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平安時代後期の公卿・歌人 ウィキペディアから
源 師時(みなもと の もろとき)は、平安時代後期の公卿・歌人。村上源氏、左大臣・源俊房の次男。
白河上皇・鳥羽上皇に信任され、正三位・権中納言に至るが、父祖の官位に達することはなかった。日記『長秋記』は院政期初期の重要史料の一つとして重んじられている。
白河院政期初頭の寛治2年(1088年)従五位下に叙爵し、寛治7年(1093年)左兵衛佐に任ぜられる。承徳元年(1097年)右近衛少将兼五位蔵人と引き続き武官を務める一方で、嘉保元年(1094年)従五位上、永長元年(1096年)正五位下、康和元年(1099年)従四位下、康和4年(1102年)従四位上と昇進した。
のち、嘉承元年(1106年)右近衛中将、嘉承2年(1107年)正四位下と昇進し、同年皇后・令子内親王(鳥羽天皇の准母)の皇后宮権亮を兼ねる。
しかし、その後は永久元年(1113年)に発生した永久の変などにより昇進が遅滞し、保安2年(1121年)の父・俊房の薨去を経て、保安3年(1122年)正月に蔵人頭に任ぜられ、同年12月に参議としてようやく公卿に列した。
議政官として、引き続き中将を務める一方で皇后宮権大夫として令子内親王にも仕え続け、この間の天治3年(1126年)従三位に昇叙されている。この頃、序列が下の参議であった藤原為隆が中納言への昇任を望んだが、師時が愁訴してこれを阻止したとの逸話がある[1]。
詩歌に優れ、和歌では『金葉和歌集』(5首)以下の勅撰和歌集に20首が入集[2]、また兄師頼と共に『堀河百首』の詠み手の一人である。漢詩においても、師頼ほどではなかったが、師である大江匡房から「この君は、詩の心得て、よく作り給ふ」[1]と賞賛されている。父俊房を継いで有職故実に通じ、源有仁等にも教導した。
また、作庭をよくし、鳥羽殿の庭園の造営を手がけたという[1][3]。日記『長秋記』があり、当時これほど多く書きためた者はいないとまで言われた[1]。現在にも長治2年(1105年)から保延2年(1136年)までの期間の部分が伝わっている。
妻を6-7人持ち、毎晩のようにそれぞれの妻の所へ一晩中渡り歩き、正午頃まで朝寝をしていた。また妻同士も仲が良く、言葉を交わして交際していたという(『今鏡』)[1]。
『公卿補任』による。
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