この項目では、円周率 自体の歴史について説明しています。ペートル・ベックマンの著書については「πの歴史 」をご覧ください。
本記事では、数学定数 のひとつである円周率の歴史 (えんしゅうりつのれきし)について詳述する。
円周率 π は無理数 であるため、小数 部分は循環せず無限に続く。さらに、円周率 π は超越数 でもあるため、その連分数 表示は循環しない。その近似値は何千年にも亘り世界中で計算されてきた。
[学] :数学的事実に関する発見・論争等
[法] :計算法の考案・改良等
[値] :計算・値の使用
[値] (桁数):計算・値の使用(小数点以下の桁数の記録)
[文] :文化・社会
級数の発見前 — 13世紀まで —
紀元前2000年 頃
[値] (2) 1936年 にスーサ で発見された粘土板 などから、古代バビロニア では、正六角形 の周と円周を比べ、円周率の近似値として 3 や 3+1 / 7 = 22 / 7 , 3+1 / 8 などが使われたと考えられている[1] 。
紀元前1650年 頃
[学][値] 既に、古代エジプト では、円周と直径の比の値と、円の面積 と半径の平方 の比の値が等しいことは知られていた。神官アハメス が書き残したリンド・パピルス には、円積問題 の古典的な解法の一つが記されており、円の直径からその 1 / 9 を引いた長さを一辺とする正方形 の面積と、元の円の面積が等しいとしている[2] 。これは、円周率を近似的に256 / 81 とみなすことに相当し[2] 、それなりに精度の高い近似値であったが普及はしなかった。リンド・パピルスはアハメスによって写されたものであり、内容自体はさらに紀元前1800年頃にまで遡ると考えられている[3] 。
紀元前5世紀 頃
[学] アナクサゴラス が、アポロン への不敬罪で投獄されている間に、円積問題に取り組んだ[4] 。
[法] ヘラクレア のアンティフォン は、円に内接する正多角形 の面積を求めることにより円周率を計算する方法を編み出した。アンティフォンは、それぞれの正多角形から正方形が作図できることから、円積問題が解決できると主張した[5] 。
[値] すぐに、同じヘラクレアのブリソン (英語版 ) が、外接する正多角形の面積を求めて内側と外側の両方から円の面積を評価し近似値を得た。
紀元前3世紀
[法][値] アルキメデス は、円の面積 が円周率と半径の平方の積に等しいことを証明した[6] 。さらに、3の平方根 の最良近似分数 265 / 153 および 1351 / 780 (265 / 153 < √ 3 < 1351 / 780 ) を利用して、円に外接および内接する正六角形、正十二角形、正二十四角形、正四十八角形、正九十六角形の辺の長さの上界 および下界 をそれぞれ計算することにより 3 + 10 / 71 < π < 3 + 1 / 7 を求めた[7] 。小数だと 3.14084 < π < 3.14286 である[8] 。
1世紀
[値] ローマ帝国 の著名な建築家ウィトルウィウス は、25 / 8 を使った。素数の7 よりも、2 の3 乗である 8 で割ったほうが建築には便利だったためである。小数だと 3.125 である[9] 。
2世紀
[値] 天文学者プトレマイオス は 377 / 120 を使った。小数だと約3.1417 である[10] 。
[値] 後漢 の太史令 だった張衡 は、円に外接する正方形の周と円周を比べ、円周率を √ 10 とした。約3.162 になる[11] [12] 。
3世紀
[値] 呉 の王蕃 は 142 / 45 を用いた。約3.1555 である[13] 。
263年
[値] (3) 魏 の劉徽 は『九章算術 』の注釈の中で、ブリソンと同様の方法を用い 3.14 + 64 / 62500 < π < 3.14 + 169 / 62500 であることを示している(これは後に徽率 として知られるようになった)。小数では 3.14102 4 < π < 3.14270 4 である。さらに正3072 角形を用いて、3.14159 という近似値も得た[14] [13] [15] 。なお小数は紀元前の中国で発明され、欧州に伝播したのは16世紀である。よって中国以外では分数によるのみであり、小数での記載はずっと後のことである。
5世紀
[値] (6) 7世紀 に編纂された隋書 律暦志[16] によると、天文学者の祖沖之 は、当時としては非常に正確な評価 3.14159 26 < π < 3.14159 27 を示した。以後1000年、これ以上正確な計算はなされず、ヨーロッパでこれほど正確な評価を得るには16世紀 まで待たねばならない。さらに、分数での近似値 22 / 7 (3.142857 … )と 355 / 113 (約3.14159 29 )を与えている[17] [18] 。正確な方法は伝わっていないが、九章算術の方法を踏襲したと推測すると、上記の結果を得るには少なくとも円に内接する正24576 角形の辺の長さを計算しなければならない(ただし、355 / 113 については置閏法 において用いた近似法 から算出したと考えられている[19] )。隋書では現代と同じ「圓周率」という語が用いられている。祖沖之の息子の祖暅 (そこう)は、父とともに球の体積の計算方法を導き出したことで知られる[20] 。
500年 頃
[値] インドのアリヤバータ は、円に内接する正 n 角形と正 2n 角形の周の長さの間に成り立つ関係式を求め、正384 角形の周の長さから √ 9.8684 (≒ 3.14156 ) と求めた。この平方根の近似値として 3927 / 1250 (= 3.1416 ) を与えた[21] 。
650年 頃
[値] インドのブラーマグプタ は、正12 角形、正24 角形、正48 角形、正96 角形の周の長さから、n が大きくなるにつれ正 3 × 2n 角形の周の長さは √ 10 に近づくとし、これを円周率とした[22] 。
レオナルド・フィボナッチ(ピサのレオナルド )
1220年
[値] イタリアのレオナルド・フィボナッチ (ピサのレオナルド )が円周率を 864 / 275 と計算した。これは、約3.1418 である[23] 。
幾何から解析へ — 14世紀から20世紀前半 —
「円に内接・外接する多角形に基づく近似」なる幾何学的な考察から「級数 を利用した近似」なる解析的な考察への移行は、インドでは1400年頃から1500年代に、ヨーロッパでは1600年代に、日本では1700年代に起きた。
14世紀
1400年 頃
インド南西部(現在のケーララ州 )では天文学・数学が花開き、当時の世界最先端の研究が行われた。ケーララ学派 と総称される学者たちは、三角関数 ・逆三角関数 (正弦、余弦、逆正接)のマクローリン展開 を天文計算に利用した[24] 。これらの級数 はニーラカンタ (英語版 ) の時代には既に知られており、ニーラカンタの発見とされることがある[25] [26] 。しかし、ニーラカンタの天文学書『アールヤバティーヤ・バーシャ』[27] によると、正弦のマクローリン級数の展開式は彼より前の時代の学者の業績であるという。その学者とは、サンガマグラーマ(現:イリンジャラクダ)のマーダヴァ である。以下の式も、マーダヴァの発見とされることが多い[24] [28] :
x
=
tan
x
−
tan
3
x
3
+
tan
5
x
5
−
tan
7
x
7
+
⋯
{\displaystyle x=\tan x-{\frac {\tan ^{3}x}{3}}+{\frac {\tan ^{5}x}{5}}-{\frac {\tan ^{7}x}{7}}+\cdots }
この級数展開は、以下と同等である。
arctan
x
=
x
−
x
3
3
+
x
5
5
−
x
7
7
+
⋯
{\displaystyle \arctan x=x-{\frac {x^{3}}{3}}+{\frac {x^{5}}{5}}-{\frac {x^{7}}{7}}+\cdots }
この級数は、しばらくしてヨーロッパでもジェームズ・グレゴリー とゴットフリート・ライプニッツ により再発見され、一般的にはグレゴリー級数、もしくはライプニッツ級数 などと呼ばれる。
[値] (10?) 一説によると、マーダヴァは上式から直ちに得られる等式、
π
=
12
(
1
−
1
3
⋅
3
1
+
1
5
⋅
3
2
−
1
7
⋅
3
3
+
⋯
)
{\displaystyle \pi ={\sqrt {12}}\,{\biggl (}1-{\frac {1}{3\cdot 3^{1}}}+{\frac {1}{5\cdot 3^{2}}}-{\frac {1}{7\cdot 3^{3}}}+\cdots {\biggr )}}
の21項を計算し、π ≈ 3.14159 26535 9 を得たという[28] 。これは小数点以下10桁目まで正しい(12桁目を四捨五入した11桁の近似値としては全11桁が正しいが、11桁目「8」は未確定)。別の資料によると、彼の近似値は π ≈ 2,827,433,388,233 / 900,000,000,000 で[29] 、これは π ≈ 3.14159 26535 92222… に当たる。マーダヴァが円周率10桁を得たとすると、祖沖之の7桁以来、約1000年ぶりの世界記録更新である。
上記の級数を30項目まで使えば円周率の15桁が決定でき、42項目まで使えば20桁が決定できる。この他にもケーララ学派は円周率の評価に利用できるいくつもの結果を得ていて、その気になれば比較的簡単に円周率の桁数を伸ばせる立場にあった。実際、R. Gupta は、マーダヴァが約17桁まで計算したと予想している[30] 。しかし、記録は見つかっておらず、現時点では想像の域を出ない。
[法] ケーララ学派による円周率の近似は級数に基づくもので、剰余項 も考察している。他地域ではこの200年後(ニーラカンタから数えても100年後)にまだ正多角形の外周に基づく計算をしていることを考えると、極めて先進的だった。円周率の計算法として新しいというだけでなく、無限や極限を扱う新しい数学への大きな一歩だった。
15世紀
1424年
[値] (16) ペルシャの天文学者・数学者ジャムシード・カーシャーニー(アラビア語名: アル=カーシー )は、当時使われていた円周率の近似値の不正確さに不満を抱き、天文計算に必要十分な精度で円周と半径の比を決定したいと考えた。1424年の『円周論』[31] において、彼はアルキメデスの方法を拡張して正805,306,368 (= 3 × 228 ) 角形を用いる計算を行い[32] 、60進数 による次の評価を得た[33] 。
6
;
16
,
59
,
28
,
1
,
34
,
51
,
46
,
14
,
49
,
46
<
2
π
<
6
;
16
,
59
,
28
,
1
,
34
,
51
,
46
,
14
,
50
,
15
{\displaystyle 6;\,16,\,59,\,28,\,1,\,34,\,51,\,46,\,14,\,49,\,46<2\pi <6;\,16,\,59,\,28,\,1,\,34,\,51,\,46,\,14,\,50,\,15}
ここで、6; 16, 59, … は 6 + 16 / 60 + 59 / 602 + … を表す(彼は後に計算を再検討して、下界の末尾の桁を 46 から 45 に改めたという[34] )。現代的な表記に直せば:
3.14159
26535
89793
23084
…
<
π
<
3.14159
26535
89793
25482
…
{\displaystyle 3.14159\,26535\,89793\,23084\ldots <\pi <3.14159\,26535\,89793\,25482\ldots }
彼は近似値 2π = 6; 16, 59, 28, 1, 34, 51, 46, 14, 50 を採用し、10進表示 π = 3.14159 26535 89793 25 も与えた[35] 。これは小数点以下16桁目まで正しく、末尾の17桁目も真の値に近い。記録に残る当時最良の円周率の近似値であり、この世界記録は1596年にルドルフ・ファン・コーレン が小数点以下20桁を示すまで172年間、破られなかった。この業績は、西洋では1920年代 まで知られていなかった[34] 。
1500年 頃
[学] ケーララの天文学者ニーラカンタが、円周率の無理 性を指摘した。彼の著書『アールヤバティーヤ・バーシャ』[27] には、こうある[25] :「直径が何らかの長さの単位で計測されて、その単位の比として表されるなら、その同じ単位によって円周を同様に計測することはできない。よってまた同様に、円周が何らかの単位で計測可能であるのなら、直径はその同じ単位によっては計測できない。」
ケーララ学派 は円周率の級数表示を知っていたため、この認識は自然に生じたのだろう。
[値] (9) ニーラカンタの『タントラ・サングラハ』には、エレガントな分数表示 π ≈ 104348 / 33215 が含まれる[25] 。これは 22 / 7 , 355 / 113 と同様の最良近似分数(より小さい分子・分母でこれより誤差の少ない近似値は作れない)で、小数点以下9桁目まで正しい。
16世紀
1503年
アルキメデスの『円の計測について』と『放物線の面積について』のラテン語訳が、ベネチア で出版された[36] 。
1543年
ニコロ・フォンタナ・タルタリア (Tartaglia ) が、アルキメデスの一部の著作のラテン語訳をベネチアで再出版した[37] 。
1544年
アルキメデスの著作の原文が、初めてまとめて出版された。出版地はバーゼル で、ラテン語訳付きだった[38] 。これによりヨーロッパでは彼の業績が広く知られるようになり、円周率の研究もこれを出発点として本格的に再開された。この時点での西洋の円周率研究は紀元前のアルキメデスの時代からあまり進歩していなかったが、これ以降は急速に発展する。
1579年
[値] (9) フランソワ・ビエタ が、円に内接・外接する正393,216 角形の周の長さから 3.14159 26535 < π < 3.14159 26537 という評価をした。ビエタはさらに、無限乗積
x
1
=
1
2
,
x
n
+
1
=
1
+
x
n
2
{\displaystyle x_{1}={\sqrt {\frac {1}{2}}},\quad x_{n+1}={\sqrt {\frac {1+x_{n}}{2}}}}
2
π
=
∏
n
=
1
∞
x
n
{\displaystyle {\frac {2}{\pi }}=\prod _{n=1}^{\infty }x_{n}}
を示し π の計算を試みた[39] 。
1585年
[値] オランダのアドリアン・アンソニス (英語版 ) が 333 / 106 < π < 377 / 120 と評価し、両端の平均に近い値として 355 / 113 を得た。これは、約3.14159 292 である[40] 。
1593年
[値] (15) フランドル のアドリアーン・ファン・ローメン (英語版 ) (ラテン語名:ローマヌス)が、『数学的観念序説:多角形法』の中で 3.14159 26535 89793 05 < π < 3.14159 26535 89793 15 に当たる評価を与え、π ≈ 3.14159 26535 89793 1 とした[41] 。これは小数点以下15桁目まで正しい。アル=カーシーの世界記録16桁 (1424) にはわずかに及ばなかったが、この時点でヨーロッパ最良の近似値であり、ビエトの結果 (1579) の改良となっている。ただし、円周率の真の値は上記の区間に含まれておらず、厳密な評価ではない。計算は正 15 × 224 (=約2.5億)角形を用いるものだった[42] 。彼は21歳年上のファン・コーレンと親交があり、円周率に興味を持ち始めたのは彼の影響らしい[43] 。
1596年
[値] (20) ルドルフ・ファン・コーレン [44] (ドイツ語読み:ファン・コイレン)が、『円について』で円周率の小数点以下20桁を決定した[45] 。ファン・コーレンはまず、正 5 × 2{25 (= 約2億)角形、正 4 × 228 (= 約10億)角形、正 3 × 231 (= 約60億)角形を用いて、円周率をそれぞれ12桁、16桁、18桁まで求めた。さらに、正 15 × 231 (= 32,212,254,720 ) 角形に基づき次の評価を与えた:
3.14159
26535
89793
23845
<
π
<
3.14159
26535
89793
23847
{\displaystyle 3.14159\,26535\,89793\,23845<\pi <3.14159\,26535\,89793\,23847}
上界・下界の平均を取って π ≈ 3.14159 26535 89793 23846 とすれば、結果的に全20桁が正しい。しかし、ファン・コーレンの態度は厳格で、上記の結果は19桁のみ有効であると正しく指摘した[46] 。最後に彼は π の20桁を示した:
3.14159
26535
89793
23846
<
π
<
3.14159
26535
89793
23847
{\displaystyle 3.14159\,26535\,89793\,23846<\pi <3.14159\,26535\,89793\,23847}
この計算は、辺の数をさらに2倍にした正 15 × 232 (= 64,424,509,440 ) 角形に基づく[34] [47] [48] 。ファン・ローメンの15桁の計算 (1593) の改良であり、アル=カーシーの16桁の記録 (1424) を上回る新しい世界記録の達成だった。
ファン・コーレンはヒルデスハイム で生まれ、ホラント (現:オランダ西部 )に移住した。フェンシングと数学の教師だった。高等教育は受けていなかったが、円積問題や円周率を巡る数学上の論争に巻き込まれ、1590年(50歳)頃から円周率に興味を持ち始めたらしい[49] 。
17世紀
オランダのライデン にあるファン・コーレンの墓(復元後)。彼が得た35桁の上界・下界(末尾桁1違い)が刻まれている。
1610年 頃
[値] (35) ファン・コーレンは、1610年に亡くなるまでのいずれかの時点で、正 262 (=約461京1686兆)角形を使って π の35桁目までを正しく評価した。この結果は、1621年、弟子のスネリウス の著書『キュクロメトリクス:円の計測について』[50] で公表されたほか、本人の墓(生前の1602年に購入した記録がある)に刻まれた。墓石は後代に滅失したが、碑文とスケッチは残っており、2000年に復元された[49] 。かつてドイツでは、彼の名に因んで円周率をルドルフ数 (Ludolphsche Zahl ) と呼んだ[51] 。
1621年
[法][値] オランダのヴィレブロルト・スネル (ラテン語名: スネリウス)が、円周の長さの評価式を与える。
3
sin
θ
2
+
cos
θ
<
θ
<
2
sin
θ
+
tan
θ
3
{\displaystyle {\frac {3\sin \theta }{2+\cos \theta }}<\theta <{\frac {2\sin \theta +\tan \theta }{3}}}
この式と円に内接・外接する正 6 角形から 3.14022 < π < 3.14160 と評価した。この式の証明はクリスティアーン・ホイヘンス によって与えられ、さらにホイヘンスによって改良された結果、正六角形 を用いただけで 3.14159 26533 < π < 3.14159 26538 と評価できるまでになった[52] 。
スネリウスはファン・コーレンの弟子だった。彼の方法なら、ファン・コーレンが正 262 角形を使って得た35桁は、230 角形を考えるだけで得られるという。その気になれば、計算記録を更新できる立場だった。しかし、彼は別の分野で活躍しており、すでに35桁あった円周率の有効数字をさらに伸ばすために時間を割くことはしなかった。
1630年
[値] (38) オーストリア出身の天文学者・数学者クリストフ・グリーンベルガー (英語版 ) は、スネリウスの手法を用いて円周率の小数点以下39桁目までを計算し、1630年に出版された自著『三角法の基礎』の中で公表した[53] 。39桁目は 7 だが、彼はそれを 6 と 9 の間だと正しく評価した[54] 。桁数という意味では38桁目まで確定させたことになる。
1655年
[法] イギリスのジョン・ウォリス は無限乗積
π
2
=
∏
n
=
1
∞
(
2
n
)
2
(
2
n
−
1
)
(
2
n
+
1
)
{\displaystyle {\frac {\pi }{2}}=\prod _{n=1}^{\infty }{\frac {(2n)^{2}}{(2n-1)(2n+1)}}}
を示した。ビエタの公式のように根号が無いため計算はしやすいが、収束はとても遅い[55] 。
同じくイギリスのブラウンカー が、連分数 を用いた公式
4
π
=
1
+
1
2
2
+
3
2
2
+
⋯
⋯
+
(
2
n
−
1
)
2
2
+
⋯
{\displaystyle {\frac {4}{\pi }}=1+{\cfrac {1^{2}}{2+{\cfrac {3^{2}}{2+{\cfrac {\cdots }{\cdots +{\cfrac {\left(2n-1\right)^{2}}{2+\cdots }}}}}}}}}
を示した[56] 。この公式により π が無理数 であることが分かる。
1663年
[値] 村松茂清 が『算俎』を著し、円に内接する正 2n 角形 (2 ≤ n ≤ 15) の辺の長さから π ≒ 3.1415 92648 77769 88692 48 とし、小数点以下7桁まで正しい値を求めた。ファン・コーレンなどの計算には遠く及ばないものの、近似値として単に 3.16 という値を示すのみであった『塵劫記 』や、中国などを通じて入ってくる算書に頼り切ってきたそれ以前の和算から一歩を踏み出し、日本で初めて数学的な方法で円周率を計算し発表した和算家が村松である。和算において、円周率をはじめとする円に関する研究は「円理 」と呼ばれ、一定の発展を見せたが、例えば外接多角形との「はさみうち」によって何桁目まで正しいかを論証する、といったような基本的な数学的発展さえわずかであったのが「和算の限界」であった(円周率#和算における円周率の取り扱い )。
1665年
[学] イギリスの政治哲学 者のトマス・ホッブズ が円積問題 の解を公表し、ウォリス との間で論争になる。ホッブズは死ぬまで厳密解と近似解の違いを理解できずに論争を続けた[57] 。
ジェームス・グレゴリー
1671年
[法] スコットランドのジェームス・グレゴリー により、グレゴリー級数
arctan
x
=
∑
n
=
0
∞
(
−
1
)
n
2
n
+
1
x
2
n
+
1
=
x
−
1
3
x
3
+
1
5
x
5
−
1
7
x
7
+
⋯
{\displaystyle \arctan x=\sum _{n=0}^{\infty }{\frac {(-1)^{n}}{2n+1}}\,x^{2n+1}=x-{\frac {1}{3}}\,x^{3}+{\frac {1}{5}}\,x^{5}-{\frac {1}{7}}\,x^{7}+\cdots }
が発見される。これとは独立に1674年 にゴットフリート・ライプニッツ も同じ発見をしており、グレゴリー・ライプニッツ級数とも呼ばれる。ライプニッツは x = 1 を代入し、マーダヴァと同じ級数を得た[58] 。
1681年
[値] 暦 の作成にあたって円周率の近似値が必要になったため、関孝和 が正 131,072 角形を使って小数第 16 位まで算出した。関が最終的に採用した近似値は「3.14159 26535 9微弱」というものだった[59] が、エイトケン補外 を用いた途中計算では小数第 16 位まで正確に求めている[60] 。西洋でエイトケン補外が再発見されたのは1876年 、ハンス・フォン・ネーゲルスバッハ (Hans von Nägelsbach )によってである[60] [61] 。
1699年
[値] (72) イギリス人のエイブラハム・シャープ がグレゴリー・ライプニッツ級数に
x
=
1
3
{\displaystyle x={\frac {1}{\sqrt {3}}}}
を入れ、π を小数第 72 位まで求めた[62] 。
マチンの公式。
18世紀
1706年
[法][値] (100) イギリスのジョン・マチン がマチンの公式
π
4
=
4
arctan
1
5
−
arctan
1
239
{\displaystyle {\frac {\pi }{4}}=4\arctan {\frac {1}{5}}-\arctan {\frac {1}{239}}}
を発見する。さらに、この関係式にグレゴリー・ライプニッツ級数を用いて小数第 100 位までの円周率を求めた[63] 。
[文] ウィリアム・ジョーンズ が初めて π を円周率の意味で用いた。1748年 にレオンハルト・オイラー も同じ記法を用いたことで円周率を π と表記することが広まった[64] 。
1719年
[値] (127) フランスのトーマス・ラグニー が、シャープの方法で小数第 127 位まで計算を行う[65] 。
1722年
[値] 建部賢弘 が『綴術算経 』(てつじゅつさんけい)を著し、正 1024 角形を用いて小数第 42 位まで求めた[66] 。「累遍増約術」(リチャードソン補外 )を適用し、関孝和の計算に比べて遥かに少ない計算で精度を大いに改善している。なお、ルイス・フライ・リチャードソン による同手法の提案は1910年頃である。
1761年
ヨハン・ハインリッヒ・ランベルト
[学] ドイツのヨハン・ハインリッヒ・ランベルト によって π が有理数 でないことが証明される[67] 。
18世紀 中頃
[法] レオンハルト・オイラー によって、多くの π に関する式が発見される。オイラーは
π
4
=
5
arctan
1
7
+
2
arctan
3
79
{\displaystyle {\frac {\pi }{4}}=5\arctan {\frac {1}{7}}+2\arctan {\frac {3}{79}}}
を用いて、 たった1時間で円周率を小数第 20 位まで計算した[68] 。
1775年
[学] フランスの科学アカデミー が、ギリシアの三大作図問題 と永久機関 についての論文審査を拒否する決議をした[69] 。
1789年
[値] (137) スロベニア の数学者ユーリイ・ヴェガ (英語版 ) は、マチンの公式を用いて小数第 140 位まで値を求め、小数第 137 位までが正しかった。この記録はその後50年破られることがなかった[70] 。
1794年
[学] アドリアン=マリ・ルジャンドル によって π は有理数 の平方根 にならないことが証明される[71] 。
19世紀
19世紀初期
[法] カール・フリードリヒ・ガウス とアドリアン=マリ・ルジャンドル が独立に、算術平均 (相加平均)と幾何平均 (相乗平均)を利用した反復計算アルゴリズム を研究。1970年代に再発見され、現在ではガウス=ルジャンドルのアルゴリズム と呼ばれる。円周率 を計算するものの中では非常に収束 が速い。
1850年頃 - 1873年
[値] (527) イギリスのウィリアム・ラザフォード とその弟子のウィリアム・シャンクス がマチンの公式を用いて桁数の記録を塗り替えた。1852年にラザフォードが小数第 441 位、シャンクスが小数第 530 位まで計算し、小数第 441 位までは両者の計算が一致していることでその計算の正しさを確認できた。しかし、arctan 1 / 5 が小数第 530 位までしか正しくなく、シャンクスの計算で正しかったのは、小数第 527 位までであった。その後、シャンクスは1872年に小数第 707 位まで達したが、この誤りが最後までつきまとった[72] 。
1882年
[学] フェルディナント・フォン・リンデマン によって π が代数的数 でないことが証明される。これにより π の超越性 が証明され、円積問題 も否定的に解決された[73] 。
1896年
[法] カール・ストーマー (英語版 ) は公式
π
4
=
6
arctan
1
8
+
2
arctan
1
57
+
arctan
1
239
{\displaystyle {\frac {\pi }{4}}=6\arctan {\frac {1}{8}}+2\arctan {\frac {1}{57}}+\arctan {\frac {1}{239}}}
を発見する[74] [75] 。
1897年
[文][値] アメリカ合衆国 のインディアナ州 の下院で、医者 のエドウィン・グッドウィン による円積問題解決方法を盛り込んだ議案246号が満場一致で通過した。グッドウィンの方法から得られる値は π = 3.1604, 3.2, 3.232, 4 であり、このうち 4 については、公式に認められた最も不正確な円周率の値としてギネスブック に記載された。この法案は各審議会を通過していき上院に承認を求める段階にまで達した。しかし世論の批判に遭い、2月12日に上院によって議論の無期限延期が決められ、法案成立目前で却下された[76] 。
20世紀
「インドの魔術師」ことシュリニヴァーサ・ラマヌジャン は、円周率の計算の為の多くの革新的な級数を生み出した。
1910年
[法] ラマヌジャン によって、級数表示
1
π
=
2
2
99
2
∑
n
=
0
∞
(
4
n
)
!
(
n
!
)
4
26390
n
+
1103
396
4
n
{\displaystyle {\frac {1}{\pi }}={\frac {2{\sqrt {2}}}{99^{2}}}\sum _{n=0}^{\infty }{\frac {(4n)!}{(n!)^{4}}}{\frac {26390n+1103}{396^{4n}}}}
が発見される[77] [78] 。この公式は、ジョナサン & ピーター・ボールウェイン 兄弟によって1987年 に厳密に証明されるが、1985年 にウィリアム・ゴスパー がこの公式を用いて円周率を計算し、その正確さを示している。
1945年
[値] (540) ファーガソン (D.F.Ferguson) が小数第 540 位までを計算し、ウィリアム・シャンクスの誤りを指摘する。シャンクスの計算は約70年間も信用されていた[79] 。
このファーガソンの計算までが手計算によるものだった。手計算の時代は誤りが起こることも多かったが、この時代の数学の成果は、現代の計算機による円周率の計算においても非常に重要な役割を果たすことになる。
出典
『円の計算 』命題一:任意の円は、つぎのような直角三角形――すなわち、その半径が直角を挟(はさ)む一辺に等しく、円の周が底辺に等しいような直角三角形(の面積)に等しい。アルキメデス 1972 , pp.482-483.
『円の計算 』命題三:任意の円の周はその直径の3倍よりも大きく、その超過分は直径の 1 / 7 よりは小さく、10 / 71 よりは大きい(3+10 / 71 < π < 3+1 / 7 )。アルキメデス 1972 , pp.484-487.
『アールヤバティーヤ』(Āryabhaṭīya ) は、天文学者アールヤバタ (476–550) の著作(カタカナで書くとアーリャバタ、アーリャバティーヤだが、日本語ではアールヤバタ、アールヤバティーヤと呼ばれているのでそれに従う)。『アールヤバティーヤ・バーシャ』(Āryabhaṭīya-bhāṣya ) は、約1000年後のニーラカンタが『アールヤバティーヤ』を解説したもの。
الرسالة المحيطية ar-risālah al-muḥīṭiyyah — ar- は al- とも書かれ、iyy は īy または īyy とも書かれる。語末の h は表記しないことがある。
正確には、5 × 2π の近似値 31.41592… を小数第16位まで示した。
「円に内接・外接する2億5165万8240角形を考える」とあり 、15角形を第1段階として辺の数を次々と2倍にして第25段階で結果を得ている 。
標準オランダ語では v は有声音なので、van の部分はバン(ヴァン)と表記するべきかもしれない。彼の住んだ地域の方言では(少なくとも現代では)v が無声音として発音されるということから、暫定的にファン・コーレンと表記しておく。
Snellius, Willebrordus (Snel, Willebrord ) (1621) (ラテン語). Cyclometricus, De circuli dimensione
Grienbergerus, Christophorus (Grienberger, Christoph ) (1630) (ラテン語). Elementa Trigonometrica
「得三尺一寸四分一厘五毛九糸二忽六微五繊三紗五塵九埃微弱,為定周」平山 2007 , pp.57-58.
H.von.Nä gelsbach, Arch.Math.Phys. 59(1876)147-192.
ベックマン 2006 , pp.280-281では1767年としている。p.339では1766年としている。
シュリニヴァーサ・ラマヌジャン (1914). “Modular Equations and Approximations to pi”. Journal of the Indian Mathematical Society (Indian Mathematical Society) (XLV): 350-372.
G.H. Hardy , P. V. Seshu Aiyar, and B. M. Wilson, ed (1962). Srinivasa Ramanujan: Collected Papers . Chelsea Publishing Company. pp. 23-29