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日本の平安時代の女官、歌人 ウィキペディアから
藤原 長子(ふじわら の ちょうし、承暦3年(1079年)頃 - 没年不詳)は、平安時代後期の女官である。『讃岐典侍日記』の作者。父は讃岐入道藤原顕綱。兄に家通、姉に藤三位(とうさんみ)と呼ばれた堀河天皇乳母の兼子。女房名は讃岐典侍(さぬきの(ないしの)すけ)。
姉兼子が堀河天皇の乳母であったことから、康和2年(1100年)堀河天皇に出仕[* 1]、翌年暮に典侍に任じられ[* 2]、その身近で「もろともに八年の春秋」[1]を過ごした[* 3]。嘉承2年(1107年)7月、堀河天皇の病重く重態に陥ると、その側を離れず最期の時まで看病し続けた。
一度は、宮仕えから身を退いたが、翌天仁元年(1108年)から白河院の強い意向を受け、幼帝鳥羽天皇の典侍として再出仕した。その後、時期は不明だが、典侍の職を辞していたと思われる。
元永元年(1118年)秋ごろから、しばしば先帝堀河院の霊が憑き、鳥羽天皇を守護すると称して内裏に常駐するようになった。そして中宮璋子(待賢門院)の懐妊を予言、皇子誕生を朝夕に内侍所で祈り、翌元永2年(1119年)実現させた(後の崇徳天皇)。鳥羽天皇をはじめとして内裏での信を得ていたが、やがて堀河院の霊の言葉として、兄道経を近江守に任ぜよと命じたり、種々雑多のこと[* 4]を言い出し、白河院により参内を停止された[* 5]。
長子が『讃岐典侍日記』に書き留めた幼帝鳥羽天皇の口ずさみ「ふれふれこゆき」は、200年あまり後に、兼好法師によって「昔より言ひけることにや」と、引用されている[3]。文字に残されたわらべうたの記録[4]として最古のものという。
歌集名 | 作者名表記 | 歌数 |
---|---|---|
新勅撰和歌集 | 堀河院讃岐典侍 | 1 |
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