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明治時代の勅語 ウィキペディアから
教育ニ関スル勅語(きょういくにかんするちょくご、旧字体:敎育ニ關スル敕語)または教育勅語(きょういくちょくご、旧字体:敎育敕語)は、明治天皇が近代日本の教育の基本方針として下した勅語。
1890年(明治23年)10月30日に下され、1948年(昭和23年)6月19日に国会によって排除または失効確認された[1]。
「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)は、教育の基本方針を示す明治天皇の勅語である。1890年(明治23年)10月30日に下され、翌31日付の官報などで公表された[2]。公式文書においては「教育ニ関スル勅語」と表現するが、一般的には「教育勅語」と表現される。全文315字[1]。
「勅語」として明治天皇の御名のもとに頒布されたが、実際は1890年2月に開催された地方官会議において、当時の第1次山縣内閣に対して徳育原則の確立を迫る建議が行われたのが直接の契機となり[1]、法制局長井上毅と枢密顧問官元田永孚らが中心となって起草した[1]。前身的な物として、自由民権運動や欧化政策への反発の中で1879年(明治12年)に起草された「教学聖旨」や、1882年(明治15年)に頒布された「幼学綱要」などがあり[1]、この思想と政策を引き継いだものが教育勅語である[3]。国民道徳の基本と教育の根本理念を明示するために発布された[1]。
その内容に関しては、頒布当初から難解であり、多数の解釈が存在する。現代における解釈の一例として2006年刊行の『精選版 日本国語大辞典』のものを挙げると、古来天皇は徳をもって統治してきたことを述べ、つづいて国民の守るべき「徳目」を掲げ、もって皇室を扶翼すべきとしている[1]。「徳目」の具体的な内容に関しても多数の解釈が存在し、戦前の注釈書では9個から16個くらいの徳目に分類するのが主流であるが(そもそも徳目を掲げているのかいないのかという点にも諸説ある)、現代においては1973年に明治神宮社務所より刊行された『大御心 明治天皇御製 教育勅語 謹解』の解釈が広く普及しており[4]、著作権が不明(おそらく未了)のため具体的に記すことはできないが、「12の徳目」にまとめている[5]。「現代語訳」に関しては、「勅語」(天皇のおことば)を自分の言葉で言いかえることは「不敬」であるため、ほとんど存在しないが(大日本帝国憲法下では不敬罪に問われる可能性がある)、1940年に文部省図書局が制作した「教育に関する勅語の全文通釈」(通称「全文通釈」)がよく知られている。例えば解釈の難しい「一旦緩󠄁急󠄁アレハ義勇󠄁公󠄁ニ奉シ」の部分は、太平洋戦争中の国民学校4年生向けの教科書『初等科修身 四』(1941年、通称「第五期修身書」)では「命をささげて」と解釈されるなど、教育勅語は、頒布当初から時代に合わせて恣意的な解釈が行われてきた歴史があり、1948年の国会決議で失効が確認された後も現代にいたるまで、明治天皇の御名を借りた個々人によって恣意的な解釈が行われ続けている(教育ニ関スル勅語#解釈の歴史を参照)。
1946年(昭和21年)11月3日、明治天皇の孫である昭和天皇によって日本国憲法が公布され、翌1947年(昭和22年)5月3日に施行された。日本国憲法98条1項には「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」と、いわゆる「憲法の最高法規性」が明記されていた。また、1946年開催の第90回帝国議会における新憲法の教育に関する規定の議論を受け[6]、日本国憲法の施行に先行する形で、同じく明治天皇の孫である昭和天皇によって、1947年3月31日に教育基本法が公布・施行された。にもかかわらず、教育基本法の施行後も「教育勅語」が存置されていたことから、1948年6月19日、衆議院において、「神話的国体観」「主権在君」を標榜する教育勅語は「民主平和国家」「主権在民」を標榜する日本国憲法に違反しているとされ、憲法の最高法規性を規定した日本国憲法第98条に基づいて「教育勅語等排除に関する決議」が行われ[7]、「教育勅語」は「陸海軍軍人に賜はりたる敕諭」、「戊申詔書」、「青少年学徒に賜りたる勅語」などの「教育に関する諸詔勅」と同時に排除された。また同日、参議院においても、日本国憲法の人類普遍の原理に則り教育基本法が施行された結果として、「教育勅語」等の諸詔勅は既に廃止されてその効力を失っている事実が明確にされ、全国民が一致して教育基本法の明示する新教育理念の普及徹底に努力をいたすべきことを期する「教育勅語等の失効確認に関する決議」が行われた[8]。これらの国会決議より、日本国において教育勅語は既に失効していることが確認され、教育勅語は日本国から排除された[7][8]。
その後の日本国憲法下の日本国においては、国民国家の法規として日本国憲法自体が最高法規となり(第98条:憲法の最高法規性)、これに違反する「詔勅」は失効した。また前記の「教育に関する諸詔勅」に代わって、日本国憲法に沿った「教育基本法」などの各種法令を国民道徳の指導原理として日本国政府は推進するようになった。
しかしその後も文部大臣天野貞祐の教育勅語擁護発言(1950年)や首相田中角栄の勅語徳目普遍性発言(1974年)など、教育勅語擁護論は根強く、憲法改正や戦後天皇制再検討論とも並行して教育勅語再評価の動きも多い[1]。2017年現在の日本国政府の公式の見解としては、「現行の憲法、教育基本法の趣旨には教育勅語が合致しない」という1983年5月の参院決算委員会に置ける瀬戸山三男文部大臣の見解を踏襲しており、「教育勅語を我が国の教育の唯一の根本とするような指導を行うことは不適切」であるが、「憲法や教育基本法等に反しないような形で教育勅語を教材として用いることまでは否定されることではない」との立場である[9]。
なお1947年施行の「教育基本法」(旧教育基本法)は、教育勅語を置き替える形で制定されたという性質上、「教育勅語」の復活どころか「教育基本法」の改正論議自体が長らく慎重に取り扱われ、教育勅語の運用年数を上回る50年以上にわたって同じものが運用されてきたが、中央教育審議会の答申「新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方について」(2003年3月)を受け、2006年に「改正教育基本法」が成立した。これが現行の教育法である。
なお、勅語自体に名前がついているわけではない。「教育ニ関スル勅語」とは様々な勅語の中から区別しやすいように名前が付けられているのであって、正式名称ではなく通称である。
前史には教学聖旨の起草(1879年)や幼学綱要の頒布(1882年)等、自由民権運動・欧化政策に反対する天皇側近らの伝統主義的・儒教主義的な徳育強化運動がある[1]。
発布までには様々な教育観が対立した。学制公布(1872年)当初は文明開化に向け、個人の「立身治産昌業」のための知識・技術習得が重視されたが、政府は自由民権運動を危険視・直接弾圧し、また自由民権思想が再起せぬよう学校教育の統制に動き、天皇は1879年の「教学聖旨」で仁義忠孝を核とした徳育の根本化の重要性を説いた[1]。もっとも、教学聖旨は、儒教と読み書き算盤を柱とするあまりにも前近代的な内容であったため顧みられることはなかった[10]。
1890年10月30日に発表された教育勅語は、山縣内閣の下で起草された。その直接の契機は、内閣総理大臣山縣有朋の影響下にある地方長官会議が、同年2月26日に「徳育涵養の義に付建議」を決議し、知識の伝授に偏る従来の学校教育を修正して、道徳心の育成も重視するように求めたことによる[1]。また、明治天皇が以前から道徳教育に大きな関心を寄せていたこともあり、文部大臣の榎本武揚に対して道徳教育の基本方針を立てるよう命じた[11]。ところが、榎本はこれを推進しなかったため更迭され、後任の文部大臣として山縣は腹心の芳川顕正を推薦した。これに対して、明治天皇は難色を示したが、山縣が自ら芳川を指導することを条件に天皇を説得、了承させた[10]。文部大臣に就任した芳川は、天皇から箴言編集の命を請けた。編集作業は初め中村正直に委嘱され、法制局長官井上毅に移り、枢密顧問官元田永孚が協力する形で進行した[1]。
中村原案について、山縣が井上毅・内閣法制局長官に示して意見を求めたところ、井上は中村原案の宗教色・哲学色を理由に猛反対した。山縣は、政府の知恵袋とされていた井上の意見を重んじ、中村に代えて井上に起草を依頼した。井上は、中村原案を全く破棄し、「立憲主義に従えば君主は国民の良心の自由に干渉しない」ことを前提[11]として、宗教色を排することを企図して原案を作成した。井上は自身の原案を提出した後、一度は教育勅語構想そのものに反対したが、山縣の教育勅語制定の意思が変わらないことを知り、自ら教育勅語起草に関わるようになった。この井上原案の段階で、後の教育勅語の内容はほぼ固まっている[10]。
一方、天皇側近の儒学者である元田永孚は、以前から儒教に基づく道徳教育の必要性を明治天皇に進言しており、1879年(明治12年)には儒教色の色濃い教学聖旨を起草して、政府幹部に勅語の形で示していた。元田は、新たに道徳教育に関する勅語を起草するに際しても、儒教に基づく独自の案を作成していたが、井上原案に接するとこれに同調した。井上は元田に相談しながら語句や構成を練り、最終案を完成した[10]。内容は3段からなり、第1段では天皇の有徳と臣民の忠誠が「国体ノ精華」にして「教育ノ淵源」であるとし、第2段では「父母ニ孝ニ」から「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」に至る14の徳目を示し、第3段ではこれらの徳が「皇祖皇宗ノ遺訓」に発し永遠に遵守されるべき普遍妥当性を持つとする[1]。
1890年(明治23年)10月30日に発表された「教育ニ関スル勅語」は、国務に関わる法令・文書ではなく、天皇自身の言葉として扱われたため、天皇自身の署名だけが記され、国務大臣の署名は副署されなかった。井上毅は明治天皇が直接下賜する形式を主張したが容れられず、文部大臣を介して下賜する形がとられた[10]。政治上の一般詔勅と区別するため大臣副署が無い[1]。
発布後、10月31日文部省が謄本を作り、全国の学校に頒布し、その趣旨の貫徹に努めるよう訓令した。12月25日直轄学校にたいし天皇親署の勅語を下付した(訓令)。学校儀式などで奉読され、国民道徳の絶対的基準・教育活動の最高原理として圧倒的権威があり、これが修身科をはじめ諸教科を規制した[1]。1890年11月3日帝国大学で奉読式がおこなわれ、東京工業学校・東京府尋常師範学校・東京府尋常中学校などでもおこなわれた[12]。
教育勅語が発表された翌年の1891年(明治24年)には、第一高等中学校の嘱託教員であった内村鑑三が教育勅語に最敬礼をしなかったことへの批判(内村鑑三不敬事件)をきっかけに、各校に配布された教育勅語の写しを丁重に取り扱うよう命じる旨の訓令が発せられた。また、同年に定められた小学校祝日大祭日儀式規定(明治24年文部省令第4号)や、1900年(明治33年)に定められた小学校令施行規則(明治33年文部省令第14号)などにより、祝祭日に学校で行われる儀式では教育勅語を奉読(朗読)することなどが定められた。これ以後、教育勅語は教育の第一目標とされるようになった。紀元節(2月11日)、天長節(天皇誕生日)、明治節(11月3日)および1月1日(元日、四方節)の四大節と呼ばれた祝祭日には、学校で儀式が行われ、全校生徒に向けて校長が教育勅語を厳粛に読み上げ、その写しは御真影(天皇・皇后の写真)とともに奉安殿に納められて、丁重に扱われた[10]。その趣旨は、明治維新以後の大日本帝国で[要出典]、修身・道徳教育の根本規範と捉えられた。
文部省が英語に翻訳し、そのほかの言語にも続々と翻訳した[13]。外地(植民地)で施行された朝鮮教育令や台湾教育令では、教育全般の規範ともされた[14]。
その一方で、文部大臣西園寺公望は、教育勅語が余りにも国家中心主義に偏り過ぎて「国際社会における日本国民の役割」などに触れていないという点などを危ぶみ、いわゆる第二教育勅語を起草した(草稿は現在立命館大学が所蔵)。もっとも、この構想は西園寺の文部大臣退任により実現しなかった[15]。
いわゆる戦争期には極端に神聖化されたといわれる[1]。治安維持法体制下の1930年代に入ると、教育勅語は国民教育の思想的基礎として神聖化された。教育勅語の写しは、ほとんどの学校で「御真影」(天皇・皇后の写真)とともに奉安殿・奉安庫などと呼ばれる特別な場所に保管された。また、生徒に対しては教育勅語の全文を暗誦することも強く求められた[16]。特に戦争激化の中にあって、1938年(昭和13年)に国家総動員法(昭和13年法律第55号)が制定・施行されると、その体制を正当化するために利用された。そのため、教育勅語の本来の趣旨から乖離する形で軍国主義の教典として利用されるに至った。
終戦の8月15日、太田耕造文相は文部省訓令第5号で国体護持を意識した教育をすることを告げた。また9月15日、前田多門文相のもとで「新日本建設の教育方針」が出され、「教育ハ益々国体ノ護持ニ努ムル」[17]。とした。 国体護持を謳う状況にGHQ及びCIEは危惧していたものの、当初は教育勅語廃止については肯定せず、日本国内で起きていた新教育勅語渙発論に肯定的な見方をしていた[18]。 またアメリカ対日教育使節団(1次)は非公式に新勅語に相当するものを国会から出すことを勧めた[10]。
新教育勅語案として有賀鐡太郎が起草したとされる[19]「京都勅語案」がある。
文部省は1946年(昭和21年)10月に「勅語及び詔書等の取扱いについて」と題する次官通牒により、教育勅語を教育の根本規範とみなすことをやめ[20]、さらに国民学校令施行規則を改正して、国民学校(小学校)で四大節の儀式で教育勅語を読み上げる規定を廃止した[21]四大節に儀式を行うこと自体は廃止されず、単に「祝賀」することが定められた。なお、同令施行後に初めて行われた明治節(11月3日)の儀式は、同日が日本国憲法の公布日でもあったことから、新憲法の公布を祝賀する意義も付け加えられた。奉読と神格的扱いが禁止された。
その後、政府は憲法改正や国内世論に影響され、新勅語渙発論は次第に衰退し、教育法規の法律で定める意向に転換した。またこれに伴い、制定作業が行われていた学校教育法とは別に、教育基本法が制定されることとなったことでその動きは加速した。
1947年(昭和22年)に教育基本法(旧教育基本法)が公布・施行されると、当初日本国政府と国会は教育勅語を『教育基本法の基礎』として位置付けようとしたが、この方針はGHQの認めるところとはならなかった。
国民が子弟に普通教育を施す義務(義務教育)、児童が教育を受ける権利(それも個々の状態に合わせ適切であること)に関する基本規定が制定されたのは日本国憲法が出来てからのことである。
1948年(昭和23年)6月19日、衆議院で「教育勅語等の排除に関する決議」、参議院で「教育勅語等の失効確認に関する決議」がそれぞれ決議されて、教育勅語は学校教育から排除あるいは失効確認され、謄本は回収・処分された。
1950年11月16日に行われた文教審議会(委員は吉田茂首相ほか)では、教育基準として教育勅語に代わる道徳綱領の必要性が議論されたが、作る必要はないとする意見が多数を占めた[22]。
教育勅語はその後、軍人の規律を説く軍人勅諭と同列におくことで軍事教育や軍国主義を彷彿とさせる傾向があるとされ、戦後日本においては公の場で教育勅語を聞くことはほぼ皆無となっている。時折、何らかの形で注目されて教育基本法の存在も踏まえた議論が起こるときもある(稲田朋美や西田昌司の発言など)。
その後、当時の文部大臣天野貞祐の教育勅語擁護発言(1950年)、首相田中角栄の勅語徳目の普遍性発言(1974年)等、教育勅語の擁護は根強く、憲法改正を含む戦後天皇制再検討との関連で、一部政界財界人、学者・文化人、神社関係者等で、再評価が続いている[1]。
文部省・文部科学省の中央教育審議会、市区町村における教育関連の研究会・勉強会などでは、教育勅語が勅令ではなく法令としての性質を持たなかったこと、教育基本法が教育勅語を形骸化するものとなった一方で法令であること、教育勅語が過去に国会で排除・失効確認されていること、教育勅語の内容は道徳的な記述がなされているに過ぎないこと、等々をふまえ、教育基本法を論じる際には比較・参考の資料とすることもあり、一部では部分的な復活についての話題が出ることもある。「教育勅語について、排除・失効決議に関係なく、副読本や学校現場で活用できると思うがどうか」という質問について、文部科学省初等中等教育局長は「教育勅語を我が国の教育の唯一の根本理念であるとするような指導を行うことは不適切であるというふうに考えますが、教育勅語の中には今日でも通用するような内容も含まれておりまして、これらの点に着目して学校で活用するということは考えられる」と答弁している[23]。教育勅語を教育理念の中に取り入れ、生徒に暗唱させている私立学校もある[24]。
(原文は「―顕彰スルニ足ラン」までと日付と署名捺印のみが分けられ全てつながっている)
朕󠄂 惟 フニ我 カ皇 祖 皇 宗 國 ヲ肇󠄁 ムルコト宏 遠󠄁 ニ德 ヲ樹 ツルコト深 厚 ナリ我 カ臣 民 克 ク忠 ニ克 ク孝 ニ億 兆 心 ヲ一 ニシテ世 世 厥 ノ美 ヲ濟 セルハ此 レ我 カ國 體 ノ精󠄀 華 ニシテ敎 育 ノ淵 源 亦 實 ニ此 ニ存 ス爾 臣 民 父󠄁 母 ニ孝 ニ兄 弟 ニ友 ニ夫 婦󠄁 相 和 シ朋󠄁 友 相 信 シ恭 儉 己 レヲ持 シ博󠄁 愛 衆󠄁 ニ及󠄁 ホシ學 ヲ修 メ業 ヲ習󠄁 ヒ以 テ智 能 ヲ啓󠄁 發 シ德 器󠄁 ヲ成󠄁 就 シ進󠄁 テ公󠄁 益󠄁 ヲ廣 メ世 務 ヲ開 キ常 ニ國 憲󠄁 ヲ重 シ國 法 ニ遵󠄁 ヒ一 旦 緩󠄁 急󠄁 アレハ義 勇󠄁 公󠄁 ニ奉 シ以 テ天 壤 無 窮󠄁 ノ皇 運󠄁 ヲ扶 翼󠄂 スヘシ是 ノ如 キハ獨 リ朕󠄂 カ忠 良 ノ臣 民 タルノミナラス又󠄂 以 テ爾 祖 先 ノ遺󠄁 風 ヲ顯 彰 スルニ足 ラン斯 ノ道󠄁 ハ實 ニ我 カ皇 祖 皇 宗 ノ遺󠄁 訓 ニシテ子 孫 臣 民 ノ俱 ニ遵󠄁 守 スヘキ所󠄁 之 ヲ古 今 ニ通󠄁 シテ謬 ラス之 ヲ中 外 ニ施 シテ悖 ラス朕󠄂 爾 臣 民 ト俱 ニ拳󠄁 拳󠄁 服󠄁 膺 シテ咸 其 德 ヲ一 ニセンコトヲ庶󠄂 幾 フ
明󠄁治二十三年十月󠄁三十日
御名御璽
多くの訳があるが、公的な根拠を持つ訳としては昭和15年(1940年)文部省内に設置された「聖訓ノ述義ニ関スル協議会」の報告で文部省図書局がした「教育に関する勅語の全文通釈」がある。研究者の間では「全文通釈」と呼ばれる[要出典]。(仮名遣い,ルビ,段落など原文のまま。)
教育に関する勅語の全文通釈朕がおもふに、我が御祖先の方々が国をお
ここに示した道は、実に我が御祖先のおのこしになった御訓であって、皇祖皇宗の子孫たる者及び臣民たる者が共々にしたがひ守るべきところである。この道は古今を貫ぬいて永久に間違がなく、又我が国はもとより外国でとり用ひても正しい道である。朕は汝臣民と一緒にこの道を大切に守って、皆この道を体得実践することを切に望む。肇 めになったことは極めて広遠であり、徳をお立てになったことは極めて深く厚くあらせられ、又、我が臣民はよく忠にはげみよく孝をつくし、国中のすべての者が皆心を一にして代々美風をつくりあげて来た。これは我が国柄の精髄であって、教育の基づくところもまた実にこゝにある。汝臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦 び合い、朋友互に信義を以って交り、へりくだって気随気儘 の振舞いをせず、人々に対して慈愛を及すやうにし、学問を修め業務を習つて知識才能を養ひ、善良有為の人物となり、進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし、常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し、万一危急の大事が起つたならば、大義に基づいて勇気をふるひ一身を捧げて皇室国家の為につくせ。かくして神勅のまに々々天地と共に窮りなき宝祚 の御栄をたすけ奉れ。かやうにすることは、たゝに朕に対して忠良な臣民であるばかりでなく、それがとりもなほさず、汝らの祖先ののこした美風をはつきりあらはすことになる。
難解であるため、解釈する人によって、複数の解釈が存在する。公式解釈としては、明治天皇の上覧を得た「官定解釈」と研究者に呼ばれる井上哲次郎の『勅語衍義(えんぎ)』(1891年)のほか、戦前の文部省が折々の時局に合わせて布告したもの、特に明治末期以降、戦前の全ての小学生が学んだ国定修身書の解釈が相当するとされるが、それらにおいてすら解釈に若干のぶれが存在する。
例えば、文部省発行の修身の国定教科書における「教育勅語」の解釈は、「第二期修身書」(1910年-)から「第五期修身書」(-1945年)においてはどの年度でもだいたい同じだが、「第四期修身書」では「一身をさゝげて」と解釈されている「一旦緩󠄁急󠄁アレハ義勇󠄁公󠄁ニ奉シ」の部分が、「第五期修身書」(『初等科修身』)では「命をささげて」と解釈されているなど、時局によっては小学生を相手にダイレクトな表現を使ったりするような細かい違いがある。なお、この部分は『勅語衍義』においては「国家の為めに死するより愉快なることなかるべきなり」とさらにダイレクトに解釈されている。
国定教科書による解釈を示すため、1939年に発行された『尋常小学修身書 巻六』の内容を以下に引用する[25]。本書では、「臣民」の一人である教科書の執筆者が、同じく「臣民」の一人である小学校6年生の読者に語り掛ける形式をとり、かつて勅語の発布時点では「皇祖皇宗」(皇室の祖先)の「子孫」であるところの「天皇」であったが、本書の発行時点では既に崩御して「皇祖皇宗」の一柱となっている「朕」こと明治天皇の言葉を逐語的に解説している。
教育に関する勅語は、明治二十三年十月三十日、明治天皇が我等臣民のしたがい守るべき道徳の大綱をお示しになるために下し賜わったものであります。勅語を三段に分けてうかがい奉りますと、その第一段には、
朕󠄁惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇󠄁ムルコト宏遠󠄁ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス
と仰せられてあります。
この一段には、まず皇室の御祖先が我が国をおはじめになるにあたって、その規模がまことに広大で、かついつまでも動かないようになされたこと、御祖先はまた御身をお修めになり、臣民をおいつくしみになって、万世に渡って御手本をおのこしになったことを仰せられ、次に、臣民は君に忠を尽くし親に孝を尽すことを心掛け、臣民すべてが皆心を一つにして、代々忠孝の美風を全うして来たことを仰せられてあります。終に以上のことが我が国体の純美なところであり、我が国の教育の基づく所もまたここにあることを仰せられてあります。 — 文部省、尋常小学修身書 巻六 第二十五
勅語の第二段には、爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦󠄁相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博󠄁愛衆ニ及󠄁ホシ学ヲ修メ業ヲ習󠄁ヒ以テ智能ヲ啓󠄁発シ徳器ヲ成就シ進󠄁テ公󠄁益ヲ広メ世務ヲ開キ常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵󠄁ヒ一旦緩󠄁急󠄁アレハ義勇󠄁公󠄁ニ奉シ以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ是ノ如キハ独リ朕󠄁カ忠良ノ臣民タルノミナラス又󠄂以テ爾祖先ノ遺󠄁風ヲ顕彰スルニ足ラン
と仰せられてあります。
この一段には、始に天皇が我等臣民に対して爾臣民と親しくお呼びかけになり、我等が常に守るべき道をおさとしになって居ります。
その御趣旨によると、我等臣民たるものは父母に孝行を尽くし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に分を守ってむつまじくし、朋友には信義をもって交わらなければならなりません。誰に対しても身を慎んで無礼の挙動なく、常に自分を引きしめて気ままにせず、しかも博く世間の人に仁愛を及ぼすことが大切であります。また学問を修め業務を習って、知識才能を進め、徳ある有為の人となり、進んでこの智徳を活用して、公共の利益を増進し、世間に有用な業務を興すことが大切であります。また常に皇室典範・大日本帝国憲法を重んじ、その他の法令を守り、もし国に事変が起こったら、勇気を奮い一身をささげて、君国のために尽くさなければならなりません。かようにして天地と共に窮りない皇位の御盛運をお助け申し上げるのが、我等臣民の務であります。
なお以上の道をよく実行する者は、陛下の忠良な臣民であるばかりでなく、我等の祖先がのこした美風を表す者であることをおさとしになって居ります。 — 文部省、尋常小学修身書 巻六 第二十六
勅語の第三段には、斯ノ道󠄁ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺󠄁訓ニシテ子孫臣民ノ俱ニ遵󠄁守スヘキ所󠄁之ヲ古今ニ通󠄁シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕󠄁爾臣民ト俱ニ拳󠄁々服󠄁膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶󠄂幾󠄁フ
と仰せられてあります。
この一段には、前の第二段におさとしになった道は、明治天皇が新たにおきめになったものではなく、実に皇祖皇宗がおのこしになった御教訓であって、皇祖皇宗の御子孫も一般の臣民も共に守るべきものであること、またこの道はいにしえも今も変りがなく、かつ国の内外を問わずどこでも行われ得るものであることを仰せられてあります。最後に、かしこくも天皇は御みづから我等臣民と共にこの御遺訓をお守りになり、それを御実行になって、皆徳を同じくしようと仰せられてあります。
以上は明治天皇のお下しになった教育に関する勅語の大意であります。この勅語にお示しになっている道は、我等臣民の永遠に守るべきものであります。我等は至誠を以て、日夜この勅語の御趣意を奉体しなければなりません。 — 文部省、尋常小学修身書 巻六 第二十七
発布当時の東京高等師範学校校長にして「東洋史の父」と呼ばれる高名な学者・那珂通世をして「聖訓の懇到なるに感泣するのみ。豈敢て妄に一辞を賛することを得んや」と言わしめるなど[26]、発布当時から一言一句が神聖視された教育勅語だが、実際問題として解りにくい箇所が多いため、発表直後より学者による学術的な解釈、文部省や衆参議院など政府機関による公式・半公式の解説書が多数制作されている[1](那珂通世自身も、何冊か解説書を出している)。また「教育勅語の公式解釈の解釈」なども制作された。 1940(昭和15)年文部省内に設置された聖訓ノ述義ニ関スル協議会の報告「聖訓ノ述義ニ関スル協議会報告」の中の「附録一,教育勅語衍義書目録」によれば,1890(明治23) 年から1939(昭和14)年までの間に刊行された「衍義書」として306冊が挙げられている。
「近代国家として成立したばかりの大日本帝国」を前提に1890年に発布された教育勅語は、日本が列強の仲間入りを果たした日清戦争(1894年)後くらいから既に時代に合わなくなり始めたため、第3次伊藤内閣(1898年-)時代の文相・西園寺公望によって列強国の国民としての社会道徳を説いた『第二教育勅語』の起草が行なわれたが、教育勅語は一言一句が神聖視されていたため、「教育勅語の改訂」という作業が行えなかった。そのため、「戊申詔書」(1908年)や「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」(1939年)などの新たな勅語の発布で教育勅語を補うとともに、「教育勅語の再解釈で補う」という方式が取られ、時局に合わせて教育勅語は再解釈された。これらの解釈は、社会情勢や時局の推移によってかなり違い、特に太平洋戦争期には、極めて戦時色の強い解釈が行われている。これらはすべて廃止される1948年に至るまで、教育の基本方針として使い続けられた。
そのほか時代により、公的根拠や学問的背景のない一般人による独自解釈が存在する。例えば「生きて虜囚の辱めを受けず」の『戦陣訓』の執筆者、中柴末純陸軍少将の『皇道世界観』(1942年)など大戦中の狂信的な解釈[注 1]、戦後社会に合致させようと独自解釈した「国民道徳協会」訳[注 2]などがある。そしてこれらの素人解釈でも、執筆者の地位や発行母体によっては広く知られている場合もある。
なお、勅語や御製などの天皇の言葉は、いわゆる現代語訳はおろか、何らかの言い換えをすることすら戦前は不敬とみなされかねないため、基本的に教育勅語を解説した書物は、まず勅語の全文を掲載した後、勅語の一部分ごとに区切って抜き出して、その意味を謹んで解釈する「謹解」という形式をとる。
教育勅語に文法の誤用があるという説がある。すなわち、原文「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ」部分の「アレバ」は、条件節を導くための仮定条件でなくてはならず、和文の古典文法では「未然形+バ」、つまり「アラバ」が正しく、「アレバ」は誤用である、とする説である。
1910年代に中学生だった大宅壮一が国語の授業中に教育勅語の誤用説を主張したところ教師に諭された、と後に回想している[27]。
なお、塚本邦雄も歌集『黄金律』114ページ[28]で「「アレバ」は「アラバ」の誤りなれば」として「秋風が鬱の顛頂かすめたり「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ」」の歌がある。
高島俊男は「文法のまちがいである」とした上で、「ただしこれは元田永孚の無学無知によるもの、とばかりも言い切れない。江戸時代以来、漢文先生は、国文法には一向に無頓着で、―そもそも彼らには漢文に対する敬意はあるが日本語に対する敬意はないから当然のこととして無頓着であったのだ―」と述べ、元田が前述の漢文訓読の慣行に従ったもの、とする見解を示している[29]。
福岡県の例では、中等学校の校長が「世々」をセイセイ、「成就」をセイシュウ、「相和し」をアイクヮシと発音。生徒や保護者から抗議の声が上がり、県庁に呼び出されて注意が与えられている。また、郡教育長が「世務」をセム、「遵守」をソンシュ、「御名」をオンナと発音。名誉職を辞退するよう追い込まれた[30]。
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