小牧山
愛知県小牧市の山 ウィキペディアから
愛知県小牧市の山 ウィキペディアから
かつて織田信長の居城であった、小牧山城(日本の城)があった。現在は山全体が公園となっており、桜の名所としても知られる。公園の分類は「史跡公園」。
なお現在、山頂にある天守閣風建物は、1967年(昭和42年)に建てられたものである(小牧市歴史館(小牧城)参照)。
平野の真中にある為、山の頂上にある小牧城からは周囲を見渡す事ができる。
山の大きさは、東西約600メートル、南北約400メートルである。
山全体の総面積は、約21ヘクタール。
かつてこの山の頂上には、織田信長の命令により、山城が建てられていた。この城は、後に徳川家康が小牧・長久手の戦いで使用した事で有名である(この城については、下記の「小牧山城」参照)。
公園内には、かつての城跡や、曲輪(くるわ)や井戸の跡、土塁を復元した物などの歴史的資料が展示されている。
桜の名所としても、有名である。
北部に、タブノキがある。タブノキは、この地方では小牧山のみに自生している。
全国にある城下町の嚆矢といわれる。
小牧山城(こまきやまじょう)は、日本の城。織田信長が美濃攻めの拠点として築城し、後の小牧・長久手の戦いでは、徳川家康の陣城となった。
濃尾平野の独立峰である小牧山に築城された城で、織田信長が美濃攻めを終えるまでの4年間しか使用されなかった。このため、急造の砦に近いものと想像されていたが、近年の発掘調査の結果で、城郭を取り巻く三重の石垣(三段の石垣で一番下の段は腰巻石垣)が発見された。そして城の南部の発掘調査では、小牧山築城によって移転してきた住民によって営まれた町割も発見された。これにより小牧山城は戦時急造の城ではなく、清洲城に代わる新たな拠点として築かれた城郭であることが判明した。現在は小牧山城が後に織豊系城郭と呼ばれる城郭体系の原点であるとされる。
南山麓から本丸のある頂上に向かう位置には防衛に不向きな大手道が設けられている。途中の中腹から折れのある道へと変化しており、後の安土城の縄張りとの類似性が指摘されている。
標高86mの小牧山頂上に本丸を築き、その周囲を三重の石垣で守りを固め、中腹も削平して数多くの曲輪を構築している。
平成17年度(2005年)に行われた第2次試掘調査で現在の大手道の地下に永禄期の大手道があることが発見された。永禄期の大手道は、山側谷側にもそれぞれに石積を設け、道の両端を区画していた。道幅は約5mで、道に並行して幅 20cmの排水溝を設置していた。この構造は安土城の正面にある大手道と構造的に似通っており、安土城が初見とされる大規模な大手道は、この小牧山城が最初であったと推測されている。
小牧・長久手の戦いの際には、陣城として大掛かりな土木工事が行われ、山の周囲全体を土塁と堀で囲み、要所には防衛用の虎口を設けた。
小牧山築城以前は尾張村を開拓した尾張氏の地であった。元々天照国照の神聖な場であった事が確認されている。現代の発掘結果等から、寺院などの宗教関係の施設も存在していたと考えられている。また間々観音に残る縁起(寺院の沿革)では、「元は小牧山に寺院(間々観音)があったが、織田信長の命によって、現在の地に移設された」とある。また、間々観音は正式には「飛車山龍音寺」であるが、この「飛車(ひくま)山」は小牧山の古い呼び名のひとつであるとされる。
織田信長は、永禄3年5月19日(1560年6月12日)の桶狭間の戦いに勝利した後、念願の美濃国併呑を実現すべく、早くもその3ヶ月後から美濃攻めを開始した。永禄5年1月15日(1562年2月18日)には徳川家康と清須城においていわゆる清洲同盟を結び、尾張国東側の脅威が消滅した。これによって、信長は全力で美濃国を攻める体制を整えるために、美濃国に近い尾張国北方へ本拠地を前進する策が実施可能となった。この新しい本拠地に選ばれたのが、広大な濃尾平野の中に孤峰を保つ小牧山であった。丹羽長秀を奉行として小牧山山頂に城を築き、永禄6年(1563年)7月には主要兵力を小牧山の城に移した。『定光寺年代記』に拠れば城は信長により「火車輪城」と名付けられた。
信長家中の小牧山移転の際のエピソードがある。清須から北方へ移転するという噂が織田家中で囁かれ、誰もが不服に思っていた。そこで信長は一計を案じ、小牧山よりさらに北方の丹羽郡二ノ宮山(現在の愛知県犬山市楽田地区二ノ宮の本宮山)に城を築き移転すると布告した。当然、清須城内は反対一色となった。信長は反対意見が十分に出た頃を見計らい、家中の意見を吟味した結果として、二ノ宮山よりは清洲城に近い小牧山への移転に変更することを申し渡した。すると今度はほとんど反対意見もなく、皆が小牧山への移転に同意したという[2]。この計略は人間心理を巧みに利用したものであり、似たようなエピソードが古今東西に存在するため真偽は不明であるが、文明年間以来、約80年間にわたって守護所として栄え、家臣らが各々の屋敷を持つ清須から他の地へ移ることへの抵抗が大きかったことが推測される。
平成22年(2010年)の発掘調査により、本丸部分から信長の家臣、佐久間信盛を指す可能性の高い「佐久間」と墨書された石垣の石材が出土した。奉行の丹羽長秀一人が築城の全てを取り仕切ったわけではなく、家臣団にそれぞれ資材調達や作事の分担があったことがわかる。また、信長が家臣を競わせ築城を進めさせたと推測する説がある[3]。
従来小牧山城は、後述のように4年間しか使用されなかったため、従来は「美濃攻略のための(土塁などの簡素な作りによる)仮住まいの城」と考えられていたが、平成16年(2004年)からの試掘調査で城の主郭の四方を石垣で囲んだ本格的な城であることが判明し、当初信長は長期滞在も考えていた可能性が指摘されている[4]。また、山麓南側から西側にかけては、清須から移転させた城下町が形成された。移転後、織田軍は小牧山城を本拠地として美濃への侵攻と調略を繰り返し、永禄10年8月15日(1567年9月17日)、美濃斎藤氏の本拠地であった稲葉山城は落城。信長は稲葉山城に拠点を移し城下町の機能を全て移転させたため、小牧山城は約4年間で廃城となった。
天正12年(1584年)、羽柴秀吉と徳川家康が戦った小牧・長久手の戦いでは、家康がいち早く小牧山に目を付けて本陣を置き、遅れてきた秀吉を悔しがらせたといわれる。この時、信長の築いた城跡の土塁、空堀などに大規模な改修が施され、「城」とみなせるほど強固な陣地が築かれた。秀吉の大軍も容易に手が出せず、焦った池田恒興や森長可が三河への無謀な長駆攻撃を敢行し、長久手方面へ突出して壊滅する事態となった。急造「小牧山城」は、徳川勝利の一翼を担ったことになる。この一戦は、頼山陽により「家康公の天下を取るは大坂にあらずして関ケ原にあり。関ケ原にあらずして小牧にあり」と称揚された(『日本外史』)。
家康「御勝利御開運の御陣跡」となり、一般の入山は禁止された[5]。奮地を敬いこの山の下に舘舎を営み、小牧御殿と名づけられた。[6]小牧山碑も建てられたが、今は残っていない。現在残っている曲輪、井戸跡が御殿敷地内にあったと思われる。山と城跡は、江戸時代を通じて尾張徳川家の領地として保護を受け、管理された。元和9年(1623年)には、尾張徳川家が上街道を整備する為、山の南側にあった町を東に移転させた。中山道木曾路の宿驛(うまや)として賑わいを見せた。小牧村の中の小牧驛(うまや)[6]で、現在の小牧駅から真西に数100mの場所である。
明治維新後も尾張徳川家の所有地であったが、昭和2年(1927年)に、時の当主徳川義親によって国に寄付された。同年、国の史跡に指定される。現在でも山中の各所に石垣、土塁、空堀、井戸跡、曲輪、虎口や若干の石垣などが残り、往時を偲ぶことができる。
なお現在、小牧山山頂にある「小牧城(小牧市歴史資料館)」は、昭和42年(1967年)に建設されたものである。また昭和22年(1947年)から平成9年(1997年)までは、山の東側の現在の史跡公園の位置に小牧中学校(建設の際に調査前の土塁や曲輪、虎口の一部が壊された)があったが、現在は別の場所に移転している。
平成29年(2017年)4月6日、続日本100名城(149番)に選定された。
平成30年(2018年)6月6日、小牧市が大手道周辺の木を伐採したのち文化庁の許可を得ずに桜などを植樹するため掘削し、遺構を破壊していたことが発覚。[7]。
現在ある小牧城の建物は、1962年(昭和42年)に名古屋市に住んでいた実業家の平松茂が、自身の財産を投じて建設し、小牧市に寄贈したものである[10]。西本願寺の「飛雲閣」(伝聚楽第の遺構)をモデルとしており、1968年(昭和43年)に開館した[10]。中世から現代にかけての小牧市の歴史的資料が各階に展示されているほか、最上階は展望施設となっている。入場料は一般200円(団体30名以上100円)、ふもとにある小牧山城史跡情報館(れきしるこまき)と共用。18歳以下無料。なお1階部分は無料。開館時間は午前9時から午後4時30分。休館日は毎月第三木曜日(祝日の場合は、翌日)と年末年始。施設の管理運営者は一般財団法人こまき市民文化財団。
施設の老朽化とアスベストの使用の問題から、2006年(平成18年)11月に改装工事が始められた。そして展示物の追加や変更なども行なわれ、2007年(平成19年)3月にリニューアルオープンした。また夜間にはライトアップが行なわれている。
2018年(平成30年)2月〜3月にかけて小牧山を管理する小牧市みどり公園課が、大手道周辺のソメイヨシノの老木など約250本を「倒木の恐れがある」として伐採。ヤマザクラやイロハモミジなどの苗木70本を植えていた事が同年6月6日に発覚した[7]。文化財保護法に基づき本来であれば史跡の現状変更には文化庁の認可が必要だが、同課は伐採に関しては小牧市教育委員会には申請していたが、植樹やそれに伴う掘削に関しては「4年前に樹木を更新していく方針を示していたので問題ないと考えた」「約30cm掘削したが、軽微なものとして対応した[14]」として何の申請もしていなかった。また同市教委もこれは「日常の樹木管理の一環だ」と主張した。
これに対し文化庁は「植樹は作業の詳細や図面などを示して許可を申請するのが一般的」と指摘。また愛知県教育委員会は「遺構への影響がないと独断で判断すべきでなかった」と非難した[15]。さらに奈良大学の千田嘉博教授は「明らかな国史跡の毀損行為で管理者である小牧市が自ら史跡を毀損した責任はきわめて大きい[16]」「史跡では厳密な調査を行い、文化庁の指導のもと専門家による委員会が審議伐採する木を決定し、植栽計画を立てるのが原則[17]」「小牧市みどり公園課の行為は不適切で、絶対にくり返してはいけない。市教委も遺構を破壊した植樹を「日常の樹木管理の一環」とするなら、とんでもない[18]」「植樹によって毀損した小牧山城の遺構は、永久に失われた。猛省して史跡を大切にする整備・活用をしてほしい[19]」と強い調子で非難した。
これに対し同年6月19日に山下史守朗小牧市長は市議会の一般質問で「許可を得る現状変更とは認識していない」と非難を一蹴。しかし「文化庁の判断を待ちたい」などと主張した[20]。
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