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建設コンサルタント(けんせつコンサルタント、construction consultant)とは、建設技術を中心とした開発・防災・環境保護等に関して、計画・調査・設計・監理業務を中心に、日本では国土交通省の建設コンサルタント登録規定に基づき国土交通省に登録された官公庁および民間企業を顧客としてコンサルティングを行う業者(場合によっては個人)をいう。
建設コンサルタント | |
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基本情報 | |
名称 | 建設コンサルタント |
職種 | 専門職 |
職域 | デベロッパー (開発業者) プロジェクトマネジメント |
詳細情報 | |
必要技能 | 技術知識、管理技能 |
必須試験 | 建設業務等 |
就業分野 | 各種建設事業 |
関連職業 | 構造家(構造エンジニア)、測量士 造園家、環境デザイナー |
建設コンサルタントは建設業法による建設業のような法的な定めは、業法ではなく、公共工事の前払金保証事業に関する法律にあり、「土木建築に関する工事の請負を業とする者又は土木建築に関する工事の設計若しくは監理若しくは土木建築に関する調査、企画、立案若しくは助言を行うことの請負若しくは受託を業とする者」と定義されている。
職業としては、事業所統計などではサービス業に分類される。
日本標準産業分類(平成19 年11 月改定)によれば、学術研究, 専門・技術サービス業>技術サービス>土木建築サービス業に分類されており、同分類には設計監督業、建物設計製図業、地方公共団体工事事務所がある。
土木建築関連のサービス業とは大きく建築設計業、測量業、その他の土木建築サービス業に大別される。
なお建築設計業は、「建築設計、設計監督などの土木・建築に関する専門的なサービスを行う事業所をいう」とし、実際の業務として設計監理業、建物設計製図業、建設コンサルタント業が例示されている。これには構造計算の民間確認検査機関も含まれる。
測量業は「基準点測量、地図を作成するための測量、土木測量、河川測量、境界測量などの専門的なサービスを行う事業所をいう」としている。その他の土木建築サービス業は「他に分類されない土木建築サービスを行う事業所をいう」とし、具体には地質調査業、試錐業が挙げられている。
地方自治体で規定する建設コンサルタント業務等とは、「地質調査業務」、「測量業務」、「土木関係建設コンサルタント業務」、「建築関係建設コンサルタント業務(建築設計業務)」及び「補償関係コンサルタント業務」の5業務を指す。
国土交通省の規定に基づく登録制度では、いずれの業種でも一定の資格保有者などの条件がある。建設コンサルタントと地質調査業については、規定による登録制度上では登録の義務というものはないが、実質的には公共機関は当然のことながら登録業者にしか発注できない。小規模で他方からの受注(協力業者というが、大半は下請け的なもの)だけを行う建設コンサルタントなどでは、資格保有者がおらず登録もしていない、ということもある。
建設コンサルタントについての、国土交通省告示による登録制度は次のとおりである。
登録部門は20部門で、技術士の第二次試験のうち建設部門や農林水産(農業部門、森林部門、水産部門)の各土木系部門などの建設に関係する科目に準拠している。事業の部門別では1.河川・砂防および海岸、2.港湾および空港、3.電力土木、4.道路、5.鉄道、6.上水道および工業用水道、7.下水道、8.農業土木、9.森林土木、10.水産土木、11.造園、12.都市計画および国土計画の12部門、さらに各事業部門に共通の横断的部門として、1.地質、2.土質および基礎、3.鋼構造およびコンクリート、4.トンネル、5.施工計画・施工設備および積算、6.建設環境、7.建設機械、8.電気・電子と8部門がある。あわせると20部門となる。
登録の要件としては、まず十分な財産的基礎と金銭的信用を有することを有していることが求められる。また、登録する部門ごとに技術士又は認定技術者を専任の技術管理者として置くことが求められる。当然のことながら受注業務を遂行するにあたっては、建築設計事務所で建築士が必要であるように、プロジェクトの担当者・監理技術者等に技術士などがつくことが必須とされる場合が多い。
受託先(発注先)の割合は、官公庁(地方自治体含む)が大半を占める。これまでは主に調査と設計業務が中心であったが、公共事業の削減PFI活用の社会背景から、管理運営業務なども受注遂行してゆくことも予想されている。
日本の建設コンサルタントの場合海外業務は、政府開発援助関連によるものが大半である。
関連団体として社団法人建設コンサルタンツ協会、世界規模では国際建設コンサルタント連盟(FIDIC)があり、FIDICには日本では日本技術士会ではなく、社団法人日本コンサルティングエンジニヤ協会 (AJCE) が加盟している。FIDICの約款などを適用する国際建設約款による工事執行では、国内の発注者(Owner) と請負者(Contractor)の甲乙の関係者に加えて、第三者の中立的立場として、コンサルティング会社が関与する。このとき建設工事は発注者と請負者が結ぶのに対し、コンサルティング会社のエンジニアは、発注者とコンサルタント契約を結び、発注者の代理人として請負者、発注者双方に大きな拘束力を持つ。このときの主なエンジニアの役割としては、建設工事の進捗に応じて、施工に関わる請負者の施工計画、図面の審査や承認を行い、品質管理、安全管理から、工事出来高の検収、証明、支払い証明の発行、工事の引渡し証明書の発行などがあり、このエンジニアの役割と権限は、契約に明記される。
建設に関する業務を行う建設コンサルタントには、建築コンサルタント、補償コンサルタント、都市計画コンサルタント、ランドスケープコンサルタント、まちづくりコンサルタント、マリンコンサルタント、環境コンサルタント、上下水道コンサルタント、廃棄物コンサルタント、地質コンサルタント、農業土木コンサルタントなどのように分野で特化したものも数多くある。
ちなみにおおよそであるが、官公庁が発注する業務は以下の通り。これらは、1)官公庁が発注する業務を受注するための、各種登録規定に定める登録業、または、2)事業を行うための許認可を得ている業種、の2種類である。もちろん、民間の業務はこれらに限定されるものではないため、必ずしも以下に示す業種に限定されるのではない。
登録・許認可業種ではないが、上記の複合体として、シンクタンク(おもに政策・中長期計画などの立案や経済動向分析)、登録・許認可業種ではないが関連する事業を営むものに装置開発販売メーカーがいる。その際は装置・製品を購入し設置する形(購入据付)での物品購入 がある。
業務内容としては、施設の計画および設計、ならびに施設設置のための各種調査、に分かれている。
欧米では技術者コンサルタントの歴史は長く、その資格者の社会的評価が高い。米国では、Consulting Engineer、Professional Engineer、英国ではChartered Engineerなどの制度があった。建設コンサルタントが事業として初めて成立したのは、19世紀初頭の英国においてであり、産業革命に伴う大規模な社会資本整備にむけ設計から施工を担い利潤を得る建設会社とは別に、設計に関する高度な技術を持ち、施主に対して利益になるよう仕向け、建設会社との仲介的な技術者たちが活発な活動を始めることになる。コンサルタントという名称は、第二次大戦後のアメリカの医療分野で近代的な病院をつくるために、医学に加えて経営から設備までの幅広く総合的な知識やノウハウを持った人材が求められたことに始まったともされる。
建設コンサルタントが日本に誕生したのは実際には比較的新しい。制度等の起源は戦前までさかのぼる。戦前まで日本における生活基盤や産業基盤などの社会資本の整備は、一部を除いて基本的には行政によって直接実施されていて、省庁に所属する技官が社会資本の計画、立案、設計を行っていたが、当時から上級技術者が自ら建設請負業として開業するケースが出てきており、その背景として新しいインフラストラクチャーや建築物が日本各地に拡大、それに併行して土木と建築、また設計と施工の境界が次第に明瞭になり、建築、土木それぞれに設計・監理の専門家が成立してくる状況が挙げられる。
近代的な諸制度が未整備であった時期にこうした専門家を必要とした民間事業者の側からすれば、まず思いつく方法が彼らに技術顧問、つまりconsulting engineer or architectとして委嘱することであった。ここには「お雇い外国人」の招聘に倣う一面と、上級技術者の絶対数の不足により、当時から主として官業に本職を持つ専門技術者に嘱託で依願せざるを得ない状況とがあった。彼らへの報酬も外国人ほどでなくとも高額であったため、仕事毎に応じて嘱託雇用する方が経営面で合理的な場合も多かった。かたや技術者の側も、建設業務がプロジェクトごとに独立している限り、一つの職場にとどまることなく複数の職場を掛け持ちで渡り歩く、すなわち異動と移籍や兼業が常態化していた。
19世紀後半の欧米先進国ではすでに土木や建築設計(監理)事務所が独立し、いわゆるコンサルティングエンジニアが一般化していた。日本では土木より審美造形景観的デザイン性などが強く求められる建築分野において明治19(1886)年に辰野金吾が日本人として建築設計事務所を開設し軌道に乗せたのがその嚆矢とされる。
一方で土木分野は請負に進出していく。
これには太田六郎などが工学士として初めて乗り出すが、太田は明治13年に工部大学校土木学科を卒業。在学中に実地見習いで逢坂山隧道の掘削に従事し、卒業後は島根県土木課から明治27年に鉄道局三等技手として移籍した。翌年、日本鉄道に出向して、上野-高崎間工事を指導し、明治19年には鉄道局に戻って信越線工事に転じたが、当時、鉄道局に不満を抱く工学士が少なからずおり、太田もその一人であったらしく、おりしも大倉組が呉や佐世保の軍港設営を藤田組と共同受注した際に土木工学士を傭聘したのに応じて移籍。翌20年、関西鉄道に出向し一年足らず所属。明治22年まで大倉組に勤め.その後実弟である中野欽九郎と東京・芝で自ら土木請負を開業した。太田は相当な大工事の請負をも成功させたが、それに続く試みではかばかしい実績を上げたものは数少ない。
他方、上級土木技術者がより鮮明に、組織的なカラーを打ち出した民間業に南清と村上享一による鉄道工務所などがある[1]。 南は工部大学校の第一期卒業生でイギリスへの留学を終えて帰国後工部省御用係となり、明治23(1890)年、山陽鉄道に招聘されて技師長兼技術謀長を務めたが、明治25年、筑豊興業鉄道から技師長を委嘱された際、山陽鉄道にいた村上享一を筑豊興業鉄道の建築課長として推挙。一方の村上は明治21年帝国大学工科大学卒で卒業と同時に山陽鉄道に入社し、ここで南の指導を受けていた。明治19年、南は筑豊鉄道技師長兼速輸課長となっていた村上を誘い、大阪で鉄道工務所を設立した。その業務内容は鉄道および土木に関する測量、設計、工事監督、外国品注文、運輸上の商議等、つまりはビジネス・インフラの一括建設請負であった。こうした組織の意義について、南と村上は鉄道建設を例にとって見解を示している。従来、線路の選定、測量、設計、工事監督に至るまですべて事業者が施行しているがそれはきわめて不効率であり、なぜなら測量および工事中に多数の雇員を要するが、完工後はそのほとんどを解雇せざるを得ないので、被雇用者の立場も常に腰掛状態で、それが事業者に対する忠誠心にも響き、事業者も開通後にも時折土木関連の設計を必要とし、そのたびに相応の技術者を招聘し高給を支払わねばならないが、すでに欧米ではこの種の業務を分業的に引き受けるコンサルティング·エンジニアが独立しており、線路の測定から設計、工事監督に至るまですべて事業者の委託に応じ得る設備を有し、高い評価と地位を得ていることに言及。日本においては、設計から完工まで一括して委託する事例はほとんどなく、国家経済の見地からもこの業務の発達を望んでいた。ただしこうした南の構想したような組織、この鉄道工務所のような試みがその当時においても例外にすぎなかった。また、こうした組織が一般化するだけの人材も育っていなかったし、ようやく育ち始めた専門的人材のほとんどは官業に従事しており、そして官であれ民であれ、その仕事を完遂するための資材を供給する産業も未発達であった。ただし鉄道工務所が立ち上げられた時期が日清戦争直後であったことで軍事的、また国策的な意味でも土木事業の拡大が見込まれ、建設システムの強化と合理化が求められ始めてきたと捉えることができ、日露戦争をはさんでその傾向は急速に強まり、国内のみならず海外への土木事業進出が業界を牽引してく。
またこの背景のもとで生まれたのが、菅原恒覧が明治40(1907)年に創業した鉄道工業合資会社であった。その創業に至るまでの経緯をみると、菅原は工部大学校土木学科に学んだが、おりしも帝国大学への編入時にあたり、工科大学土木工学科の第1回卒業生となり、卒業と同時に鉄道局に入職、初任給は月俸110円。仙石貢の下で日本鉄道や甲武鉄道の建設工事にあたった。しかし、海外留学の夢断ちがたく、また薩長閥への反発もあって明治21 (1888)年に古市公威の斡旋を受け、佐賀の建設請負振業社に移るが、その当時、振業社は佐世保軍港の請負仕事で損失を出し、九州鉄道の建設工事に希望をかけており、破格の待遇で菅原を迎えている。菅原は九州鉄道の仕事が一段落した明治24年、振業社から多額の退職金を受け取って甲武鉄道に転じ、翌年建築課長に就任した。そして仕事の合間をみて明治31年、念願の海外視察に出た。翌年に帰国復職すると、甲武鉄道建築課長のまま菅原工業事務所という土木測量設計事務所を開設。これには甲武鉄道の経営にあたっていた雨宮敬次郎の助力が大きかったという。雨宮は関東圏で鉄道経営の成功者として知られ、鉄道以外のインフラ・ビジネスも含めて各方面からの相談に乗っていたとされ、その雨宮が技術関係の問題については菅原へ回すようになり、おかげで菅原工業事務所は多忙になったという。依頼される仕事は当初測量設計に限られていたが、明治35年、博多湾鉄道会社より測量設計から工事監督までの一括依頼が成される。その裏には同社重役の原口要の強力な推挙があったというが、このような包括的委託は業界では当然のこと空前で、これにより建設請負への道が開ける。 明治の末頃には建設請負の開業に興味を示す上級技術者がちらほらと現れていた。それは従来の手間請負とは全く別の、高度な専門性を伴うインフラ建設業の独立でもあった。おりしも菅原は指名入札にかかった善知鳥隧道の落札を狙い、鉄道作業局長の松本荘一郎を訪ねたところ、「立派な工学士で官歴もあり、社へ往っても相当の地位を得られる技術者が、どこの鉄道会請負業者などになる必要があるか……甚だ悲しむべきことであるから再考猛省したが良い」と大反対されたという。そこで菅原はこのような情勢のなか、あえて請負業に進出、明治40年に鉄道工業合資会社を設立、多大な成果と実績を残した。同社設立の目的は、分立する土木建設業者を合同して資本を強力にし、機械設備を充実させて大規模諸工事に対処することにあった。個々の土木建設事業そのものにとどまらず、業界全体への菅原の貢献も大きく、後年には鉄道請負業協会、日本土木建築請負業者連合会や土木工業協会等の会長や理事長などの役職に就き、実質的に業界のリーダーとして活動の先鋒に立った。菅原は長命に恵まれたこともあり、後半生では業界に多大な影響力を持った。その意味では稀有な存在である。
こうして日本の社会全体でみれば、時代が下るにつれて建築分野の総合請負とともに、土木施工部分の一括請負が次第に一般化していく。したがって、土木技術関係の「設計」を専門業務とする組織の普及発展はとりわけ遅れることになった。しかしながら、早い者では1890(明治23)年から展開する工学博士山田寅吉工事事務所や大正期には樺島正義と増田淳らが主宰した橋梁設計事務所などがあり、日本工営の前身企業は外地で水力発電関係を中心とした建設コンサルタント業務に従事し、また後に建設技術研究所所長になる内海清温もやはり水力発電関係のコンサルタントを主宰し、多くの府県市町の技術顧問と政府審議会の委員を委嘱していたのである。
昭和20年代前半、戦後の復興に際して鉄道や港湾、ダム・河川といった国民生活に不可欠な社会資本の整備が望まれていたが、膨大な業務量への対応とそのなかでの品質確保が課題となる中、敗戦時に外地からの引揚者や軍の技術将校など多くの建設技術者の処遇をどう活用していくかが懸案であった。1946年には旧植民地引揚者の建設関係の技術者を対象として職斡旋と技術力を復興に役立てることを目的に復興建設技術協会が発足している[1]。
そうした中、米軍当局ジョン・フォスター・ダレスから“コンサルタント業や技術の活用”についての勧告が起こる。当初連合国軍最高司令官総司令部は施設設営にあたり日本に建設コンサルタント業がないことに気づき、本国のコンサルタントを利用するか、または戦後建築設計事務所を再開したアントニン・レイモンドに日本の水力開発地点の調査を依嘱したり、日本にある建築設計事務所に在日米軍基地等諸施設建設に伴う土木分野のコンサルティング業務を発注して(たとえば当時日本建設産業、後の日建設計シビルなどへ)いたため、日本の技術者内でもこうした制度の必要性を訴える声が高まる。時の日本政府は実際問題として連合軍の施設設営指令への対応、国土復興のための膨大な事業に直面していたほか、民間企業の設備投資も緊急を要しているものも少なくなかったという。
こうした背景の中で1946(昭和21)年2月には、上記内海の勧めにより、瀨古新助が日本で初めて[2]建設コンサルタント業を専業とする中央開発技術社(現:中央開発)を創設し、印旛沼干拓事業及び只見川水系の電力開発事業に関する測量・調査・設計にあたった[3]。
また戦前は官公庁でも自治体、教職員などで業務の委嘱が必要な場合は専ら嘱託制度を利用していたのであるが、1948年嘱託制度の廃止に関する措置により、嘱託制度自体を廃止にしてしまう。そこで時の政府は、プロジェクトの調査や設計の一部を、当時欧米諸国にならって事業をスタートさせていた上記内海らの企業を建設コンサルタントとして任せていくという方策を検案し制度化しようとする。幸い戦後復興から社会資本整備の事業量は急速拡大、一連の業務のうち整備構想企画等を除き民間技術力の活用を模索する中、1951(昭和26)年6月に日本技術士会が設立し、コンサルティング・エンジニアを「技術士」とする新語を誕生させた。
昭和30年代の高度成長期、産業の発展と都市機能の急速な拡大に伴って社会資本整備の必要性はさらに高まり、建設コンサルタントの需要は急増。こうして昭和34年1月、建設省事務次官通達「土木事業に係わる設計業務などを委託する場合の契約方式等について」が通達される。この通達によって、任意の事業について原則として設計業務を行うものに施工を行わせてはならないという、いわゆる「設計・施工分離の原則」が明確化され、設計業務(調査、計画、設計)を行う国内の建設コンサルタントの確立に向かうことになった。この背景には昭和32年5月に成立した技術士法があった。
この技術士制度は「火曜会相談所」を組織し、欧米諸国の土木技術界に精通していた白石多士良と宗城の兄弟や平山復二郎らが、戦後の技術者のあり方について、欧米式のコンサルティング業、コンサルティングエンジニア制度の導入が不可欠であろうとの結論から導き出されたとされる。早速1951(昭和26)年9月には、白石宗城、アントニン・レイモンド、およびエリック・フロアの均等出資によるPacific Consultants Inc.をアメリカに登記し、体制を整え始めた(日本法人は現パシフィックコンサルタンツ)。さらに平山らは技術士制度の実現に尽力。国会等で「戦前、どうして技術士の制度がなかったかは、日本は技術の輸入国であり輸出国ではなかった(中略)。欧米の技術や技術者を高く評価しても、日本のそれを一段低くみてきた傾向が、技術士制度の発展しなかった理由である(中略)」さらに、質疑でアメリカ合衆国のコンサルタントが一つの設計を決めていくやり方、また技術士が設計などをやるときの覚悟の違いをスポーツのプロを事例に掲げ、「技術サービスの質と信用が違う(中略)」と力説する平山については 『国土を創った土木技術者たち』、国土政策機構編、鹿島出版会 に詳しい。
技術士法は原案から6年かけて1957(昭和32)年5月20日に法律第124号として無事制定される。たが昭和29年の国会審議においては審議未了で廃案になっている。技術士法成立に奔走した平山はその際に、「省があって国がない」といったといわれる。
その後先行する国内のコンサルタント会社12社で建設コンサルタンツ協会が昭和36年4月に設立され、昭和38年には建設大臣の許可を受けて社団法人化する。同年9月中央建設業審議会から「建設コンサルタントの育成対策について」として、建設コンサルタントの活用をはかること、および発注者の便宜のため一定の技術的能力を有する者に限って登録を実施すべきこと、との答申が出されることとなる。これを受けて、建設コンサルタントの業務内容等を公示し、これらの建設コンサルタントを利用する発注者の保護と利便をはかるとともに、併せて建設コンサルタントの健全な発展に資するため、昭和39年4月建設大臣から「建設コンサルタント登録規程」が告示され、建設コンサルタント登録制度が創設、これを契機に建設コンサルタントは飛躍的な発展を遂げる。
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