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日本の江戸時代の女性、徳川綱吉の母 ウィキペディアから
桂昌院(けいしょういん、寛永4年(1627年) - 宝永2年6月22日(1705年8月11日))は、江戸幕府3代将軍・徳川家光の側室で、5代将軍・綱吉の生母。通称は玉。光子。『徳川実紀』によれば、父は北小路(本庄)太郎兵衛宗正(宗利)。母は鍋田氏。兄に北小路道芳(後に本庄姓を賜り本庄道芳)、弟に本庄宗資がいる。
京都の大徳寺付近で産まれる。『徳川実紀』によれば、父は関白・二条光平の家司である北小路(本庄)太郎兵衛宗正だが、実際の出身はもっと低い身分であるという噂が生前からあった。桂昌院と同時代の人物の記録では、朝日重章の日記『鸚鵡籠中記』に、従一位の官位を賜ったときに西陣織屋の娘であるという落首があったことが記されており、また戸田茂睡の『御当代記』に畳屋の娘という説が記されている。黒川道祐の『遠碧軒記』人倫部は二条家家司北小路宮内が「久しく使ふ高麗人の女」に産ませた娘とする。死後やや経ってからの『元正間記』には大根売りの妹、さらに後の時代の『玉輿記』には、父は八百屋の仁左衛門で養父が北小路太郎兵衛宗正という説が記されている。遺骨検分をした人類学者の鈴木尚は、本庄宗利(宗正)の後妻(八百屋の未亡人)の連れ子説をとっている[1]。
寛永16年(1639年)に部屋子として家光の側室・お万の方に仕え、後に春日局の目にとまり、「秋野」という候名で、局の指導を受けるようになる[2]。長じて将軍付き御中臈となり、家光に見初められて側室となり、正保3年(1646年)1月に綱吉を産んだ。
慶安4年(1651年)に家光が死ぬと落飾して大奥を離れ、筑波山知足院に入る。4代将軍・家綱の死後、延宝8年(1680年)に綱吉が将軍職に就くと、江戸城三の丸へ入った。貞享元年(1684年)11月に従三位を、元禄15年(1702年)2月には女性最高位の従一位の官位と、藤原光子(または宗子)という名前を賜る。宝永2年(1705年)6月に79歳で没。
実家・本庄氏は桂昌院の威光により、その一族は高富藩・小諸藩・宮津藩・笠間藩・足利藩などの小藩ながら大名として立身出世を果たしている。墓所は東京都港区の増上寺。遺髪塚が寺の復興に貢献した京都府京都市西京区の善峯寺に「桂昌院廟」として存在する。
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