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田代 祐一(たしろ ゆういち、1959年2月3日 - )は、日本の元オートレース選手。千葉県出身。15期、伊勢崎オートレース場所属。
現役引退後は高崎にたこ焼きバー「蛸一」を開店。伊勢崎オートレース場や川口オートレース場で出張販売する事がある。
田代祐一は1980年代半ばから一躍全国区に躍り出た選手である。
1977年、父(田代禮三。元船橋オートレース場所属。期前、引退)の後を追ってデビュー。当初は川口に配属されたが、まもなく新設された伊勢崎オートレース場へ転属となった。
1982年の第14回日本選手権オートレース(飯塚オートレース場)にフジの単気筒で特別初出場を果たしたものの、その時は初日の試走時に落車してしまった。
翌1983年の第15回日本選手権オートレース(浜松オートレース場)にはトライアンフに乗り換えて出場。当時準決勝戦は第9、第10、第11レースの3個レースしか行われておらず、優勝戦へ勝ち上がれるのは、準決勝での1、2着の選手と、3着の選手のうち競走タイム上位の二名であった。この準決勝戦で3着となった田代は、同じく準決勝戦で3着だった飯塚将光とのタイム差、それもコンマ数秒の差で敗れ、優勝戦への進出を逃してしまった。
その後、記念レースをいくつも制覇した田代だったが、特別レース=日本選手権オートレースはなお高い壁として存在していた。
しかし、1988年3月15日、新設された特別競走の全日本選抜オートレースで優勝を飾り、流れを掴んだ。当人曰く、「乗り手としては1982年、83年の頃の方が上だったと思う」との事だが、「この優勝でツキが変わった」とも言っている。
そして、1988年11月3日、飯塚オートレース場で開催された第20回日本選手権オートレース、歴代の優勝戦史上でもトップクラスの死闘の果てに、田代は念願の選手権初制覇を成し遂げたのである。
この大会では飯塚将光の選手権3連覇がかかっていた。そしてもう一つ、浜松オートレース場のエースであった鈴木辰己が新開発されて間もないニューフジ二気筒で参戦していた点でも注目が集まっていたが、彼らを相手に田代は見事勝利を収めた。1着の田代と2着の飯塚の競走タイムは同タイムであった。
伊勢崎オートレース場所属の選手が日本選手権オートレースを制覇したのはこれが初であった。かつて山元正次、土田一男(8期、引退)といったベテランがこのタイトルに挑み、後一歩のところで逃していた。
田代の最大の持ち味は、なんと言ってもその果敢な攻めにある。
第20回日本選手権オートレースの際には、直線での速力がニューフジに比べて劣っているトライアンフに乗っていたにもかかわらず、鈴木辰己を直線で捌いた。その後、10周回1Cから2Cにかけて飯塚将光に捌かれたが、立ち上がりで差し返すなど、その強烈な捌きを見せた。
しかし、こうしたアグレッシブな攻めは常に成功するわけではなく、無論、反則・妨害も何度も犯してしまっている。
反則には至らなかったものの、第22回日本選手権の優勝戦ではトップスタートから独走状態の片平巧に対して、最終3~4コーナーにかけて最早無謀とさえ言える強引な切り込みを敢行していた。
また、第24回日本選手権の優勝戦では、最終周回の直線から1Cにかけて、先頭を走る島田信廣とそれを追う岩田行雄(15期、船橋オートレース場所属)の内に突っ込み二車刈りを敢行したが、途中でバランスを崩し岩田を押圧、結果失格となってしまった。
そして、第13回オールスターオートレースの優勝戦では終始先頭をひた走り1着でゴールしたものの、1周回1C~2Cでの反則妨害によって失格となってしまう。史上初の1着失格、それは複数選手への競走妨害によるものであった。前代未聞のSG1着入線での失格の裁定には非常に時間がかかり、TV中継中には審議の結果がでないというほどであった。
その後、スーパースター王座決定戦も制覇した田代は選手としてのピークを迎えていた。 しかし、「フジ」末期には大きく調子を落とした時期もあり、地元エースの座を転落するなど、それまで見せたことのない衰えを見せ始める。更に、新エンジン「セア」の導入が、その後の田代に大きな影響を与えることとなった。
セアの導入当初、田代はそれ以前のフジの頃の好調を維持していたかに見えた。しかし、その好調が仇となった。田代の最大の持ち味である強引な突っ込みがしにくいセアは田代向きではなかったのである。なまじ好調であったがゆえに、その点に気付くのが遅れてしまった。
そして、セア乗り換え当初は不振が続いていた同期の岩田行雄が徐々に復調の兆しを見せていくのに対して、田代は徐々に不振に喘ぐこととなってしまった。
もう一つが、自分のことを「兄ィ」と慕っていた中村政信の殉職である。彼の殉職以降、田代は目に見えて調子を崩していた。それまで、勝つためならどんなに危険な走りも厭わなかった田代が、走る事に恐怖を感じるようになってしまったのである。しかし、この恐怖は一時的なものに過ぎなかった。やがてその恐れを自ら拭い去った田代は、徐々に復調の兆しを見せていった。
しかし、時を同じくして伊勢崎では高橋貢が台頭。これにより田代の存在は一部の熱狂的ファンを除いて完全に霞んでしまった。
現在、伊勢崎オートレース場と飯塚オートレース場の所属選手の一部は落車時に頚椎を保護する特殊なエアバッグを装備している。この開発にあたっては、田代の協力が大きかったとされる。当初から田代に依頼をしていたそうだが、田代自身は余り乗り気ではなかった。しかし、上述した中村政信の殉職がきっかけとなり、この開発に協力した。現在このエアバッグは徐々にではあるが選手間で広がりつつある。
伊勢崎での一般開催で、優勝戦へ駒を進めた田代は準決勝戦後のインタビューで「今節はアレがいないから。鬼の居ぬ間の洗濯ですよ。」と答えたことがあった。
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