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1934-1998, 映画監督、脚本家。 ウィキペディアから
梅沢 薫(うめざわ かおる、1934年9月10日 - 1998年12月26日)は、日本の映画監督、脚本家である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11]。元俳優[12]。1966年(昭和41年) - 1979年(昭和54年)の一時期、東元 薫(とうもと かおる[5])と名のったことがある[1][4][5][6][8][9]。その初期には東本 薫とクレジットされた作品もあり[9]、1972年(昭和47年) - 1974年(昭和49年)の一時期黒木 剛(くろき ごう)の名で監督、小泉 大介(こいずみ だいすけ)の名で脚本を書いたこともある[2]。
1934年(昭和9年)9月10日、新潟県高田市(現在の同県上越市)に生まれる[1][2][7]。
長じて東京に移り早稲田大学に進学したが、中途退学する[1]。当初は俳優を志しており、日本文化協会(NBK)という劇団に所属、同劇団には野上正義(1940年 - 2010年)らがいた[13]。
満25歳のときの1960年(昭和35年)4月3日に放映された連続テレビ映画『海底人8823』第14話『怪光線』や、同年に放映された連続テレビ映画『鉄人28号』等に出演した記録が残っている[12][13]。1963年(昭和38年)にはタケダアワー『隠密剣士』にも数回出演したが[12][13]、同年、それらテレビ映画を手がけていた船床定男(1932年 - 1972年)の紹介で知り合った若松孝二(1936年 - 2012年)の誘いを受けて成人映画『悪のもだえ』のチーフ助監督を務め、同作は同年12月31日に劇場公開された[1][5][13]。以降、同作を製作・配給した日本シネマで、若松の『赤い犯行』や『乾いた肌』、新藤孝衛監督の『思春前期 恐るべき女子学生』等のチーフ助監督を務めた[5][9]。1965年(昭和40年)6月に公開された『壁の中の秘事』(監督若松孝二、製作若松プロダクション、配給関東ムービー配給社)のチーフ助監督の後、同年9月に公開された『十代の呻吟』(製作・配給国映)を監督し、31歳で映画作家としてデビューする[1][2][4][6][9]。監督デビュー後にも若松の『欲望の血がしたたる』(1965年)のチーフ助監督を務め、向井寛監督の『悪僧』および『艶夢』(1966年)の助監督を東本 薫の名で務めている[1][4][6][9]。『日本映画発達史』の田中純一郎は、同書のなかで黎明期のおもな脚本家・監督として、若松孝二、高木丈夫(本木荘二郎の変名)、南部泰三、小林悟、新藤孝衛、糸文弘、小川欽也、小森白、山本晋也、湯浅浪男、宮口圭、藤田潤一、小倉泰美、浅野辰雄、渡辺護、片岡均(水野洽の変名)、福田晴一、深田金之助の名を挙げているが、梅沢については言及されていない[14](挙がっている名前はいずれも1965年以前デビューの監督なので、同年秋デビューの梅沢はぎりぎり漏れた可能性もある)。
1967年(昭和42年)3月14日に公開された『素肌の罠』を東元 薫の名で監督して以降、日映企画(のちの日映)配給作品を同名で手がける[1][2][4][5][6][8][9]。1968年(昭和43年)2月に公開された『性の配当』は日本シネマの製作・配給作品であるが、同作を監督して以降、日本シネマでは「梅沢薫」、日映企画では「東元薫」と棲み分けをおこなった[1][4][5][6][7][8][9]。1969年(昭和44年)1月に公開された『好色坊主四十八手斬り』(「東元薫」名義)は、勝新太郎のそっくりさんとして知られる酒巻輝男を主演に『好色座頭市 四十八手斬り』として企画されたが、大映からのクレームを受けて改題した[1][2]。同作が話題になったほか、1970年(昭和45年)5月に公開された『濡れ牡丹 五悪人暴行篇』では、日野洸こと大和屋竺の脚本を得て、港雄一、山本昌平、津崎公平、里見孝二、そして大和屋竺が主演しており、元来の「強烈な作風」の延長線上において「悪と暴力のエスカレートを異常なまでのクールさと非情なタッチで追って梅沢の実力を不動のものとした」作品であると評価された[1]。同年には「コソ泥と頭の弱い少女との交情を微笑ましく、うら悲しく描いた」というメロドラマ『好色泥棒日記』を発表している[1]。
1971年(昭和46年)11月、老舗であり大手五社の一社であった日活が成人映画路線に全面的に舵を切り、「日活ロマンポルノ」(1971年 - 1988年)を開始するが、梅沢は代々木忠が所属したプリマ企画が製作した『変態指圧師 色欲の狂宴』を監督、同作は同年12月22日、添え物中篇作品として日活の配給で公開、「日活ロマンポルノ」に外部製作の監督として参加していく[8][9][10]。1972年(昭和47年)1月、「日活ロマンポルノ」のうち、日活製作の『ラブ・ハンター 恋の狩人』(監督山口清一郎)、『OL日記 牝猫の匂い』(監督藤井克彦)とともに、梅沢が監督したプリマ企画製作の『女高生芸者』が警視庁に摘発される[15]。のちに「日活ロマンポルノ事件」と呼ばれたこの事件において、山口や藤井といった監督は起訴されたものの梅沢は起訴されず、『女高生芸者』については同作を製作した渡辺輝男こと代々木忠のみが起訴され[15]、梅沢は、1974年(昭和49年)6月5日、東京地裁において検察側の証人として出廷している[16]。同裁判は、1980年(昭和55年)7月、東京高裁で無罪が確定した[15]。
梅沢は摘発後の同年2月に公開された『現代ポルノ遊び1=3』(製作・配給日本シネマ)以降、満2年間、作品を発表することができなかった[4][5][6][7][8][9][10][11]。ただし『日本映画人改名・別称事典』(2004年)によれば、小泉 大介の名で脚本を書いていたといい[2]、プリマ企画の日活配給作品のこの時期の脚本がそれに当たる[10]。また同書は黒木 剛の名で監督作を発表したといい[2]、東京興映(代表・小森白)が最末期に製作したこの時期の作品がそれに当たる[6][9]。1974年2月に公開された『悦楽の世界』(製作国映、配給新東宝興業)は、梅沢が「東元薫」名義で監督した作品であり、同作以降、同名義で新東宝興業の配給作品を量産する[1][4][5][6][8][9]。同年以降、美人女優として人気があった仁科鳩美(1952年 - 1979年)の主演作を多く手掛ける[1][4][5][6][8][9]。1977年(昭和52年)には、仁科を主演に『私は誘拐されました 女体実験室』を監督(「東元薫」名義)、同作は東映が配給して同年3月12日に公開されたが、以降、東映あるいは東映セントラルフィルムが配給するいわゆる「東映ニューポルノ」を新東宝興業作品と並行して手がけるようになる[4][5][6][8][9]。仁科は同年9月に公開された梅沢(「東元薫」名義)の監督作『ある女教師 夜間授業』を最後に引退、その2年後の1979年(昭和54年)には亡くなっている[17][18][19]。梅沢は同年5月に公開された『女子学生 真夜中の授業』を最後に「東元薫」の名を封印した[4][5][6][7][8][9][10]。
1983年(昭和58年)末までは年間15本内外のハイペースで量産していたが、翌年には半減、1986年(昭和61年)以降は作品ペースが激減、1988年(昭和63年)4月に公開された伊藤清美の主演作『新妻ハードONANIE』を最後に作品発表が途絶えた[4][5][6][7][8][9][10]。満53歳であった[1][7]。以降、亡くなるまで10年間、作品の発表はなかったが[4][5][6][7][8][9][10]、1994年(平成6年)6月7日 - 同11日にアテネ・フランセ文化センターで開催された「大和屋竺映画祭」の特集上映に対し、16mmフィルム版で梅沢が私蔵していた『引き裂かれたブルーフィルム』(1969年)と『濡れ牡丹 五悪人暴行篇』(1970年)の上映用プリントを提供、期間中の同10日には出演者の港雄一とともに観客の前に姿を現した[20]。
1998年(平成10年)12月26日、東京都内の自宅で死去した[8]。満64歳没。久保新二の回想によれば、自宅で亡くなった際に「電話の受話器が外れ指の先にあった」とのことで、これについて久保は「救急車を自分で呼ぼうとして事切れたのか、鳩美から電話があって出ようとしたのかは定かではない」と書いているが[21]、前述の通り仁科鳩美は19年前にすでに亡くなっている。野上正義によれば、梅沢は既婚者であり一人娘がいたという[13]。梅沢についた助監督として、滝田洋二郎、佐藤寿保、片岡修二、瀬々敬久らが挙げられる[9]。また、1970年前後には国映作品で一定期間、チーフ助監督として中村幻児、セカンド助監督として浜野佐知が梅沢についていたと浜野が回想しており[22]その門下人脈は現在かなり大きな流れになっている。瀬々は、著書『瀬々敬久映画群盗傳』で、毎年クリスマスイブに獅子プロダクションの貧しい若手たちに差し入れをしていたキャリア末期の梅沢の姿に触れている。
再評価は梅沢が作品を発表しなくなって6年が経過した1994年、前述の「大和屋竺映画祭」の特集上映に『引き裂かれたブルーフィルム』と『濡れ牡丹 五悪人暴行篇』の上映用プリントを提供したことに始まる[20]。没後も、2009年(平成21年)3月にはイメージフォーラムで開催された「WE ARE THE PINK SCHOOL 日本性愛映画史1965 - 2008」の特集上映で『濡れ牡丹 五悪人暴行篇』が上映された[23]。2013年(平成25年)2月8日 - 同11日に神戸映画資料館で開催された「ピンク映画50周年 特別上映会 映画監督・渡辺 護の時代」の特集上映では、『三日三晩裏表』(1969年)および『素肌が濡れるとき』(1971年)がそれぞれ16mmフィルム版上映用プリントで上映された[24]。
アップリンクが手がけたプリマ企画作品の連続的DVDビデオグラム化では、2011年(平成23年)6月3日に『変態指圧師 色欲の狂宴』(1971年)が選ばれ、発売された[8]。
特筆以外すべてのクレジットは「監督」であり「梅沢薫」名義である[1][4][5][6][7][8][9][10][11][12]。東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)等の所蔵・現存状況についても記す[5][25]。
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