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1911-1988, 昭和期の小説家 ウィキペディアから
田宮 虎彦(たみや とらひこ、1911年8月5日 - 1988年4月9日)は、日本の昭和期の小説家。『足摺岬』や『絵本』など希望の無い時代の孤独な知識人の暗い青春を描いた半自伝的作品や、弱者に対するしみじみとした愛情に支えられた独特のリアリズム小説を発表し、戦後高い評価を受けた。『落城』『霧の中』などの歴史物でも知られる。
東京生まれ、神戸市に育つ。船員である父親の都合で転居を繰り返し、兵庫県立第一神戸中学校から第三高等学校に進学し[1]、1933年に卒業[2]。三高では彼の入学年度から保証教授制度により学生の管理が厳しくなったが「別に不自由な制度とは思わず、実に自由に遊び呆けて、三高生活に突入していった」と自ら明るい学生生活を振り返っている。同期生に青山光二、森本薫らがおり、文芸部の先輩に西口克己、文芸部長に林久男、担任に山本修二、桑原武夫(講師)がいた[3]。
東京帝国大学文学部国文学科在学中から、同人誌『日暦』に参加し、小説「無花果」などを発表した。『帝国大学新聞』の編集部員として三高出身の作家を訪ね歩き、武田麟太郎や丸山薫宅には足しげく通い、詩や小説を読んでもらった[3]。大学卒業後都新聞に入社するも『人民文庫』研究会の無届集会により逮捕され同社退社[4]。『人民文庫』には1936年の創刊とともに参加していたが、治安維持法により度重なる発禁処分を受けた人民文庫は廃刊。「沈没しようとしていた船からいち早く脱出した鼠」と古澤元は自主解散派だった田宮を評した。その後、女学校教師などをしながら小説修業を続ける。1938年に外務省系列の国際映画協会で知り合った平林千代と職場結婚[4]。1947年に『世界文化』に発表した「霧の中」で注目され、小説家生活に入る。以降、精力的に作品を発表。 1950年『世界』に発表した「絵本」[5]が、翌年毎日出版文化賞を受ける。
1956年11月、妻を胃癌で喪って悲嘆に暮れる。1957年、亡妻との往復書簡が『愛のかたみ』の題名で光文社から刊行されベストセラーとなり多くの日本人が感動した。しかし、『群像』1957年10月号で平野謙が「誰かが言わねばならぬ──『愛のかたみ』批判」で夫婦観や文学観を「変態的」と評論した[6]。田宮は反論することなく自ら同書を絶版とし、次第に執筆活動から遠ざかっていった[4]。1980年7月には小田切秀雄がカルチャーセンターの講義で「平野謙さんから聞いた話」として、田宮のことを「『愛のかたみ』の印税で女と遊んでいた」と発言[7]。これに対し、田宮は『新潮』1980年10月号に小文「トルストイとスターリン」を発表し、抗議した。
晩年はハンセン氏病の療養所の医師をしていた義弟の葬儀をきっかけにハンセン氏病の偏見をなくすために長編の雑誌連載をしたいと丸四年をかけて全国13カ所の国立療養所を取材したが実現しなかった[4]。
1988年1月に脳梗塞で倒れ日産玉川病院にて療養、右半身不随になり、リハビリを経て3月末に退院。同年4月9日午前9時15分頃、同居人である旧友の子息の不在中に東京都港区北青山2丁目のマンション11階ベランダから投身自殺を図る。その後東京女子医科大学病院へ搬送されたが、午前10時前に死亡が確認された[8]。脳梗塞が再発し手がしびれて思い通りに執筆できなくなったため命を絶つとの遺書が残されていた。享年77。墓所は多磨霊園にある。
妻を喪った翌年、追悼文と妻との往復書簡をまとめた『愛のかたみ』(1957年)を出版すると、平野謙は『群像』に「誰かが言わねばならぬ──『愛のかたみ』批判」を発表した。平野は本書に収録された田宮夫妻の甘いやりとりに「こういう特殊な、不自然な、変態的な書物が、なにか普遍的な、正常な、純愛ふうの物語として、世に受け入れられているらしい事実に、黙っていられぬ気がし」て、理解を絶するものだと激しく批判し、妻を亡くした世の夫たちと同様に、田宮の気持ちの中にも妻からの解放感が隠されているはずだと推論し、さらには田宮の『絵本』『菊坂』は二流小説であり、『足摺岬』は三流だとまで書いた[7]。
これに対し、田宮は沈黙したままだったが、1980年に小田切秀雄が平野から聞いた話として田宮は『愛のかたみ』の印税で女と遊んでいたとカルチャーセンターで話した際には同年の『新潮』に「トルストイとスターリン」の小文を発表し、自身は平野からも小田切からも事実を確かめる問い合わせを受けておらず、とはいえ二人は無責任な話をする人とは思えないから話を心にとめておくだけにしたが、スターリンの悪辣な捏造工作によって陥れられ、粛清され犠牲となったソ連共産党の古参党員を思い出したと書き綴った[7]。
父は高知市、母は香美郡香宗村(現・香南市)の出身。高知へ帰ることも多く、土佐を郷里と意識していた。「足摺岬」など土佐を題材とした作品も多い。船員の父親から激しい折檻をうけて育ち、父との折り合いが悪く大学在学中も母の密かな仕送りで生活していた。
『菊坂』『絵本』『足摺岬』『異母兄弟』といった田宮の小説の基本モティーフは、人が人であることへの絶望感である。『絵本』そして『絵本』の続編的内容である『足摺岬』などが代表作とされる。その私小説世界は、いまなお多く読者の心を捉えている。
『霧の中』『落城』などの歴史小説も評価が高く、戊辰戦争から十五年戦争にかけて激動の時代の中で、運命に翻弄される人々の絶望、それに苦悩する魂を清冽な叙情でつづった。
NHKで放映した彼の作品の特集番組では「(『絵本』『足摺岬』の)昭和のあの暗い時代と現代と何がどれほど本質的に変わったのか」と田宮自身が語る映像で締めくくっている。
上記のほか、テレビドラマとして、1956年から1978年までの間に少なくとも30本の作品が放送されている。
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