矢橋亮吉
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矢橋 亮吉(やばし りょうきち、1867年9月6日 - 1946年9月30日)は、日本の実業家、銀行経営者、慈善活動家。「先祖は嵯峨天皇の第12皇子で光源氏の実在モデルの有力候補とされる源融(みなもとのとおる)にまで遡る(アーカイブ)」矢橋家[注釈 1][1][2][3][4][5]・本家の出身。国会議事堂などの日本の近代建築史に残る建造物・高層ビル・ホテル・豪華列車の床材・海外の航空会社のラウンジから自動運転技術・EV・新幹線などまで関わってきた、矢橋グループの一翼を担う矢橋大理石[6]の創業者。
1867年に美濃赤坂で生まれる。明治維新の廃藩置県の時に、徳川家康が織田信長の岐阜城千畳敷御殿を移築し造営させた将軍家専用休泊所であるお茶屋屋敷の払下げを受けた矢橋本家・宗太郎[7]の三男。
実父である矢橋本家・宗太郎の二女で姉の勝(後改幾世)の三男である、大蔵省営繕官僚として中心となって国会議事堂の設計をまとめた甥矢橋賢吉(矢橋惣本家)と上京。矢橋賢吉は東京帝国大学、矢橋亮吉は高等商業(現・一橋大学)を、それぞれ卒業する。一時父と疎遠になる。東京海上専務取締役・第45代文部大臣 (大日本帝国憲法時代)・甲南大学・甲南高等学校・中学校の創立者である平生釟三郎とは高等商業時代互いに門番をして支え合った学友。
1901年に美濃赤坂で矢橋大理石商店[6]を創業し、工芸品の製作から建築用石材の加工へと発展させる。国会議事堂、日本銀行などに施工実績を有する。美濃赤坂にある西洋館には、昭和天皇と皇太子時代の明仁上皇が行幸している[8][9][10]。
1916年に濃飛農工銀行頭取に就任(同行は1937年に通称勧農合併法に基づき日本勧業銀行 (現・みずほ銀行) に吸収される。「農工銀行#存在した農工銀行」、「特殊銀行 (日本金融史)#概要」参照)。
「矢橋家家系図」によれば、矢橋家(惣本家・本家・南矢橋・北矢橋)は、嵯峨天皇・源融(紫式部『源氏物語』の主人公光源氏の実在モデルの有力候補)まで遡る[注釈 1][32][3][4][5][33]。
遠縁[36]:所郁太郎(実父・矢橋亦一、養父・所伊織)(大垣藩の生まれ、適塾塾頭、暗殺者に襲われた元勲・井上馨を治療した医師、幕末の志士、高杉晋作の参謀、長州藩遊撃隊軍監、従四位追叙)
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