苦楽園
兵庫県西宮市にある地名 ウィキペディアから
兵庫県西宮市にある地名 ウィキペディアから
西宮市の北中部から西部に至る山手側の地域を示し、苦楽園一番町から苦楽園六番町と分かれる。かつて苦楽園四番町には、歌人・下村海南、苦楽園五番町には俳人・山口誓子が居住していたことから、現在でもその地に石碑が残されている。
元々、山林のみの地域であったが、1911年(明治44年)より、別荘地として先に開発が行われることになった。名前は開発に携わった大阪市の実業家・中村伊三郎所有の、苦楽瓢という瓢箪に因んでいる。明治時代に最後の太政大臣となった公卿・三条実美が、江戸時代末期、都落ちする際、この瓢箪で他の公卿と別れの杯を交わし、後日、再会を果たしたことから「苦のあとに楽がある」として名付けられたという[2]。ちなみに、この苦楽瓢は本家の次女孝子が戦後まで保管していた記録があるが、その後、火事で消失したと言われている。
中村は、明治天皇のシャツも納入の「中村莫大小(メリヤス)」を大阪市で経営。「大陸浪人」革命家と知られる宮崎滔天とも交流があり、宮崎の支援する「中国革命の父」孫文が、日本に亡命中の1913年(大正2年)3月11日、中村メリヤス工場を訪れるなど、多方面で活躍した事業家だった。苦楽園では、道路拡張や上水道、電灯・電話などインフラ整備も進めている。
ほぼ同時期、この一帯からラジウムを含む明礬温泉が発見され、保養地としても脚光を浴びることになる。1914年に山開きが行われ、1919年には阪神間における住宅開発などを手がけてきた「西宮土地」の保有となり、宿泊施設がいくつも立ち並ぶ観光地になったといわれている。温泉を訪れた元総理大臣大隈重信は「東瀛(とうえい)(東海)第一泉」と命名。歌人として知られる元国務大臣下村海南も別荘を構えた[2]。
阪急バスのルーツである摂津遊覧自動車は、最初の路線として1927年に阪神電気鉄道香櫨園駅と苦楽園を結ぶバス路線を開設した。苦楽園は阪急バス発祥の地ともいえる。
当時の阪神急行電鉄も「ラジウム温泉苦楽園」の宣伝を積極的に行った。1932年頃の夙川駅の写真には「六甲ラヂューム温泉苦樂園」と書かれた立て看板が確認できる。
しかし、1938年の阪神大水害で湯が枯渇し、それによって観光地としての苦楽園の歴史は幕を閉じ、以後は住宅地として開発が行われた。
住宅地の地価は2014年(平成26年)1月1日に公表された公示地価によれば苦楽園六番町2-10の地点で18万7000円/m2となっている。
阪急バス 苦楽園停留所が最寄りとなる。
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