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清水 みのる(しみず みのる、本名:清水 實、1903年(明治36年)9月11日 - 1979年(昭和54年)12月10日)は、日本の作詞家。主に昭和初期から中期にかけて活躍した。
静岡県浜名郡伊佐見村(現在の浜松市中央区伊左地町)生まれ。少年期は水泳に熱中した。
旧制浜松中学(現・浜松北高校)を経て、京都の予備校へ数ヵ月通った後、山陽中学校(現・山陽高等学校)への編入を経て、立教大学文学部英文学科卒。立教大学では水泳部に入り、主将として、短距離自由形で全日本ベスト5に入る好記録をマークした。詩人のサトウハチローは立教の先輩であり、レースが始まると必ず神宮プールの玄関に来てみのるを呼び出したという[1]。清水はその他の運動競技にも巧みで、柔道は初段、ラグビーもフィールドでの技に優れていた[2]。
その一方、大学在学中に詩人の佐藤惣之助に師事し、詩やシナリオを書き始める[1]。在学中に小笠原プロダクションの別流として「乱闘の後」(全2篇)を完成させ、「天才現はる」と言われた。映画は清水がつくったブレーブ映画研究会に集まった熱心な映画研究生89人とともに制作し、原作、脚本、監督、主演を清水一人が行った。映画は浅草大勝館で封切されることとなった[2]。
卒業後の1931年(昭和6年)、日本ポリドール蓄音機商会に入社、社員として働きながら作詞家への道を歩みだし、1939年(昭和14年)には田端義夫のデビュー曲の作詞を手がける。同年、陸軍に入隊し出征。
戦後はテイチクレコード会社に入社し、作曲家の倉若晴生、歌手の田端義夫(バタヤン)とのトリオで、『かえり船』、『かよい船』等、得意とするマドロスもの[3]を中心に数々のヒット曲を世に送り出した。他に『星の流れに』『月がとっても青いから』『雪の渡り鳥』などの作詞を手がけた。母校・立教大学の第三応援歌「若き眉」の作詞も手がけている。
母校の浜松市立伊佐見小学校には功績を記念した「清水みのるの部屋」[4]が平成元年に開設されている。
また、浜松市西区伊左地町では『森の水車』(作詞 清水みのる / 作曲 米山正夫 / 歌 高峰秀子)を記念し、昭和61年に「伊佐地緑地公園」内に水車を設置、通称「森の水車公園」と呼ばれ親しまれている[5]。
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