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日本の戦国~江戸時代の武将・大名、初代信濃上田藩、信濃松代藩藩主 ウィキペディアから
真田 信之(さなだ のぶゆき)は、戦国時代から江戸時代前期の武将、大名。信濃上田藩の初代藩主、後に信濃松代藩の初代藩主。信幸と表記される場合もある。
真田信之像(個人蔵) | |
時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 永禄9年(1566年) |
死没 | 万治元年10月17日[1](1658年11月12日) |
改名 | 源三郎(仮名)→信幸(初名)→信之 |
別名 | 一当斎(号) |
戒名 |
大鋒院殿徹巌一当大居士 大法院殿徹岩一明大居士 |
墓所 |
長野県長野市松代町松代の眞田山長國寺 長野県長野市松代町柴の眞田山大鋒寺 和歌山県伊都郡高野町高野山の高野山蓮華定院 京都市右京区の正法山妙心禪寺塔頭大法院(龍泉派) |
官位 | 従五位下、伊豆守、従四位下侍従 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 武田勝頼→真田昌幸→豊臣秀吉 → 豊臣秀頼→徳川家康→秀忠→家光→家綱 |
藩 | 信濃上田藩主→松代藩主 |
氏族 | 武藤氏→真田氏 |
父母 | 父:真田昌幸、母:山手殿 |
兄弟 | 村松殿、信之、信繁、信勝、昌親、真田幸政室、鎌原重春室、保科正光室、趙州院、清光院(妻木頼熊室)、於楽 |
妻 |
正室:小松姫 側室(始め正室[注釈 1]):清音院殿(真田信綱の娘) 側室:右京(玉川秀政の娘) |
子 |
信吉、信政、信重、まん(高力忠房室) まさ(佐久間勝宗室)、道鏡慧端 |
永禄9年(1566年)、武藤喜兵衛(後の真田昌幸)の長男として生まれる[2]。父は三男であったため武田家の親類衆・武藤家を継承していたが、天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いで兄の信綱・昌輝がともに戦死したことから真田姓に復姓して家督を継承した。信幸(信之)は信綱の嫡女である清音院殿を妻に迎えているが、このいとこ同士の婚姻の背景には、昌幸が真田家当主としての正当性を確保する意図があったことが指摘される[3][4]。昌幸は庶流家ということもあり、永禄10年(1567年)3月頃までの真田信綱の家督相続後に幸綱・信綱宛の文書は、福井藩士となった昌輝子孫に「越前真田家文書」として伝来しており、昌幸は「家伝文書」を相続することができない事情があったと考えられている[3]。なお、婚姻時期も速やかに家督継承を行う為、信綱の戦死から間を開けず、比較的早い段階であったと推測される。ただし、天正3年には信幸もまだ幼年(10歳)であったので、婚約という形をとった可能性が高い。
その後、信幸は武田家の人質として過ごした[5]。『加沢記』に拠れば、天正7年(1579年)に武田勝頼の嫡男・信勝の元服と同時に元服を許され、信玄(忌み名は晴信)の1字を賜って信幸と名乗ったとされるが[5]、「信」の偏諱は勝頼からとする説もある[6]。初見史料は天正6・7年の『真田氏給人知行地検地帳』で、「若殿様」として名が見られる。
天正10年(1582年)3月に武田家が織田信長の甲州征伐によって滅ぼされると、同じく人質だった母の山手殿と共に上田の父の元へと逃れた[5]。
信長が本能寺の変(1582年6月)で死去した後に甲斐・信濃の武田遺領を巡る天正壬午の乱が発生した。相模国の北条氏直は織田家臣・滝川一益を神流川の戦いで破ると、真田家は後北条氏に臣従の構えを見せた(このため北条氏は川中島まで侵出し上杉氏と対峙することになる)。この時、上野を放棄して織田領へ逃走する滝川を支援し、途中まで見送ったという[5]。
同じ頃、越後国の上杉景勝が信濃へ進出していたが、信幸は川中島へ度々出陣し上杉領の海津城を撹乱した。だが、やがて徳川家康に臣従した武田遺臣・依田信蕃や叔父の真田信尹らの誘いにより、沼田城を北条方から奪還し、真田家は北条氏と敵対する。信幸は手勢800騎を率い、北条方の富永主膳軍5,000が防衛する手子丸城を僅か一日で奪還し、武功を挙げたという(『加沢記』)。依田信蕃らのゲリラ戦も功を奏し、真田家は北条方を沼田から駆逐することに成功する。
天正12年(1584年)、真田家は信濃小県郡の国人室賀氏と争い、小規模戦闘にて勝利を重ね、和睦に持ち込む。直後に信幸は父・昌幸と共謀して当主・室賀正武を暗殺し、小県郡の同族であった根津昌綱を懐柔し真田氏は小県を支配下に治めた。同年、なおも真田領を狙う北条氏の侵攻に対し、北条氏邦の奇襲を察知した信幸は吾妻仙人窟にてこれを撃退している(『松城通記』)。
天正13年(1585年)、徳川・北条同盟による上野沼田領の割譲を巡って真田氏は徳川氏と断交し上杉氏に臣従した。信幸は昌幸に従い、徳川軍と戦った(第一次上田合戦)。信幸は支城の戸石城に兵300余名で着陣した。徳川軍が神川を渡河すると、神川まで出陣して軽く一戦を交えたのち、城に向けて退却し、徳川軍の主力部隊を巧みに奥地に誘き寄せたり、城から撤退してきたところを側面から攻撃するなどして勝利に貢献した。
その後、昌幸は上杉景勝を介して豊臣秀吉に臣従し、天正17年(1589年)には家康とも和睦が成立すると、真田家は徳川氏の与力大名となった。信幸の才能を高く評価した家康は重臣の本多忠勝の娘・小松姫を養女とし、駿府城に信幸を出仕させて娶らせた[5]。
天正18年(1590年)、沼田領割譲問題から発生した小田原征伐で信幸は上野松井田城攻めで戦功をあげ、戦後に沼田領が真田家の所領として確定すると沼田城主となる[7]。
文禄3年(1594年)11月2日には従五位下伊豆守に叙任される[7](同日、弟・真田信繁は従五位下左衛門佐に叙任)。その後、年月日不詳ながら従四位下に昇叙し、侍従を本官に伊豆守を兼任する。文禄・慶長の役では肥前名護屋まで赴いている。
秀吉死後、慶長5年(1600年)に失脚していた五奉行の石田三成が挙兵する。父(妻の山手殿は石田三成の妻と姉妹という説があり、この山手殿は信幸・信繁の兄弟にとって実母でもある)と弟の信繁(妻が西軍幹部の大谷吉継の娘である竹林院)は三成らの西軍に付いたのに対し、家康の養女かつ徳川重臣の本多忠勝の娘の小松姫を妻とする信幸は家康らの東軍に参加することを決め、家康の息子で東軍主力隊の徳川秀忠軍に属して上田城攻め(第二次上田合戦)に参加する。戦いの前に本多忠勝の息子で信幸の義弟(妻・小松姫の弟)である本多忠政と共に父昌幸の説得に赴いたが、結局失敗に終わったとされる。
信幸は信繁が防衛する戸石城の攻略を命じられたが、真田兵同士の消耗を避けるため開城請求の使者を派遣、弟信繁も信幸の意を汲み開城に応じた。信幸は入城後守備し、信繁は昌幸のいる上田城へ撤退した。なお、秀忠軍本隊は家康の使者の遅れもあって、家康本隊との合流に遅れて関ヶ原の戦いには遅参し、本戦には参加できなかった。
戦後、昌幸の旧領に加え3万石を加増されて9万5,000石(沼田3万石を含む)となり上田藩主となったが、上田城は破却を命じられた(上田城の再建修築は、後に上田藩主として入った仙石氏が行う)。引き続き沼田城を本拠とした。信幸は昌幸らの助命を嘆願し、西軍に付いた父との決別を表すために、名を信幸から信之に改めている(なお、慶長13年(1608年)から17年(1612年)までは再び「信幸」と文書に署名していることを踏まえて、平山優は単純に家康を憚って父の名に由来する「幸」を捨てたとは言えないとしている[8])。義父・本多忠勝の働きかけもあり、昌幸らは助命され紀伊国九度山へ流罪となる。その後、父が亡くなった折に父の葬儀を執り行えるよう幕府に許可を願い出たが、許されなかった。
信之が上田領を継いだ頃、第二次上田合戦や相次いだ浅間山の噴火で領内は荒廃しており、その後も浅間山の噴火や気候不順など天災が相次いだが、信之は城下町の整備や堰や用水の開削、年貢の減免など様々な政策を行って領内の再建に苦闘する一方、九度山にいる父や弟への援助を続けていた[9]。
慶長19年(1614年)からの大坂の陣では病気のために出陣できず、長男の信吉と次男の信政が代理として出陣した。元和8年(1622年)10月、信濃松代に加増移封され[7]、13万石(沼田3万石は継承)の所領を得る。
明暦元年(1656年)、長男の信吉や嫡孫で信吉の長男・熊之助が既に死去していたため、次男の信政に家督を譲って隠居する。しかし万治元年(1658年)2月に信政も死去した。この時、真田家では後継者争いが起こり、長男の血統(信吉の次男)である沼田城主・信利が次男の血統(信政の六男)である幸道の家督相続に異議を唱えて幕府に訴える事態となり、幕府や縁戚の大名を巻き込んだ騒動となる。最終的には幸道が第3代藩主となり、2歳の幼少のために信之が復帰して藩政を執った(この騒動により信利の領地は沼田藩として独立し、松代藩は10万石となる)。
同年10月17日に死去[7]。享年93。辞世は「何事も、移ればかわる世の中を、夢なりけりと、思いざりけり 」。
墓所は長野県長野市の大鋒寺にあり、肖像画も所蔵されている。また、真田家の菩提寺長国寺には、藩祖信之の霊屋など歴代藩主の墓所が設けられている。真田家は江戸時代を通じて存続し、途中で養子が入り信之の系統は断絶したものの、幕末に幸貫が老中となっている。明治維新後に子爵(後に伯爵)家となった。
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側室
子女
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