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日本の俳優 ウィキペディアから
廣田 昴(ひろた こう、1902年7月5日 - 没年不詳)は、日本の俳優である[1][2]。本名喜多 猶光(きた なおみつ)[1]、新字体表記広田 昴のほか、広田 昂、広田 昻、広田 宏と表記に揺れがある[1][2]。
1902年(明治35年)7月5日、兵庫県西宮市に生まれる[1]。
大阪の旧制・大阪市立工業学校(現在の大阪市立都島工業高等学校)建築科を卒業し、喜多村緑郎、秋月桂太郎らが道頓堀の朝日座を拠点にした新派の劇団「成美団」(第2期[3])の俳優になる[1]。1926年(大正15年)、御室撮影所時代のマキノ・プロダクションに入社する[1][2]。1928年(昭和3年)、同社を退社、同じく同社を退社して独立した中根龍太郎が設立した中根龍太郎喜劇プロダクションに合流する[1]。同年10月には、松竹下加茂撮影所に移籍した[1][2]。
1935年(昭和10年)12月にマキノ正博が新しく開いたトーキーのための撮影所、マキノトーキー製作所に、翌1936年(昭和11年)入社する(第二期入社)[1][2][4]。同社は1937年(昭和12年)4月末には解散しており、葉山純之輔ら大半の俳優は新興キネマ京都撮影所(現在の東映京都撮影所)、マキノ正博らは日活京都撮影所(のちの大映京都撮影所、現存せず)に移籍したが、広田は松竹下加茂撮影所に復帰した[1][2][4]。満39歳となる1941年(昭和16年)まで同社で出演を続けたが、その後の出演記録が見当たらない[1][2]。時代は第二次世界大戦に突入し、その後の消息はわからない。没年不詳。
すべてクレジットは「出演」である[2]。公開日の右側には役名、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[5][6][7][8]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。
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