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東活映画社(とうかつえいがしゃ、1931年 設立 - 1932年 解散)は、かつて京都に存在した映画会社である。1976年から1991年に松竹系で約500本のピンク映画を製作配給した東活とは無関係である。
かつてマキノ省三が1921年(大正10年)に京都・等持院境内に建設した「等持院撮影所」をその後経営していた東亜キネマが業績不振に陥った1931年(昭和6年)9月、同社の代行をする会社として設立されたのが「東活映画社」である。等持院撮影所は「東活映画等持院撮影所」となり、東亜時代の撮影所長の高村正次は辞任、安倍辰五郎が所長に就任した[2]。安倍は東亜京都の最後の作品『薩南大評定 黄金篇』のプロデューサーであり、同作は翌10月15日に公開されたが、同じ座組みで製作したその続編『薩南大評定 万能篇』を同月31日に東活映画設立第一作として公開した。同作は、後藤岱山、橋本松男、堀江大生、重政順が監督として名を連ねる大作で、羅門光三郎、原駒子、小川雪子が出演した。
翌1932年(昭和7年)10月、早くも「東活」は解散、等持院撮影所は閉鎖された。翌11月高村が復活し、東亜キネマを買収、「宝塚キネマ」を設立した。高村の新会社が稼動させた撮影所は御室撮影所であり、等持院は永遠に閉鎖、翌1933年(昭和8年)5月等持院撮影所は競売に伏された[2]。「東活」製作の最終作品、金田繁・大伴麟三監督、月形龍之介主演の『決戦荒神山』は、高村の「宝塚キネマ」の配給で1932年12月31日に公開された。
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