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日本の事件 ウィキペディアから
横浜事件(よこはまじけん)は、第二次世界大戦中の1942年から1945年にかけて、治安維持法違反の容疑で編集者、新聞記者ら約60人から未確認者を含めれば90人ともいわれる容疑者が逮捕され、拷問等により4人が獄死、保釈直後に1人が死亡、負傷者30人を出した、日本の一連の刑事事件[1]。約30人が起訴され、既に終戦後となる1945年8月から9月にかけて有罪とされたが、有罪判決後の同年10月15日には治安維持法が廃止、同月17日には終戦による大赦で、起訴された者はいずれも大赦を受けるか免訴されることとなった[2]。戦後、取調にあたった元特高警察官らは被害者らから告訴され有罪判決を受けたが、こちらは判決直後の1952年4月のサンフランシスコ講和条約発効による大赦で刑に服することはなかった[2]。
最高裁判所判例 | |
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事件名 | 治安維持法違反被告事件 |
事件番号 | 平成19(れ)1 |
平成20年3月14日 | |
判例集 | 刑集 第62巻3号185頁 |
裁判要旨 | |
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第二小法廷 | |
裁判長 | 今井功 |
陪席裁判官 | 津野修 中川了滋 古田佑紀 |
意見 | |
多数意見 | 全員一致 |
意見 | なし |
反対意見 | なし |
参照法条 | |
旧刑訴法363条2号、旧刑訴法363条3号、旧刑訴法400条、旧刑訴法485条6号、旧刑訴法511条 |
戦後、無実を訴える元被告人やその家族・支援者らが再審請求を続けた。2005年に再審が開始されたものの、罪の有無を判断せず裁判を打ち切る免訴判決が下された。
事件の検挙対象拡大の契機となった写真の撮影地から「泊事件」とも呼ばれ[3]、「泊・横浜事件」という名称も使用されている[4]。
当事件の「検挙」開始と前後して発生し、のちに当事件に結びつけられた事件である。管轄した警察も異なり、もともとは別個の事件であった[5]。
1942年、総合雑誌『改造』(8月号および9月号)に掲載された細川嘉六の論文「世界史の動向と日本」が、9月14日に日本読書新聞に陸軍報道部長の谷萩那華雄が掲載した書評「戦争と読書」の中で「共産主義宣伝」であると指弾される[6]。同日、細川は警視庁世田谷警察署に治安維持法違反の容疑で検挙された[7]。この事件は細川個人のみが容疑者とされ、関連して検挙された者はいなかった[7]。
細川検挙の3日前の9月11日、神奈川県警察部特高課は、アメリカ合衆国で労働運動を研究して帰国した川田寿とその妻を「アメリカ共産党の指令を持ち帰った」という容疑で検挙する[3]。しかし川田はアメリカ共産党員だったことはなく、神奈川県警による虚偽の容疑だった[8]。川田は当時世界経済調査会の資料室長を務めており、神奈川県警は川田の関係者に検挙の手を広げる[3]。その中に、世界経済調査会の高橋善雄がいた[3]。高橋は「ソ連問題調査会」を南満州鉄道(満鉄)東京支社調査室のメンバーと結成しており、そこから満鉄調査室も捜査の対象となる[3]。1943年5月11日、満鉄調査室の西沢富夫と平館利雄が検挙され、西沢の家宅捜索で警察は1枚の写真を発見した[3]。
この写真は、細川嘉六と『改造』や『中央公論』の編集者、満鉄調査室関係者などが同席した集合写真(上左から小野康人、細川、西沢富夫、下左から平館利雄、加藤政治、木村亨、相川博)(西尾忠四郎が撮影)で、これを神奈川県警察部は日本共産党再建準備会の写真と決めつけた[3]。実際には細川の郷里・富山県下新川郡泊町(現・朝日町)の料亭旅館「紋左(もんざ)」で撮影されたもので、細川が1942年7月に親しい編集者・研究者を招いて1泊2日の懇親会を催した際の記念写真に過ぎなかった[9]。
この写真を起点に、改造社と中央公論社をはじめ、朝日新聞社、岩波書店などに所属する関係者約60人が次々に治安維持法違反容疑で逮捕される[3]。神奈川県警察部は被疑者を革や竹刀で殴打して失神すると気付けにバケツの水をかけるなど激しい拷問を加えた。拷問で虚偽の自白を強要した[3]。別件の論文事件で起訴されて東京地方裁判所で公判を受けていた細川は、この事件の関連者とされ、1944年5月に他の事件検挙者が収監されていた横浜刑務所の未決監に身柄を移された[10]。厳しい取調の下、4人が獄死した。神奈川県警察部の管轄事件であったために横浜事件と呼ばれるようになった。
判決が下ったのは玉音放送がされた直後、すなわち法が廃止される1か月前の1945年8月下旬から9月にかけての駆け込み言い渡しで [注釈 1]、約30人が執行猶予付きの有罪とされた。GHQによる戦争犯罪訴追を恐れた政府関係者によって当時の公判記録は全て焼却(証拠隠滅)され [注釈 2]、残っていない[11](遺族が再審請求に提出した証拠の「確定判決書」はアメリカ国立公文書記録管理局に保存されていた物の謄本である)。被告のうち、細川嘉六は不当な拘禁と捜査に対して徹底的に抗議すべきという立場から容疑を認めることがなく、1945年9月に保釈された後、10月の治安維持法廃止によって11月に審理打ち切り・免訴となった[12]。
戦後、元被告は「笹下会」という組織を結成して1947年に会員33人が当時手を下した元特高警察官28人を告訴し、1952年に最高裁判所でうち3人が有罪・実刑が確定したが、同年4月の日本国との平和条約発効時の大赦令により釈放され、実刑に服することはなかった[13]。また裁判官・検察官に対しては何らの処分もされていない。
真相については現在でも不明な部分が多く、言論弾圧的な側面だけではなく反東條英機の有力な重臣であった近衛文麿の失脚を期したものではないかと推測される場合もある。というのは、近衛の側近・後藤隆之助の主宰した「昭和塾」で細川嘉六が講師をしていた関係で、塾からも逮捕者がでているからである。細川嘉六は、1953年に服部之総による聞き取りにおいて、論文事件の検挙に関して以下のような発言を残している[14]。
有罪判決を受けた関係者・遺族は次のように主張して、まったくのでっち上げ(フレームアップ)だと主張しており、名誉回復を求めていた。
無実を訴え続けた元被告人やその家族、支援者らは再審請求を繰り返していた。1986年に第1次、1994年に第2次再審請求の審査が行われたがいずれも棄却された。しかし、元中央公論編集者の妻ら元被告人5人の遺族が1998年に申し立てた第3次再審請求で横浜地裁は2003年に再審開始を決定した(横浜地決平15・4・15、判時1820・45)。
検察官の即時抗告申立てに対し東京高裁は抗告審(2005年3月10日)で、警察官の拷問を認定した確定判決から、
と認定した。「再審は事実認定の誤りの是正が基本。法解釈の誤りを理由にするのは、再審の本質と相いれない」ことを理由として検察側抗告を退け、横浜地裁の再審開始決定を支持した。東京高検は最高検と協議した結果、特別抗告を断念。再審開始が確定した。
他界した元被告人らの遺志を受け継いで再審を請求した遺族らは、「無罪の一言を聞くのはもちろん、なぜ横浜事件がつくられたのかを解明することが大事だ」と語った。これは再審が無罪を認めるだけではなく、治安維持法がどのような法律であったか、どれだけ多くの人がその害をこうむったのかを解明して、司法の犯罪と日本の戦争責任を明らかにすべき裁判であることを強調したものである。
2008年10月に開始が決定された第4次再審第一審の横浜地裁は、2009年3月30日、第3次最高裁判例を踏襲し、免訴を言い渡した。ただし、事件の被告人が無罪である可能性を示唆した上で、「免訴では、遺族らの意図が十分に達成できないことは明らか。無罪でなければ名誉回復は図れないという遺族らの心情は十分に理解できる」と述べ、刑事補償手続での名誉回復に言及した。これを受けて遺族側は控訴せず、今後刑事補償手続に移ることを明らかにした[15]。
本件に適用される旧刑事訴訟法での控訴期限である4月6日までに元被告人遺族・検察の双方が控訴しなかったため、免訴が確定した。2009年4月30日に第4次再審請求の元被告人遺族が、刑事補償の請求手続きを横浜地裁に行った。遺族は、地裁が補償決定に際して事件が冤罪と判断することを期待すると記者会見で述べている。
2010年2月4日、横浜地裁は元被告人5人に対し、請求通り約4700万円を交付する決定を行った。審理を担当した横浜地裁の大島隆明裁判長は決定の中で、特高警察による拷問を認定し、共産党再建準備とされた会合は「証拠が存在せず、事実と認定できない」とした。その上で確定有罪判決が「特高警察による思い込みや暴力的捜査から始まり、司法関係者による事件の追認によって完結した」と認定し、「警察、検察、裁判所の故意、過失は重大」と結論づけた。再審で実体判断が行われた場合には無罪判決を受けたことは明らかであるとして、実質的に被告人を無罪と認定し、事実上事件が冤罪であったことを認めた[16]。
本件について、その判決要旨が2010年6月24日付の官報並びに読売新聞、朝日新聞、しんぶん赤旗の3紙に横浜地裁の名前によって公告された。
免訴判断が示された後、元被告の遺族2人が「国側による裁判記録の処分により、再審請求が遅延して名誉回復に障害を来した」として、1億3800万円の損害賠償を求める国家賠償請求を東京地方裁判所に提訴した[17][18]。2016年6月30日、東京地裁は検察官や裁判官が元被告に対する拷問を認識しながら自白を前提に起訴・判決をおこなった点や、裁判資料を処分した点についてはいずれも違法と認めたものの、国家賠償法の制定以前の事案であるとして請求を棄却した[17][18]。7月11日に遺族側は判決を不服として東京高裁に控訴した[19]。
2018年10月24日、東京高等裁判所は遺族側の控訴を棄却。一審判決を支持した[20]。原告側はこれを不服として上告する準備を進めたものの、東京高等裁判所の「上告提起通知書」送達から50日以内に「上告理由書」を高裁に送付する必要があったにもかかわらず弁護団のミスからこの期限を超過したため、2019年1月18日に高裁は上告を却下し、裁判は終結した[21]。
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