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桑名電軌(くわなでんき)は、かつて三重県桑名市内を走っていた軌道線(路面電車)。
桑名駅の駅前広場から駅前通りの「八間通」を東へ真っ直線に走り、行き止まりとなったところが終点の本町電停であった。車庫は路線の中ほどに存在し、南側に引込線を引き込んでいた。
八間通の幅員が広く、さらにほぼ一直線に進んでいたこともあり、起点・終点両方から互いを望むことができるほど小さな路線であった。
運転間隔は5分または10分間隔で、午前5時30分から翌日午前0時までと運行時間が長かった。所要時間は全線乗っても4分しかなかった。運賃は初乗り3銭、全線5銭で、全線往復乗車の場合1割引され9銭であった。
桑名は東海道の42番目の宿場町であり、熱田との間にあった「七里の渡し」と呼ばれる海上航路を船で行き来する旅人を受け入れる地として栄えていた。このため桑名の市街地は海寄りにあり、桑名藩の藩庁である桑名城も揖斐川を背後に造られていた。
ところが明治時代になり、1895年に関西鉄道(現在の関西本線)が大阪側から延びて来た際、桑名の中心駅となるはずの桑名駅は、桑名町の西隣の大山田村(のちの西桑名町)に設置され、人々は不便を強いられることになった。
その後、駅の効果もあって駅前は新興市街地としての発展を開始し、単純に駅への連絡だけでなく新興の繁華街との往来も激しくなって来た。1925年には駅前から旧市街へ通じていた細道が一気に拡幅されて「八間通」と名づけられ、本格的に駅と旧市街地の連携を深める必要が出て来た。
その連携手段となるべく手を挙げたのが桑名電軌であった。当社は、桑名駅前から八間通を通って旧市街地を結ぶ1キロあまりの軌道線を敷設することにしたのである。
むろん、駅前と旧市街を結ぶだけでは短すぎるので、この間は「駅前線」と称し、第一期計画の路線としてとりあえずの開業ということにしてあった。その後第二期線では駅前線から南へ路線を分岐させ、第三期線では東に、第四期線では西に環状線を構築して桑名市内に路線網を張り巡らせ、さらに第五期線では四日市市の富田まで延ばすという計画を立てていた。もしこれが実現していれば、桑名市から四日市市にかけて巨大な路面電車網ができていたことになる。
桑名電軌が特許を申請したのは1925年のことである。その翌年には特許が下り、年末には工事許可申請を出す素早さで、特許申請から2年後の1927年には工事着手に至った。途中、停留場を追加したり、1本突っ込みであった桑名駅前電停を2線構造にしたりと変更を加えつつ工事が行われ、同年9月17日には開業に至った。
開業後は大入満員となり、当初4両であった車両を5両に増やして対応するほどであった。
また駅前の繁華街は八間通沿いにも広がり始め、旭橋電停付近には娯楽施設が集まった3階建ての「旭ビル」が建ち、この界隈の中心部として機能し始めた。さらには1932年、桑名駅前にバイパスとして国道1号が新たに開通し、官庁街も八間通に吸い寄せられて来るなど、当線にとっては好条件の状況となった。
だが、この好条件が逆効果となった。当時、日本各地では乗合自動車業者が設立されて乗合自動車が走り出し、小さな軌道線や郊外型の軌道線を圧迫していた。桑名もその例外ではなく、駅に通じる繁華街ということで完全に乗合自動車に併走され、1932年頃から4割も減収、収支が悪化したまま膠着状態となってしまった。
そんな桑名電軌にとどめを刺したのは、政府の政策であった。1941年の太平洋戦争勃発後、資源に恵まれない日本は軍需生産に必須である鉄の確保が至上命題となり、兵器製造による金属を中心とした物資不足が深刻化し、これを改善するために政府が出したのが「金属類回収令」である。銅像や梵鐘のほか、鉄道もその供出対象となった。鉄道の場合、政府が軍事的に重要ではない路線を「不要不急線」に指定し、国防や産業振興上の必要性の高い路線の新設や輸送力増強に資材を転用するものであった。
結果、全長約1kmという短さの当線は「不要不急線」とされてしまい、さらに競合対象である乗合自動車が参宮急行電鉄(現在の近畿日本鉄道)系列の会社で太刀打ちもできないことから、「戦力増強の国策に応じるため」との理由で廃止を決定した。1943年年末の臨時株主総会において廃止と会社解散を決議し、翌1944年1月10日に営業を終了した。
撤去工事は10日ほどで終了し、会社も同年3月8日に解散した。
桑名駅前 - 国道 - 車庫前 - 三崎橋 - 旭橋 - 田町 - 本町
各電停は、間隔わずかに100 - 200m程度、安全地帯はなく道路から直接の乗降となっていた。以下、各電停の概要を示す。かっこ内は起点からの営業距離 (km) で、国道電停以外はチェーンからの換算による。また、開業日は断りなき場合は路線開業時である。
年度 | 乗客(人) | 営業収入(円) | 営業費(円) | 益金(円) | その他損金(円) | 支払利子(円) |
---|---|---|---|---|---|---|
1927 | 118,867 | 4,329 | 3,428 | 901 | 償却金800 | |
1928 | 852,619 | 33,155 | 21,888 | 11,267 | 償却金3,600 | 22 |
1929 | 881,423 | 34,260 | 24,013 | 10,247 | 償却金自動車5,540 | 171 |
1930 | 768,259 | 29,722 | 23,828 | 5,894 | 償却金自動車5,417 | 177 |
1931 | 696,840 | 27,027 | 20,390 | 6,637 | 償却金5,850 | 25 |
1932 | 622,374 | 23,583 | 17,608 | 5,975 | 償却金5,100 | |
1933 | 579,189 | 24,515 | 19,915 | 4,600 | 償却金4,000 | |
1934 | 581,770 | 22,992 | 17,980 | 5,012 | 償却金4,500 | |
1935 | 562,198 | 22,350 | 17,785 | 4,565 | 償却金4,402 | |
1936 | 573,181 | 23,349 | 18,509 | 4,840 | 償却金4,580 | |
1937 | 583,159 | 23,329 | 18,133 | 5,196 | 償却金5,000 | |
わずか1kmという路線ながら5両の電車が存在し、うち3両までが新製車であった。すべてシングルポール・救助網装備である。常時稼働は3両で、残りの2両は予備車として運用されていた。
なお、路線廃止後の車両の消息については時期が終戦直前・直後だったこともあり、不明の点も少なくない。
当線が廃止になった翌年、1945年7月に桑名市は2度に渡って空襲を受け、市内の9割を焼失する被害に見舞われた。その影響で桑名駅は焼失し、さらに南へ移転したため、現在は空き地となって駅前の面影を留めない。
また八間通沿いにも当時からの建物はほとんど残っておらず、終点の本町電停付近も行き止まりであったのが揖斐川沿いまで延長されてしまい、完全に当時の面影はかき消えた状態になっている。
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