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日本のスピードスケート選手 ウィキペディアから
樺太出身[1]。北海道苫小牧工業高等学校在学中、1960年国体で500mと1500mの2冠、1961年には国体とインターハイの500mと1500mのそれぞれ2冠を達成した[1]。1966年、明治大学政治経済学部卒業後[2]、国土計画に所属。
1968年と1970年にスピードスケート500mの世界記録を樹立した[3]。しかし、3回出場したオリンピックではいずれもメダルに届かず、悲運の選手として知られる。特に1968年グルノーブルオリンピックでは世界記録保持者として出場し、鈴木は金メダル候補と呼ばれながらレース直前に小石を踏んでしまい、スケートのブレード(刃)が欠けるアクシデントに見舞われ8位に終わった[1][4]。
1972年札幌オリンピックでは、リーダーシップと過去2回のオリンピック出場経験から選手団主将に選ばれ選手宣誓も行っている[1][2]。だが、本人は前年に引退を宣言しており[1]、本大会では19位と全く振るわなかった。
篠田正浩監督による記録映画『札幌オリンピック』では、鈴木の練習風景、ライバルであったエアハルド・ケラー( 西ドイツ/グルノーブル&札幌の500m金メダリスト)との友情、レース、鈴木の実績が詳細に紹介されている[1]。
現役引退後はプロ野球西武ライオンズ球団職員に異動し、チーム広報担当を務めた[4]。
2006年トリノオリンピックではスピードスケート日本代表監督を務め、2006年10月から日本スケート連盟理事を務めた。2010年バンクーバーオリンピックでは日本選手団全体の総監督として[3]、全競技代表の総指揮を執った。
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