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猪木 正道(いのき まさみち、1914年(大正3年)11月5日 - 2012年(平成24年)11月5日[1])は、日本の政治学者。京都大学名誉教授。第3代防衛大学校校長、財団法人平和・安全保障研究所顧問を歴任。「日本政治学界の大御所的存在で、安全保障問題の論客」として知られた[2]。専門は、政治思想。学位は、法学博士(京都大学・1962年)。
京都府京都市生まれ。6歳から16歳までを三重県上野(現在の伊賀市)で過ごす。
東京大学在学中は河合栄治郎の演習に参加し、自由主義と社会主義双方に立脚した考えをもとにした[3]人格主義的理想主義から共産主義と軍部の政治関与のいずれをも批判する態度に共鳴し、戦後日本の平和主義に潜む危険性に警鐘を鳴らしていた[2]。 特に、旧ソ連で非人間的な独裁制に至ったマルクス主義の理論的欠陥を訴えるなど、社会主義への理解のある政治思想家の中では反共色の強い存在でもあった[3]。 ただし、中川八洋は「猪木は隠れソビエトシンパだった」と批判している。 1982年の中川の批判に対して名誉毀損で提訴を起こしたが、猪木側から和解を申し入れ決着した[4]。 また福田恆存は、『正論』の黒幕S氏から睨まれて『正論』から原稿依頼がなくなったと書いていたが、弟子の松原正は、S氏は猪木だと書き[5]、空想的平和主義者として猪木を批判している[6]。
指導した学生に高坂正堯・木村汎・矢野暢・西原正・大島渚・五百旗頭眞がいる。
『産経新聞』のオピニオン面に長期掲載されているコラム「正論」の第1回(1973年(昭和48年)6月25日付)を執筆した。 題名は「悪玉論に頼る急進主義」。
民社党支持の論客としても長く活動したが、大平正芳政権時に設置された「総合安全保障研究グループ」ではその座長を務め、1982年には新設された自民党のシンクタンク総合政策研究所の運営委員に就任した。
作曲家のすぎやまこういちは成蹊高等学校 (旧制)で猪木に教わり、猪木のおかげで真っ当な歴史観を持てたと述懐している[8]。
1996年1月15日付の産経新聞「正論」欄に「米国と日本とでは、対中関係の歴史に大きな差が存するから、たとえ米国が台湾の総統や副総統に査証を出したとしても、日本は真似るべきではない」と書き、台湾独立運動に携わってきた金美齢が自由民主党の機関誌『月刊自由民主』の「論壇」2002年12月号でその発言を紹介・批判している。
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