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日本の俳優(1902−1970) ウィキペディアから
月形 龍之介(つきがた りゅうのすけ、1902年(明治35年)3月18日 - 1970年(昭和45年)8月30日)は、日本の俳優。本名は門田 潔人(もんでん きよと)。俳優の月形哲之介は息子。
つきがた りゅうのすけ 月形 龍之介 | |||||
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本名 | 門田 潔人 | ||||
別名義 |
月形 陽候(つきがた はるさぶろう) 月形 竜之介 月形 龍之助 中村 東鬼蔵(なかむら ときぞう) 門田 東鬼蔵(もんでん ときぞう) | ||||
生年月日 | 1902年3月18日 | ||||
没年月日 | 1970年8月30日(68歳没) | ||||
出生地 | 日本・宮城県遠田郡小牛田村[1](現在の美里町) | ||||
死没地 | 日本・京都府京都市東山区 | ||||
職業 | 俳優 | ||||
ジャンル | 映画、テレビドラマ | ||||
活動期間 | 1920年 - 1969年 | ||||
活動内容 |
1920年:日活俳優養成所第1期生 1925年:マキノ・プロダクションに入社 1928年:ツキガタプロダクションを設立 1937年:日活に入社 1942年:大映に移籍 1951年:東映に入社 | ||||
配偶者 | あり | ||||
著名な家族 | 長男:月形哲之介 | ||||
主な作品 | |||||
『江戸怪賊伝 影法師』 『悪魔の星の下に』 『砂絵呪縛』 『斬人斬馬剣』 『水戸黄門漫遊記』シリーズ | |||||
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戦前から戦後の約半世紀の間時代劇スターとして活躍し、阪東妻三郎、大河内伝次郎、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、市川右太衛門、長谷川一夫とともに「七剣聖」と呼ばれた。戦前期はニヒルな剣士役で人気を得、伊藤大輔監督の『斬人斬馬剣』などの名作に主演した。戦後は渋みと風格のある脇役となり、悪役も演じた。戦後の当たり役は水戸光圀で、14本のシリーズ作品がある。晩年はテレビドラマにも出演。生涯に出演した映画は約500本以上に上る。
1902年(明治35年)3月18日(火曜日)、宮城県遠田郡小牛田村(現在の美里町)に父・政司郎、母・ちとせの次男として生まれる[2]。
1906年(明治39年)、北海道岩見沢町で橘屋という劇場を経営していた叔父・門田養吉の養子となり[3][2]、成長すると活動写真や芝居に親しむようになった。1914年(大正3年)、岩見沢尋常高等小学校を1年で中退し[4]、雑貨屋に奉公。1916年(大正5年)、橘屋が焼失して東京に出ていた叔父を頼って上京し、旧制荏原中学に入学[2]。剣道が得意で、三段の腕前だったという。しかし、女学生と恋愛問題を起こして中退することになり、その後は三田英語学校に転学した。
1917年(大正6年)、東京電機に入社したのを経て、1918年(大正7年)に幡ケ谷のタングステン工場に勤めるが、翌1919年(大正8年)に恋愛関係にあった志村サトと駆け落ち同然で京都へ行き、自活をするため映画俳優を志すようになる[2][3][4]。
1920年(大正9年)6月、牧野省三が設立した日活関西撮影所俳優養成所に第1期生として入り、中村東鬼蔵を芸名とする。養成所仲間には高木新平がいた。9月公開の尾上松之助主演『仙石権兵衛』での端役が映画デビュー作となり、同年には志村サトと結婚している[2]。翌1921年(大正10年)、牧野の日活退社とともに養成所も解散。中村末之助一座に加わって地方巡業を行い[4]、市川左莚次の付き人をしたが、心臓脚気で一座を抜けて京都に帰っている[2]。
1922年(大正11年)、牧野教育映画製作所に入社、端役として出演した後、1923年(大正12年)にマキノ映画製作所等持院撮影所に入社。阪東妻三郎主演の『鮮血の手形』や『燃ゆる渦巻』などに端役で出演し、『栗飯の焚ける間』で高木と共演。次第に頭角を現し、1924年(大正13年)に『黒母坂』の敵役で牧野に認められ、出世作とした。この頃に門田東鬼蔵と改名し、7月公開の『討たるゝ者』(阪妻主演)で準主演。同作公開後に寿々喜多呂九平が名付け親となり、月形龍之介に改名した[2][4]。芸名の由来については、「月形半平太」と「机龍之介」を合成した説や、彼の育った岩見沢の近くにあった月形村に関連があるという説がある[2]。
同年8月、マキノは東亜キネマに吸収合併され、同社で『復讐の日』で阪妻と共演後、沼田紅緑監督『刃光』で初主演。1925年(大正14年)6月、牧野は東亜キネマから独立してマキノ・プロダクションを設立、月形もそこへ移り、『修羅八荒』『裁かるゝ者』『転落』などに主演、市川右太衛門と「マキノを担う両星」と謳われた[5]。しかし1926年(大正15年)、妻子ある身でありながら、作品で何度も共演してきたマキノ輝子と不倫し、駆け落ちをした挙句、一女を儲けている。これでマキノを一時解雇され、映画界を去ったが、直木三十五らが間に立って、同年12月に輝子と別れてマキノに復社。東京のスタジオで撮った『涙』が復帰第1作となった。
1928年(昭和3年)、『忠魂義烈 実録忠臣蔵』で清水一角を演じた後、3月にマキノを退社し、マキノとの配給提携を条件にツキガタプロダクションを設立(会社登記のミスで正式にはプロタクション)、芸名も月形陽候に改名した。プロダクションには井上金太郎や悪麗之助らも参加している。同プロでは全部で8本の作品を製作したが、翌1929年(昭和4年)、『剣士・沖田総司』を終作にプロダクションを解散。松竹と実演契約を結び、一党を引き連れて松竹系劇場を巡演後、8月に一党と松竹下加茂撮影所に入社[2]。芸名も月形龍之介に戻し、自らの企画で『斬人斬馬剣』『白野弁十郎』『弥藤太昇天』に主演。中でも伊藤大輔が監督した『斬人斬馬剣』は、百姓一揆を真正面から扱った作品で、「傾向映画」の代表作として名作との呼び声が高い作品である。
1931年(昭和6年)5月、トーキー映画の製作を目指して再び独立、月形プロダクションを立ち上げ、奈良県の生駒山に撮影所を構えた。第1作は直木原作・冬島泰三監督の『舶来文明街』だが、映音システムの録音機の不備でパート・トーキーとなり、興行的にも失敗。しかし、キネマ旬報ベストテンに第5位でランクインされるという、高評価を得ている。翌1932年(昭和7年)にはオール・トーキーで『暁の市街戦』を製作するが、この2作で15万円の負債を抱え、プロダクションは解散した[2]。
同年5月、東活映画社に入社し、5本の作品に出演するが、10月に同社は解散。その後は日本における映画俳優のフリー契約者第1号として、1933年(昭和8年)に片岡千恵蔵プロダクションに招かれ、伊藤監督『堀田隼人』の家老・千坂兵部役で助演。同年、南光明、浅香新八郎らと日本フリーランサー協会を結成[2][4]。志波青果が興した朝日映画連盟で2作に出演後、12月に新興キネマへ入り、入江ぷろだくしょん提携作『神風連』で入江たか子を相手役に主演。
1935年(昭和10年)、再びフリーとなり、同年10月にマキノトーキー製作所に参加。同社第1回作品の『江戸噺鼠小僧』は月形が原作を書いた作品である。1936年(昭和11年)、P.C.L映画製作所の『桃中軒雲右衛門』に主演。同年6月、マキノトーキーを退社し、1937年(昭和12年)5月に日活京都撮影所に入社。主演作も多いが、片岡千恵蔵や嵐寛寿郎との共演作も多い。1940年(昭和15年)公開の『宮本武蔵』では、佐々木小次郎を演じた(武蔵は片岡千恵蔵)。同年12月日活を退社し、またフリーとなった。
1942年(昭和17年)4月、大映に入社。この頃から脇役を演じることが多くなるが、黒澤明監督の『姿三四郎』で檜垣源之助、稲垣浩監督の『無法松の一生』で結城重蔵を演じ、重厚な演技で場面を引き締めることに貢献している。
戦後、GHQによって剣戟映画が禁止され、現代劇に出演するようになり、1949年(昭和24年)公開の『透明人間現わる』では、あらゆる物質を透明にしてしまう薬品を開発した科学者という、それまでに経験したことがない役どころを演じており、実年齢より大幅に上まわるこの老け役に、抑えた重みのある演技で謎めいた雰囲気を付加することに成功している。
同年、東横映画に入り、脇役として活躍する一方で後進の指導にも当たる[4]。1951年(昭和26年)、東横映画と太泉映画が東京映画配給に吸収合併され、東映株式会社に商号変更。月形は東映京都撮影所に入り、片岡千恵蔵と市川右太衛門に続く東映時代劇の重鎮として活躍。新参者でありながら仲間からは「おっさん」「ガタさん」などのあだ名で呼ばれて親しまれた。月形は実際に老けて見えたので、この頃から老人役が増えていった。1954年(昭和29年)からは『水戸黄門漫遊記』シリーズで水戸黄門を演じ、今日の水戸黄門のイメージを定着させた[4]。他にも大久保彦左衛門、『大菩薩峠』の裏宿の七兵衛、『新吾十番勝負』の武田一真などを演じて評判を呼んだ。また、悪役も多く演じ歴代最高の吉良上野介でもあった。
晩年は撮影中の骨折(1954年落馬事故)の後遺症及び慢性関節リウマチの悪化で殺陣が厳しい身となりロングショットや後ろ姿は息子の月形哲之介がスタントを演じ座った状態の場面が多くなった。1964年(昭和39年)の東映退社後はテレビドラマへの出演などを中心としていた[4]。
1970年(昭和45年)8月30日(日曜日)、脳出血のため京都市東山区の大和病院で死去[6]。68歳没。
朋友の片岡千恵蔵は号泣しながら「ガタさん早すぎるよ、あんまりじゃないか」とその死を悼んだ。
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