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減反政策(げんたんせいさく)とは、戦後の日本における米の生産調整を行うための農業政策である。
基本的には米の生産を抑制するための政策であり、具体的な方法として、米作農家に作付面積の削減を要求する。そのため「減反」の名が付いた。一方、コメの緊急輸入を必要とする米不足や事故米穀も発生した。1970年度(昭和45年度)から実質的に開始され、2018年度(平成30年度)に廃止となった。ただし、山下 一仁のように減反廃止はフェイクニュースと述べる者もいる[1]。
日本人の米に対する思い入れは強く、米は最も重要な食べ物(主食)とされているが、戦前の日本における米の10アール当りの収量は、300キログラム前後と現在の約半分であり、しばしば凶作に見舞われていた。1933年(昭和8年)には作況指数120を記録し、米の在庫が増加したことにより「減反」方針が打ち出された事があるが、翌年東北地方において、冷害から凶作・飢饉が発生するなどし、安定した供給が行われていたわけではない。加えて、階級や貧富、地域などによって大きな違いがあり、雑穀や芋などを常食していた人たちも多く、実際には大半の日本人が米を主食とすることはできなかった[2]。
また、戦前は米も通常の物資と同じく市場原理に基づき取引されていたが、1940年(昭和15年)頃には戦時体制へ突入し米不足が深刻化したため、食糧管理制度に基づく配給制となり、政府の管理下に置かれた。
戦後の食糧難は深刻を極め、1945年(昭和20年)10月の東京・上野駅での餓死者は1日平均2.5人で、大阪でも毎月60人以上の栄養失調による死亡者を出した。だが、米は引き続き食糧管理制度に基づく政府の固定価格での買い上げだったため、闇市でヤミ米が横行、ヤミ米を食べることを拒否し法律を守り、配給のみで生活しようとした裁判官山口良忠が餓死するという事件も起こっている。
米ばかりでなく、全ての食料が不足していた時代であり、占領軍の主体となったアメリカ合衆国により、1946年(昭和21年)からララ物資の援助があり、1947年(昭和22年)から1951年(昭和26年)まではガリオア・エロア資金として総額約20億ドルの経済援助が行われ、その60%以上が食糧輸入に充てられたものの、食糧不足の解決は難しく配給の遅配が相次ぐ事態となっていた[3]。食料を生産していない都市部では、欠食児童も多く、学校給食には大量に輸入されたメリケン粉が充てられ、アメリカの占領政策の一環で、学校給食は米飯ではなく、メリケン粉を使ったパンと脱脂粉乳が主体であったため、日本人の食事の欧風化が進行した。
マッカーサーは「我が輩は米と魚と野菜の貧しい日本人の食卓を、パンと肉とミルクの豊かな食卓に変えるためにやってきた」と豪語し、GHQ公衆衛生福祉局長のサムス准将は、「太平洋戦争はパン食民族と米食民族との対決であったが、結論はパン食民族が優秀だということだった」と言い放っている[4]。1952年(昭和27年)には、栄養改善法が施行され、厚生省がはじめた栄養改善運動では米偏重の是正が叫ばれ、欧米風の食事を理想としたことも手伝って、主食とされてきた米は遠ざけられ、戦前まで1人1石(160キログラム)といわれていた米の年間消費量は、1962年(昭和37年)に戦後最高の118.3キログラムに達したのをピークに、以後年々減少に向かった[3]。
米食悲願民族といわれる日本人にとって、米を実際の主食とすることは有史以来の宿願であったが[2]、昭和40年代(1965年-1974年)初頭には、肥料の投入や農業機械や農薬の導入、品種改良によって、生産技術が向上したこともあり、ようやく米の自給が実現でき名実ともに主食となった。しかし、その時既にアメリカ合衆国の小麦戦略は見事に成功をおさめ、学校のパン給食や栄養改善運動などによって、日本人の食事の欧風化が進行し、米離れに拍車がかかっていた[5]。
そして米の余剰が発生、食糧管理制度は経済状態の悪い家庭にも配慮し、買取価格よりも売渡価格が安い逆ザヤ制度であったことから、歳入が不足し赤字が拡大した。国内各地で生産拡大へ向けての基盤整備事業が行われている最中、日本国政府は、新規の開田禁止、政府米買入限度の設定と自主流通米制度の導入、一定の転作面積の配分を柱とした本格的な生産調整を1970年(昭和45年)に開始した。
減反については農家から猛反発を受ける一方、県によっては思いのほか希望者が集まる例も見られた。青森県東北町、六ケ所村、横浜町では割当面積の数倍の減反希望者が現れた[6]。八郎潟の干拓事業によって誕生した秋田県南秋田郡大潟村の入植は、1967年(昭和42年)に始まったばかりであったが、この年の入植を最後とし、以後の入植者の募集は取り消された。生産拡大のための基盤整備事業が行われている最中の生産調整の導入であり、大潟村の既入植者が生産可能面積の取り扱いを巡って長年にわたり国と対立するなど、稲作農家の意欲低下、経営の悪化につながるとして強い反発が各方面であった。制度的には「農家の自主的な取組み」という立場を取っているが、転作地には麦、豆、牧草、園芸作物等の作付けを転作奨励金という補助金で推進する一方で、稲作に関する土地改良事業などの一般的な補助金には、配分された転作面積の達成を対象要件とするなど、実質的に義務化された制度である。また、耕作そのものを放棄することは農地の地力低下、荒廃につながることから、転作面積とはみなされない。生産調整の導入以降も、生産拡大へ向けての基盤整備事業の効果が現れはじめたことや、生産技術が向上したことにより単位面積あたりの生産量は増加し、また農家によっては、米を引き続き栽培するためにやむを得ず転作を受け入れるという立場をとる者もいたが、多くは積極的に転作に取り組むことによって農業構造の転換を図ろうとした。
水稲の作付け面積は、1969年(昭和44年)の 317万ヘクタールをピークに、1975年(昭和50年)には 272万ヘクタール、1985年(昭和60年)には 232万ヘクタールに減少、生産量も 1967年(昭和42年)の 1426万トンをピークに、1975年(昭和50年)には 1309万トン、1985年(昭和60年)には 1161万トンに減少した[7]。
さらに、1985年(昭和60年)と1994年(平成6年)のそれぞれ凶作により米の緊急輸入があった翌年を除いては、一貫して生産調整の強化を続け、1995年(平成7年)には作付け面積 211万ヘクタール、生産量 1072万トンに、2000年(平成12年)以降は、作付け面積 170万ヘクタール、生産量 900万トン程度を推移し、作付け面積は半減、生産量は60%程度になった[7]。一方で、米の消費量減少には歯止めがかからず、日本人1人あたりの年間消費量は、1990年代(平成2年-平成11年)後半にはひと頃の半分以下の60キログラム台に落ち込んだ。家計支出に占める米類の支払いの割合は、10%強だったものが 1.1 - 1.3% と 10分の1になり、米の地位低下がはなはだしい[8]。
生産調整が強化され続ける一方で、転作奨励金に向けられる予算額は減少の一途をたどり、「転作奨励」という手法の限界感から、休耕田や耕作放棄の問題が顕在化し始めた。こうして弥生時代(縄文時代晩期とも)以来、長い時間をかけて開発され、維持されてきた水田の景観は、荒れるに任されるようになった[3]。
このような状況の中、食糧管理法が廃止されて食糧法が施行され、制度が下記の様に大幅に変更された。
減反政策の弊害として、日本の原風景が失われること、自然環境が変化し生態系に影響を与えること、伝統ある農業文化が失われることなどが挙げられる[9]。補助金や関税によって市場価格から遊離した農業生産を奨励する保護政策の裏面として減反政策が存在し、これによる日本産コメの高値維持および国税の浪費などが、日本国民の家計に圧迫を加えているとまことしやかに論ぜられるが、実際には1952年(昭和27年)に施行された栄養改善法により厚生省が栄養改善運動を始め、米偏重の是正が叫ばれ欧米風の食事スタイルが普及し米の消費量は年々減少、ようやく米の自給が実現できた昭和40年代(1965年-1974年)には家計支出に占める米類の支払いの割合は10%強だったものが、1.1 - 1.3% と 10分の1以下になっている[8]。
関税撤廃後、一部の高級ブランドを除き壊滅した繊維産業の先例から、「関税保護などを取り外せば、海外から安い穀物類が入荷するため、これらの作物の生産は、一部の高級ブランドを残して壊滅する」と予測する意見もあるが、一方で新鮮さが要点である野菜の栽培、あるいは卵や牛乳などの酪農などの農業は、生き残るであろうと予測されている。
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