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中国の伝承 ウィキペディアから
『白蛇伝』(はくじゃでん)は、中国古代の四大民間伝説[1]の一つとされる、物語類型の総称。それぞれの時代・地域で民衆や為政者の志向に合わせて変化し、小説や戯曲などの題材とされた。
初めは白蛇の妖怪が白衣の美しい女性に化けて、淫慾を満たしその心肝を食うために若い男性を攫う、という素朴な民間説話が物語の大きな枠組みであった。それが時代とともに発展・変化しながらいろいろな挿話が付加・削除され、最終的には人類の男性と白蛇の化身である女性との恋愛物語(異類婚姻譚)となる。白蛇と人間は夫婦になるものの白蛇は法力を持った禅師等に正体を見破られ、西湖畔の雷峰塔に封じ込められる。しかし発展・変化の過程で妖怪の元来の目的が削除され、白蛇が退治される事由が語られずに恋愛の部分に重点が置かれるようになり、さらにハッピーエンドを迎えるものまで作られている。
(川田耕 2014, p. 37-57)は、中世以降の中国で蛇に関する説話が突出して多くなり、近世にかけて様々な物語が生み出され語り継がれていくなかで、次第に形成され発展していったと推測し、『白蛇伝』の遷移に中国の古代から近代への過程を投影している[2]。
戦後日本においては、1956年、周恩来の命により来日した京劇の梅蘭芳一行の公演に『白蛇伝』中の演目[3]が含まれており、また同年、日本初の総天然色特撮映画『白夫人の妖恋』(1956年、東宝)が公開され人々の耳目を集めた。日本初の総天然色長編漫画映画『白蛇伝』(1958年、東映)も公開され、この物語は一般の日本人にもなじみ深いものになった。
一方、この伝説はギリシア神話のラミアーと関係があるという指摘もなされている[4]。
残存する『白蛇伝』に関係する最古の物語と考えられているものは[5]、中唐の谷神子(こくしんし、鄭還古)撰の『李黄』(唐代伝奇集『博異志』、後に『太平広記』[6]に収録[7])である。日本語訳は今村与志雄 訳がある[8]。
―『李黄』あらすじ―
唐元和2年(807年)、塩鉄使である李遜の甥の李黄が長安の東市で牛車に乗った白衣の美女に出会った。侍婢に訊ねると夫の喪が明けたばかりの未亡人で、手持ちの金がないというので、銭と帛を立替えたところ屋敷に招かれる。白衣の娘の叔母と名乗る老婆が、実は貧しい暮らしで三万銭の借財がある。よければ側仕えさせたいと申し出る。李黄は下僕に三万銭を取りに行かせ、誘われるままに三日間泊った。四日目になると老婆が長泊して李黄が叔父に咎めらないよう取り敢えず帰るよう勧める。下僕は李黄が生臭くなっていることに気づいたが、言われるままに帰宅した。すると何日も何をしていたのか家人に尋ねられたが、体の具合が悪かったのでそのまま寝床に入った。やがて取り留めないことを口走るようになり、婚約者に対し自分はもうだめだ、と言った。夜具をおそるおそるめくると、体がとけて水となり頭だけが残っていた。家人が下僕を問いただし、女の家にいくと、そこは廃園だった。一本の皁莢(さいかち)の樹があり、樹の上に一万五千、樹の下に一万五千の銭があった。近所の者によると、樹の下によく大きな白蛇がとぐろを巻いていた以外はなにもなかったとのことであった。
続けて復一説として別の話も掲載されており大筋は同じだが多少の違いがある。主人公の名が李琯であり、最後は体が水になるのではなく頭が裂けて死ぬことになっている。家人が女の家のあった場所にいくと枯れた槐(えんじゅ)の樹があり、そこには大蛇がとぐろをまいた跡があった。樹の根元を掘り起こすと、小さい白蛇が数匹いたので、一匹残らず殺して帰ったとのこと。
明嘉靖20 - 30年(1541年 - 1551年)頃[10]になり、『白蛇伝』という物語が形成されてきたと思われているものに『清平山堂話本 西湖三塔記[11]』洪楩((中国語版)、こうべん)編刊がある。講釈師(説話人)の語る台本を文字化したものであり、現存最古の話本(中国語版)とされる。日本語訳は入矢義高 訳がある[12]。青木正児は『小説「西湖三塔」と「雷峯塔」』[13]に、西湖に鼎立せる三塔[14]に絡んだ話が原型であるらしく思われる、としている。しかし、この話本においては未だ『雷峰塔』は登場せず『三個の石塔』となっている[15]。
はじめに蘇東坡の詩など、いくつかの歌謡を含む西湖賞賛の長いくだりがある。
南宋孝宗の淳熙年間(1174年 - 1189年)、臨安府湧金門内に住む岳飛麾下の奚という統制官の一人むすこの奚宣賛という青年が、折しも清明節だったので母親の許しを得て、西湖に遊山に出かけた。そこで宣賛は、上から下まで真っ白の絹の着物をきた迷子の女の子を見つけた。名を問えば、西湖に住んでおり白というみょう字、祖母と遊びにでたところはぐれて道に迷ったとのこと。その女の子が宣賛の着物をつかんで手を離さないので仕方なく家に連れ帰った。女の子の名は卯奴(ぼうど)といい、家にあずかって十日あまりたった。すると表に四人轎[16]に乗った黒衣をまとった老婆(婆婆身穿皂衣)があらわれ、迷子の祖母だと答え、宣賛にぜひお礼したいからと家に招き、宣賛は轎についていく。とある屋敷に着くと、女児の母だという白衣の婦人(白的婦人)が現れ、宣賛が娘を助けてくれたと聞き、山海の珍味を並べて歓待する。折しもそこに一人の使用人が現れ、奥様[17]、新入りが参ったので古手[18]を始末しましょうと進言する。奥様は、では宣賛さまの肴にしようと答えると、二人の壮漢[19]が若い男を引っ立てて来て将軍柱[20]に縛り付け、その腹を切り開き、心肝をとりだし奥様に差し出す。宣賛は驚愕して酒を飲むどころではない。奥様は老婆と若者の心肝を食べ終えると、宣賛に自分は未亡人なので宣賛の嫁にしてほしいと誘惑する。二人は手を取り合い蘭房(奥様の寝室)に入った。夜が明けても宣賛は引き止められ住みつくこと半月有余。宣賛は、顔が黄ばみ肌は痩せこけてきたので一旦家に帰り、また来なおしたいという。すると使用人が一人現れ、新入りが来たので古手を始末するよう奥様に進言する。奥様が連れてくるよう命じると、数人の壮漢が男前の若者を招き入れ、宣賛は心肝を取られそうになる。白卯奴が自分を助けてくれた人だからと助命懇願する。卯奴は絶対に目を開けてはならないと言い含め、宣賛を背負い、空を飛んで逃げたようだが宣賛は手で卯奴の首を探ると鳥の毛が生えているのに気づく。「着いた」との叫び声に、宣賛は目を開けると卯奴の姿はなく、城壁の上だった。帰宅し、宣賛は母親に一部始終を聞かせると仰天して、この家の位置が悪いせいだろうからと、良い場所を探し吉日を選び転居した。宣賛はまた元気になり一年がたち、また清明節を迎えた。奚宣賛は小さな弓(弩兒)を携えて飛禽(野鳥)を探していたが、ふと見ると樹上に老鴉が鳴いている。宣賛が箭を射ると命中し、老鴉は地に落ちて地上であの黒衣の老婆(皂衣的婆婆)に変身した。宣賛はとらえられ、またもや白衣の婦人と夫婦となり半月余りが過ぎる。また帰宅を申し出たために将軍柱に縛りつけられ、心肝を取られそうになるが、ふたたび白卯奴に助けられてなんとか帰宅する。事情を聴いた母親は、宣賛に家から出ぬよう諭した。とある日、龍虎山[21](中国語版)に行ったきりだった奚統制の弟の奚真人が訪れ、黒気が立ち昇るのを望見してやって来たという。甥に妖怪が憑いているのを知って、西湖畔の四聖観で神将を呼び出し、命じて三つの妖怪を捉えてこさせる。三妖怪は、奚家が水門をふさいでいるのを恨んでいたらしい。奚真人は神将に命じ三妖怪を打たせると姿を現し、卯奴は黒い鶏、老婆は獺(かわうそ)、白衣の奥様(白衣娘子)は白蛇であった。真人は神将に命じ、鉄の籠に取ってきて三妖怪を閉じ込め西湖に沈めさせ、衆生教化の縁で(化縁)三つの石塔をこしらえ三妖怪を湖中に鎮めた。宣賛は叔父に弟子入りし、在俗のまま出家しめでたく一生を終えた。
次に明万暦年間(1573年 - 1620年)[22]頃になると、南宋時代の語り物をテキストにしたと思われる『双魚扇墜』(『孔淑芳雙魚扇墜傳』)がある。日本語訳は、今西凱夫[23] 訳の『熊龍峯四種小説・双魚のさげさがり』がある[24]。ここでは、白蛇でなく妖気ただよう幽霊に若い男の商人が誘惑されることになっているが、唐代の『李黄』とは異なりあわや殺されるところを真人に救われるというプロットは『西湖三塔記』と類似している。なお、明初の洪武11年(1378年)頃成立したとされる瞿佑(くゆう、(中国語版)) 撰の『剪燈新話』巻2に収録の『牡丹燈記』[25][26]との類似性が示唆されている[27]。
明弘治年間(1488年 - 1505年)、臨安府の徐大川という富翁の息子、26歳で商人の徐景春は弁当を持って遊山に出かけたが、日暮れて帰宅しようとしたところ侍女を連れた一人の美女を見かける。時の移り変わりを嘆ずる様子に景春は思わず話しかける。聞けば両親とものみに来たがはぐれてしまったとのこと。景春が名を訊くと、町の役人の次女で孔淑芳といい侍女の玉梅と西湖に仮住まいとのこと。景春は美女の住まい、幽軒と名付けられた小さな家まで送っていった。女が侍女にささやくと秋の香ただようあずまやに酒肴が並べられた。何杯か杯を重ねると女は景春を誘惑し、二人はたのしみをきわめた。先に家に帰された丁稚は景春の両親に問われるが、結局景春はその夜帰宅しなかった。徐家の隣に住む張世傑が新河壩にある孔家の墓所のそばを通りかかると、墓の中からすすりなきのような人声がきこえた。世傑が寄ってみると、一人の男が地べたにひれ伏しており酔いしれたようにわけのわからぬことを口走っている。助け起こせば隣の徐景春である。張世傑は家まで送り届け、両親に息子は妖怪に取りつかれて住んでのところであの世ゆきだと注意した。近所の老人が、この子は前世の因縁でめぐりあったのだろうから妖気も濃いはず、急いで護符をいただいて手当すれば無事にすむかも知れん、などとすすめた。大川はあわてふためき法事や神頼みをしたところ景春の病気も癒えたので、商品を仕入れ息子を臨清に行って商売させることにした。商売はうまくいき、何倍もの利益を得て息子は帰ってきた。両親は景春に縁談を探し、息子は杭郡の役人、李廷暉の娘を娶った。やがて半年が過ぎると両親はまた商売をしてくるよう促す。景春は妻の反対を押し切り、船を雇って旅立つ。常州につくと商売をしてたっぷり利益をあげ帰途についた。まず北新関の張克譲の家に行き、帳尻を合わせ、こんども丁稚を先に家に帰らせた。ちょうどその日が端午の節句だったため、張克譲は無理に景春をもてなす。申の刻になって別れを告げ、酔い覚ましに城壁に沿って歩いていくと、あの孔淑芳が前に立ちふさがる。景春はぼんやりと我を失い女と手取り合って歩いていく。女は思い出の品にと双魚をかたどった扇のさげさがり(扇墜)を景春に渡し、景春は手巾を女に贈った。そして城壁近くの地上で五更のころまで情交に耽った。そしてよろめきながら帰宅したが、起き上がることもできず「淑芳さん」と叫ぶばかり。大川はくだんの老人と相談し、法師に救いを求めることにした。次の日の朝、大川と老人は法術あらたかな真人の住む紫陽宮に参ずる。真人は「お前の息子は妖怪に魅入られて明日にも死ぬことになっている。わしにも救うことはできぬ」と断った。皆は再拝し哀願を続けると、真人はやむを得ず山を下り、法壇を立てて神将二人と城隍神と土地神を呼び出した。真人は印を結び呪文を念じると、陰鬼を捕らえ来り追放せよ、と命じた。神たちが引っ立ててきた孔淑芳と侍女を拷問した。孔淑芳は「自分は若年にて世を去り毎日無聊を託っていたが、古例にならい百年の情愛を求めて云々」と自白書を認めた。真人は二妖鬼を閻魔大王に送って処罰した。これよりのちこのあたり一帯は平穏となり、景春は子をもうけ、おわりをまっとうした。
『西湖三塔記』を基に明代末期に書かれた小説形式のもので後の『白蛇伝』説話発展の基点となったのは『警世通言(中国語版)』 第二十八巻 『白娘子永鎮雷峰塔』[28](明天啓4年(1624年)刊、馮夢竜編)である。日本語訳は松枝茂夫 訳 『三言二拍抄・白夫人がとこしえに雷峯塔に鎮められたこと』がある[29]。しかし『西湖三塔記』では明確であった、白蛇の妖怪のその淫欲を満たし若者の心肝を喰う、という二つの目的のうち、後者が偸盗に置き換わっている。さらに物語も西湖を中心とした構成から、西湖のある杭州臨安府から蘇州府、鎮江府に舞台が移り、最後に再び西湖に戻るという凝った展開を見せるようになっている。
この小説を粉本として書かれたとされる日本の文学作品に、江戸時代後期の上田秋成作とされる『雨月物語』中の『蛇性の淫』[30]がある。
冒頭『西湖三塔記』と同様に西湖賞賛のくだりがあるが、長くはなく物語の最初と最後の舞台である西湖の地理を説明するためのものである。
南宋の紹興年間(1131年 - 1162年)、杭州臨安府に李仁という南廊閣子庫の募事官がおり、家には妻の他に許宣という妻の弟が同居していた。許宣の親は生薬屋だったが、幼いころに二人とも亡くなり、許宣は22歳で母方の叔父、李將仕の生薬屋で番頭をしていた。ある日、清明節なので許宣は姉と李將仕に暇を請い、保叔塔(中国語版)寺へ先祖供養の焼香をしに行った。許宣はお参りが終わると帰途についた。ところが雨が降り出し、次第にひどくなり止みそうもないので通りかかった船を頼んで乗った。ほどなく服喪の髻(もとどり)と質素な髪飾りをつけ、白絹の上衣に細麻布の裾(もすそ)をはいた美しい婦人が、その身体を肩で支える青衣の小間使いを連れ、船に乗せてほしいと声をかけてきた。船頭が頷くので、許宣が許すと二人は乗り込み、自己紹介しあった。女は名を問われて、宮中の殿直を勤める白侍従の妹で役人の張氏に嫁いだが不幸にも夫は亡くなってしまった[31]と答え、今日は夫の墓参りの帰りだとのこと。船が岸に着くと、許宣は李將仕の弟の店で借りた傘を白娘子[32]に貸して、二人と別れた。その夜は白娘子のことを考えて眠れなかった。翌日、許宣は白娘子に聞いた箭橋の双茶坊巷を探したが、誰も彼女の家を知らなかった。思案しているとあの青衣の小間使いがやってきたので、彼女に家まで案内してもらった。そこは小洒落た家で、白娘子は許宣に前日の礼をすると、ご馳走を並べて歓待した。酒を四、五杯飲むと許宣は暇を乞い、翌日の来訪を約して帰宅した。翌日、白娘子は彼を見るとまた酒肴を並べた。飲みすすむうちに白娘子は、あなたとは前世の姻縁か、はじめてお会いした時から云々[33]、あなたと夫婦になれたらどんなに、などと言いだす。許宣もいかにもよい縁で結婚したいのは山々だと思ったが、先立つものがないと寡黙になった。すると白娘子は青青に持ってこさせた包みを許宣に、これをお使いくださいと渡した。許宣が受け取りあけてみると中には真っ白い銀子が五十両あった。許宣はまっすぐ帰宅して銀子をしまった。翌日にはくだんの銀子を使い、購入した食料品でもてなしの準備をし、李募事夫婦を招き結婚したいと打ち明けた。そして姉に銀子を預け、これで義兄さんに世話を頼んでほしいといった。ところが、李幕事はその銀子の刻印を一目みて大変だ、俺もお前も死刑になるぞ、と叫んだ。四、五日前に邵(しょう)大尉の金蔵からで盗まれた銀子と刻印が一致していたのだ。降りかかる火の粉を避けるため李幕事が臨安府に訴え出た。府尹(ふいん)は話を聞いて一晩考えあぐねたが結局、許宣は捕えられた。韓大尹が許宣を白洲に引き出し拷問を命じる。許宣は慌てて詳細を話し、双茶坊巷の角に住む白三班の白殿直の妹の白娘子からもらったものだと釈明をした。捕吏臣の何立(かりつ)たちはさっそく許宣を引っ立てて双茶坊巷の女の家に行ったが、古いあばら家があるばかり。しかし、二階に踏み込むと、そこには花のような美貌の白い服を着た夫人が座っていた。何立たちは捕まえようとしたが、青天の霹靂のような音とともに女の姿は消え失せ、代わりに四十九錠の銀子が残っていた。許宣は「すべきでないことをした」とのことで杖刑の上、蘇州の牢城営[34]での労役服務となった。
蘇州で許宣は、心苦しく思った李募事は邵大尉からの褒章の五十両を許宣に路銀として与え、李將仕は二通の添書きをそれぞれ押司の范院長と吉利橋のたもとで旅籠を開いている王主人に持たせた。范院長と王主人は賄賂を使い許宣を下げ渡してもらい、王の旅籠の二階に住むことになった。住んで半年を超えると、王主人が、尋ね人だというので急いで下り来たると、なんと青青がお供で轎には白娘子がいた。許宣見るよりお前の銀子泥棒のお陰で酷い目にあったと怒鳴りつける。白娘子は「あの金は亡夫が残したもので、親切づくで差し上げたもので、どうやって手に入れたのかは知らなかったなどと釈明をし、王主人の女房にも取り入り、許宣も白娘子への疑念を捨ててしまった。王夫婦の計らいもあって、十一月十一日に二人は天地を拝して結婚式をすませ、酒席果てた後、ともに紗をかけた夫婦の寝室[35]に入った。この日以来二人は片時も離れず楽しみにふけった。翌年の二月十五日[36]、許宣が友達の誰かと連れ立って承天寺の臥仏を参拝にいった。その帰り寺から出ると、門前で薬などを売っていた終南山[37]の道士が許宣をみて、頭上に黒気が漂っており汝に妖怪が纏わり憑いているに違いない、と警告した。許宣は急に恐ろしくなり道士から道符を二枚もらい、一枚を髪中に入れ、もう一枚を家に帰って夜中に焼くことにした。許宣は白娘子が寝入ったのを見すまし護符を焼こうとすると、白娘子はあっとため息をつき、他人の言うことを真に受けるのかと責めて、護符を焼いてしまったが何も起きなかった。翌日、許宣はその道士を見てみたいと言う白娘子と道士のもとに赴いた。白娘子は道士に対して啖呵を切り呪文をかけると、道士は空中に浮かばされ降ろされたため、飛ぶように逃げてしまった。四月八日の釈迦生誕日に許宣は白娘子に流行の服を揃えてもらい承天寺の仏会を観ていると、周將仕の質屋の庫(典當庫)から金銀装身具が盗まれたという噂をきいた。すると、寺門の周りにいた男たちが、許宣の服や持ち物は盗品だと、許宣はすぐに召し拿られてしまった。次の日、長官の前で許宣が、これらは妻の白娘子にもらったものだと主張したので、ただちに袁子明という捕使臣に命じ、許宣を引き立てて王主人の家に行き、白娘子を探したが見つからない。しばらくすると周將仕のところへ家人が、盗まれたはずの金珠等が周の庫の中で見つかったと知らせにきた。周將仕のはからいで許宣は許されたが、妖怪等のことを申し出なかったという罪で杖一百回と配流三百六十里、鎮江府の牢城営での労役服務となった。
仕事で蘇州に来ていた李募事の口利きで、許宣は針子橋の下で生薬店をしている李克用という人の世話になり賄賂で釈放してもらった。そして李克用の店を手伝い、夜は五條巷で豆腐屋をしている王氏[38]の上階に泊まることになった。番頭として働きだしたが、店の仲間たちと飲んだ帰りに歩いていると、上からヒノシ[39]の灰が落ちてきた。許宣が思わず上に向かって罵しると、慌てて婦人が下りてくる。見ると白娘子であった。許宣はこの妖怪め、お前のせいで二回も裁判にかけられた云々、と罵る。白娘子は、あの着物は夫が残したもので、盗品ではないと釈明し、一夜の夫妻は百日の恩というではありませんかなどと言葉巧みに丸め込まれ、許宣は色欲に迷わされて白娘子の二階に泊まってしまった。翌日、王氏に蘇州から妻が女中を連れて来たと話し、二階に同居させてもらうことにした。ひと月がたち許宣は白娘子と相談し、お世話になっている李の旦那様(原文は員外)と家族に挨拶しに行くことにした。ところが李旦那はいい歳ではあるが好色で、一目見ると白娘子をものにしたいものと邪心をもってしまった。そこで李旦那は六月になると母親に、十三日は自分の誕生日だから宴会を開いて親眷朋友たちにゆったりしてもらおうと話し、招待状を送った。十三日には皆集まり飲み食いし一日を過ごした。翌日になると婦人たちが二十人も祝いに訪れ、着飾った白娘子も青青を伴いやって来た。酒宴が進むと、白娘子は身を起して上衣を脱ぎ手洗いに立ちあがった。好機を待っていた李旦那は先回りして淨房の裏部屋に隠れている。旦那は心中淫乱となって浄房内を覗き込んだ。すると中には白娘子がおらず、大きな白蛇がとぐろを巻いており眼は金の光を放っていた。李旦那はたまげて逃げ出したが途中で躓き倒れてしまった。しかし白娘子の手洗い姿を覗いたことが知られると具合が悪いので疲れが溜まったふりを決め込んで部屋にこもってしまった。白娘子は事態を察して、李旦那が浄房の裏に潜んで自分の服を引いたり捲ったりして云々、などと許宣を口説いた甲斐あって、二人は李克用の家を出ることになった。許宣は番頭を辞めて白娘子からもらった銀子で一軒の家を借り、生薬を仕入れ薬店を開いた。商売は日に日に繁盛し大きな利益を得た。ある日、金山寺(中国語版)の和尚が勧進帳を持って現れ、七月七日が英烈龍王の誕生日なので参拝して焼香するよう勧めた。当日になって許宣は幇間の蔣和と一緒に金山寺に参拝することにした。白娘子は止めさせようとしたが結局、方丈に行かないこと、和尚と話さないこと、行ったらさっさと帰ることという三件の条件をつけて了承した。許宣は江(長江の古名)のほとりまで歩いて船で金山寺に到着した。許宣は龍王堂で焼香して歩き回っていると方丈の前に出た。入ろうとしたが白娘子との約束を思い出したが蔣和のすすめで方丈に入って一回りすると出てきた。上席で説法していた徳の高い和尚が、方丈に入ってそのまま出て行く許宣を見ると、急いで連れてくるよう侍者に指示した。侍者が戻ってきて見失ってしまったというので和尚は払子と禅杖を押っ取り(原文は、持了撢杖)自ら追いかけて方丈を出て、あちこち寺の外まで尋ねたが見つからない。許宣は帰ろうとしたが船着き場では風と波がひどくなり江を渡れない。折しも飛ぶような早さの船が近づいて岸辺に着くと、白娘子と青青が乗っており、許宣に早く船に上がるよう促した。後ろで怒鳴る声がして誰かが法海禅師[40]が来られたと言った。禅師の姿を見ると、白娘子と青青は船を揺らして転覆させ飛び込んで水底に潜ってしまった。許宣は禅師に拝礼して自分を救ってほしいとたのみ、禅師の求めに応じて今までの事情を話した。禅師はあの女はまさしく妖怪なので、さっさと杭州に帰り、汝に再び纏わりついてきたら西湖の南にある浄慈寺まで自分を訪ねよと言った。許宣は李旦那に謝り再び二階の部屋にもどった。二か月が過ぎ、宋高宗が 孝宗を太子に[41]立てたため恩赦が行われ、許宣も故郷の杭州に帰れるようになった。
家に着くと姉夫婦に四拝するように拝礼すると義兄の李募事は、あんなに面倒を見てやったのに如何なる料簡で妻を娶ったというのに連絡も寄越さぬ云々、苛々と捲し立てた。許宣は、妻など娶っていないというと、義兄は二日前に女中を連れた女性がお前の妻だと言ってきている。許宣は目を見張り口は呆けたが、李募事は許宣と白娘子をとりあえず同じ部屋に押し込んだ。許宣は怯えて命乞いをしたが、白娘子は自分の言葉を聞いてくれるなら万事休まるが、そう思わないならこの城市に血水を満たし、一人残らず大波に呑まれて濁水に沈んで、非業の最期を遂げさせると言う。そのとき庭で涼んでいた姉は、二人が喧嘩していると思い許宣を引きずり出したが白娘子は部屋の戸を閉めて寝てしまった。事情を聞いた李募事が二人の部屋を覗くと、大きな蟒蛇(うわばみ)が寝ていたので驚いたがその晩は何も言わなかった。翌日、李募事は許宣を呼んで彼の妻について問いただしたが、許宣はいきさつを打ち明け助けを乞うと、義兄は蛇取りの戴先生を紹介してもらい銀子を渡して大蛇退治を依頼した。しかし戴先生は勇んで李募事の家に乗り込んだが、白娘子と問答の末、正体を見せられて脅され先生、恐れをなし銀子を返し逃げてしまった。白娘子は許宣をつかまえ、不敵だとなじり再び城市全員を苦しめ、非業の最期を遂げさせると言った。許宣はすっかりおののき家を飛び出し、困り切って歩いていくと浄慈寺の前に出た。許宣は金山寺の法海和尚の言葉を思い出し、尋ねると監寺はが和尚は不在だというので許宣はすっかり落ち込み湖に身投げしようとしていると、法海禅師が現れた。許宣は救助を乞うた。すると禅師は鉢盂(はつう)を与え、白娘子の頭にこれをかぶせ動けぬよう押さえつけろ、と教えた。許宣は家に帰って恐る恐る禅師に言われた通りこっそりと白娘子の頭にかぶせ押さえ込んだ。すると女の姿はだんだん見えなくなり最後に鉢盂だけになった。そこに禅師が現れ、何やら念じ鉢盂を開けると白娘子は縮んで七八寸長になっていた。法海は、人に纏わるとは如何なる畜妖怪かと問い詰めると、白娘子は自分は大蟒蛇で、大風雨のときにこれを避けて西湖に来て青青と暮らしていたが、許宣に遇って春心が昂ぶってしまった。確かに天條は犯したが殺生はしていないからと禅師に慈悲を乞うた。法海は青青は何の妖怪かと問うと、西湖の第三橋下の淵にいた齢千年を経た青魚でたまたま遇著したので伴にしたが、一日も快楽に浸っていない、憐れなので助けてやってほしいと答えた。禅師は本相を現すよう命じるが白娘子は嫌がるので、経文を唱えて掲諦[42]を召し出し命令すると、白蛇と青魚の姿が現れた。禅師はこれらを鉢盂に入れ、衣を裂いて鉢盂の口を封じ、雷峰寺の前に置き上に煉瓦で塔を建てるよう指示した。後に許宣は勧進して七層の宝塔を建て、これで白蛇と青魚の妖怪は世に出られなくなった。許宣は法海禅師の弟子となり雷峰塔で剃髪し僧侶となった。数年修行した後、坐ったまま逝った。
なお半世紀後の清代に、この小説は改編され『雷峯怪蹟』[43]として『西湖佳話』(清康熙年間、墨浪子 編 巻15)に収録された。構成はほぼ同じだが、文章表現はかなり異なる。また、こちらの方が『蛇性の婬』の粉本だという説もある[44]。
その清代になると、小説『雷峰塔奇伝』(中国語版) 全5巻13回 (1806年刊、玉花堂主人校訂、玉山主人とも)などが書かれるようになった。中でも、弾詞『義妖伝』(『繍像義妖伝』)(1809年刊、陳遇乾 先生原稿 陳士奇・兪秀山 先生 評定『繍像義妖傳』28巻)は、情緒的な記述で白蛇の報恩談に変容している[45]。この作品では最初に、白娘子は人間界に下りる前に蕊芝仙子の弟子「素貞」として登場し、「白素貞」と名が付くのはこの作品からである[46]。
その後、清代末期に最も詳細化した小説として夢花館主 著の『白蛇全伝』(中国語版)(『白蛇伝前後集』、『寓言諷世説部前後白蛇全伝』、前48回・後16回)がある[47]。この前集は『義妖伝』の小説化である。
演劇としての『白蛇伝』の、残存する最初の脚本とされるのは清代の1738年の黄図珌(おうとひつ)撰『看山閣楽府雷峰塔伝奇』である[48][49]。これは明代に書かれた『白娘子永鎮雷峰塔』の舞台化[50]である。
その後、重要な脚本に方成培(中国語版) 撰『雷峰塔伝奇』(清代、1771年上演)[51]があるが、芝居通の乾隆帝が江南を訪れた際に上演され、後の京劇等のベースになった。これは『白娘子永鎮雷峰塔』を基に「求草」、「水闘」、「断橋」、「祭塔」といった現在でも京劇十八番とされる場などが付加されたものである。この作品以降許仙と白素貞の子供が登場する。その底本は陳嘉言とその娘による『梨園舊抄本』と通称される崑劇用の脚本集らしいが残存しない[52]。この方成培の『雷峰塔伝奇』以後、近代に至って田漢が国民党や中国共産党の意向で3回改作を行っている。すなわち、『金鉢記』(1943年)、『白蛇伝』(1952年)、『白蛇伝』(1955年)であり、現在の中国で上演されている京劇はこれを基にしている[53]。田漢の改作では、白素貞がもともとの未亡人から未婚の若い女性に変更されている。
この節の加筆が望まれています。 |
以下、『白娘子永鎮雷峰塔』の登場キャラクターを基準として記述する。
『白蛇伝 〜White Lovers〜』は東映アニメーション50周年を記念して、劇場用総天然色漫画映画『白蛇伝』を翻案して、2006年11月8日から11月26日までル・テアトル銀座でミュージカルとして上演された。
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