして、「ぼくが六〇年代で実存主義的だと思うのは、秋山だけです」と語っている[5]。三浦雅士は秋山を「批評家というよりむしろ詩人」であると述べており、浅田彰は長年の著述のなかで「石ころ」がフェティッシュなものへと変化してしまっているとコメントしている[5]。
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