西村屋与八
江戸時代の浮世絵の版元 ウィキペディアから
江戸時代の浮世絵の版元 ウィキペディアから
西村屋 与八(にしむらや よはち、生没年不詳)は、江戸時代の浮世絵の版元。蔦重、鶴喜とともに天明寛政期における錦絵の代表的な版元であった。3代目まで続いた。
永寿堂と号す。姓は日比野、栄寿斎ともいった。書物問屋・地本草紙問屋。地本草紙問屋元組(古組)の一軒であった。馬喰町2丁目南角庄兵衛店で宝暦から慶応の頃にかけて活動している。宝暦期における紅摺絵の時代から西村重長らの作品がみられ、そのころの浮絵には「風流江戸絵五色墨元祖 永寿堂日比野」とある。浮絵以外には宝暦期には鳥居清満、鳥居清広画の細判役者絵などが多くみられる。明和安永期には鈴木春信、一筆斎文調、勝川春章、勝川春英、歌川豊春を始めとする多数の錦絵が確認されている。このころの錦絵には版元印がないものが多くみられるが、その中には西村屋与八版も多く含まれていると推定される。安永6年(1777年)から天明2年(1782年)頃に版行した磯田湖龍斎の『雛形若菜の初模様』(大判100枚越えの揃物、後に鳥居清長、勝川春山画)を始めは蔦屋重三郎と合梓により版行、間もなく単独版行をしているのは注目に値する。この作品により、それまでの美人画の判型を中判から大判に方向付けした。鳥居清長の作品を最も多く出版した版元として著名であり、寛政には入ると美人画を制していた西村屋に対して蔦屋重三郎は喜多川歌麿や東洲斎写楽を推して対抗した。また、西村屋もこれに抗して歌川豊国や鳥文斎栄之、葛堂栄隆、勝川春潮、歌川国貞らを登用して多数の作品を発表していったほか、黄表紙の出版も多かった。歌川広重の花鳥画、葛飾北斎らの風景画にも取り組み、浮世絵風景画の確立に貢献している。文政7年(1824年)に刊行された『江戸買物独案内』には「経書・医書・仏書・神書・歌書・石刻・唐本・和本・寺子必読往来物・草紙・錦絵・絵本」と非常に多数の商品が挙げられている。文政9年(1826年)頃には馬喰町2丁目庄兵衛店で営業していた。2代目西村屋与八は山巴亭青江という名で戯作も残している。
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