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日本の明治時代後期~平成時代前期の作曲家。子爵松平頼孝(旧常陸石岡藩主家)長男で、石岡松平氏12代当主 ウィキペディアから
子爵松平頼孝の長男として東京市小石川区久堅町(現・東京都文京区小石川)に生まれる。母の治子は公爵徳大寺実則の四女。大叔父に内閣総理大臣西園寺公望がいる。
学習院初等科から暁星中学校に進む[1]。16歳のとき生家が没落し、久堅町の邸宅を手放すことを余儀なくされ、父と別居した母に伴われ、妹とともに青山に仮寓[1]。一高入試に失敗して2年間の浪人ののち、慶應義塾大学文学部仏文科に進む[1]。国立音楽学校に転学したが1年ほどで慶應義塾大学に戻り[2]、叔母の学資援助により、大学時代からピアノをチャーレス・ラウトロプに、和声学と対位法と楽式論をハインリヒ・ヴェルクマイスターに、作曲を小松耕輔に師事。慶應義塾大学在学中、1930年1月に結婚[2]、1931年3月に長男の頼暁が誕生。のち大学は中退。この間、1930年、清瀬保二や箕作秋吉や菅原明朗や橋本國彦たちと共に新興作曲家連盟を結成する。同年、ピアニストとしてデビューする。
1946年、清瀬保二や早坂文雄や伊福部昭たちと共に新作曲派協会を結成する。上野学園大学教授、日本現代音楽協会委員長を歴任する。1972年紫綬褒章、1979年勲四等旭日小綬章を受章する。1996年、文化功労者に選ばれた。2001年糖尿病で没。享年94。
南部地方の民謡を素材とした新古典主義的な作風から出発し、雅楽との出会いを経て、雅楽と西欧の前衛音楽を結びつけた独自の境地に至る。前衛的な作風に転換した時期にはすでに50歳近くになっていたが、それ以後も十二音技法からトータル・セリエリズム、不確定性の音楽などを次々と採りいれ、作風は常に進化し続けた。オリヴィエ・メシアン[注釈 1]やピエール・ブーレーズ[注釈 2]やジョン・ケージ[注釈 3]に影響を与えるなど国際的な評価も高く、ISCM入選作品の日本人最多記録[注釈 4]を持つ。晩年はソプラノ歌手奈良ゆみのために、モノオペラ「源氏物語」をはじめ数多くの声楽作品を作曲した。
南部地方の民謡に基づく新古典主義的なオーケストラ曲「パストラル」(1935年)でチェレプニン賞第2席を獲得し、デビューする。当時の作風は深井史郎から「カチカチ」と評されたが、譜面が整いすぎてアゴーギクに支障が出ることは否めなかった。そのような中でも「古今集」(1939年-1945年)で見られる和声付けの典雅さは後年の資質を感じさせる。この頃からすでに増四度音程に偏愛を見せていたが、それは晩年まで一貫する彼の作風の特徴となる。「前奏曲ニ調」(1934年)はアレクサンドル・チェレプニンの演奏で録音されている。
梶井基次郎も臨席したアンリ・ジル=マルシェ[注釈 5]のピアノリサイタルは、当時の日本の常識を覆す近代作曲家の日本初演の連続で聴衆を驚愕させたが[注釈 6]、このリサイタルに大きな感銘を受けたことがきっかけで、松平は驚異的なスピードで印象派以降の和声イディオムを吸収した。
ヘルベルト・フォン・カラヤンの指揮とイヴォンヌ・ロリオの独奏で再演[注釈 7]されたピアノとオーケストラのための「盤渉調越天楽による主題と変奏」(1951年)[注釈 8]は、越天楽の演奏で最も良く聴かれる平調ではなく盤渉調を採用しており、メロディラインがよく知られたものとは若干異なる。この曲は20世紀前半に完成された近代和声の見本市のような様相に加え、十二音技法が部分的に採用されている。一方、第5変奏ではフォックストロットやブギウギ、スウィングのリズムがそのまま用いられており、クラシック音楽と商業音楽の中継点を模索する姿勢がうかがえる。
「主題と変奏」が1952年にISCMに入選したのを皮切りに、1954年にソプラノと室内オーケストラのための「催馬楽によるメタモルフォーズ」が、1957年にオーケストラのための「フィギュール・ソノール」が、1959年にオーケストラのための「左舞」がそれぞれ入選する。この時期には十二音技法を全曲にわたって敷衍し、雅楽の調子(旋法)を十二音技法で再分析する作曲技法を開発した。ただし、雅楽の旋法分の7音に対して残りの5音はかなり自由に選ばれており、この自由選択から不確定性へも開眼したことが、さらに作風の幅を広げることとなった。オーケストラのための「右舞」、「左舞」以降は音高のみならず他のパラメータにもセリエルな操作が及ぶようになる。「桂」(1959年)では、当時はまだルチアーノ・ベリオですらも模索中だった素材音高音列の使用と十二音技法が、幾何学的に絡む装飾音に彩られた書法とマッチしている。当時の多くの作曲家がセリー技法とパルス構造との矛盾に悩む中、50年代末期の時点であっさりと打楽器奏者に淡々とパルスを託し、なお品格が損なわれることがない。
50歳を過ぎても海外の動向を常にリアルタイムで追う松平は、ヨーロッパにおいて評価を高めてゆき、ポール・メファノ、ゴッフレド・ペトラッシ、ヴィトルト・ルトスワフスキ、ピエール・イヴ・アルトーの激賞を受けた。1963年にオーケストラのための「舞楽」が、1965年に「ピアノ協奏曲」が、1969年に2台のピアノと2人の打楽器奏者のための「ポルトレ B」が、1972年に2群のオーケストラのための「循環する楽章」が、1974年にオーケストラのための「前奏曲、間奏曲、後奏曲」(上演見送り。翌年再入選)が、1980年に2つのフルート、2つのクラリネットと4人の打楽器奏者のための「神聖な舞踊による3つの楽章のための変奏曲(振鉾三節による変奏曲)」が、1983年にソプラノと室内アンサンブルのための「唱歌」が、1984年に10楽器のための「雅楽の主題によるラプソディ」が、1991年にソプラノ、笙、フルートと箏のための「源氏物語による3つのエール」がそれぞれ入選し、国際的な評価を高めてゆく。
不確定性を採用した「蘇莫者」(1961年)はフルート独奏の古典と目され、現在も様々な名手によって再演されている。フルーティストの個性により、曲想も全く変わってしまうほど自由度の高い楽曲だが、彼は全ての選択ヴァージョンにOKを出すなど寛容であった。
かつては選択性と断片を併記する記譜法であった。それではヴァージョンの自由度があまりにも高いと判断したのか、2台のピアノと2人の打楽器奏者のための「ポルトレ B」(1967年-1968年)では、あらかじめ一つのヴァージョンを全て書き終わってから次のヴァージョンを作曲し、最終的に書き終わった全てのヴァージョンの中から選択する形[注釈 9]をとった。これら1960年代の様々な試みの後、最終的には不確定性を破棄した。
井上二葉の演奏による放送初演で知られるピアノ組曲「美しい日本」(1970年)は、日本の俗謡から雅楽に至る諸形式をピアノ独奏で描き出すことに成功し、日本ピアノ曲史上屈指の名作との呼び声が高いがこれもLPとCDが生前発売されることがなかった。同時発音数も控えめに薄い音楽密度が保たれるが、いささかの美学の狂いもなく、完璧な書法で圧倒している。第1曲で見られるように、「素材ごとに終止線を引く」形式は、雅楽における残楽からの影響が指摘される。この年には、折に触れて作曲していた子供の為の教育用作品の難易度を上げた格好の、「日本の旋法によるピアノの為の練習曲集」(1970年)も書き上げられた。これら2作品には、硬派な前衛イディオムを用いて世界に訴える松平とはまた違った一面を覗く事が出来る。
演奏家に対して一切の妥協がないために、「ピアノ的なソルフェージュのままで作曲するために、声楽やクラリネットでこの跳躍音程は性能上不可能」、「エクリチュールに隙がなさ過ぎるために、アゴーギクに支障が出る」、「譜面に書いていないことが多すぎる」などの問題点もあったものの、一切を放置した。
前衛の時代が終わっても松平は自己様式をゆがめることなく、「ピアノ協奏曲第2番[3]」(1979年-1980年)、「二群のオーケストラの為の循環する楽章」(1971年)、2つのフルート、2つのクラリネットと4人の打楽器奏者のための「振鉾三節による変奏曲」(1978年-1979年)などの傑作を次々と作曲した。しかし、循環する楽章は指揮者が途中で間違えてしまい、ピアノ協奏曲第二番は必ずしも聴衆から好評ではなかった。この日本人の対応を見て、松平は作品の発表をこれまで以上に海外に移した。
「雅楽の旋法による6つの即興曲」[注釈 10]では旋法上の音を故意に強調するため、セリエル的なテクスチュアの中から民族色がほのかに浮かび上がる。松平の技法はセリー分析が1950年代から困難であったが、この時期に入るとさらに自由な音選択がされているため、聴覚上と書法上の両面において、旋法上の音名に細い装飾で異化された形状の外郭しか把握できなくなっている。「システムになっているかなっていないかの、中ぐらいのが一番いいんですよ」という彼の理想はここに確立する。
名演奏が得られないことを苦にしていた松平は、1人のソプラノ歌手奈良ゆみと出会う。彼女は元々音程の取り方に、ずり上げ・ずり下げといった日本的慣習を伴ってどの国の作曲家の作品も唄っていたが、松平はその歌唱法を「この歌手を20年待った!」と絶賛した。1993年に完成したモノオペラ「源氏物語」(1990年 - 1993年)は、グランドオペラのように全楽器をソプラノ独唱に対峙させることはなく、原詩の内容に応じて異なった楽器編成が用意されている。例えば「心から(『朧月夜』)(1993年)はソプラノとクラリネットのために書かれている。この曲は奈良ゆみの歌唱力が遺憾なく発揮されており、一つの音に山状のポルタメントを付けることで、原詩の抑揚が表現されている。彼女の歌唱能力に応じて作風がより官能的に変化したことが、多くの聴衆を驚かせた。
かつての松平は邦楽器の使用には消極的で、笙の和音を6つのヴァイオリンで代用するなどしていたが、この時期にはふんだんに邦楽器を用い、作品は神々しさを増している。しかし、細棹三味線のように忌避した楽器は、没年まで一切用いられることはなかった。
作品世界を理解した名演奏家にも恵まれ、「源氏物語」を完成させても、彼の作風は晩年まで進化した。ポール・メファノは、どの日本人留学生に向かっても、必ず彼の活動状況を尋ねたと伝えられる。「ピアノ協奏曲第3番[4]」(2000年-2001年)と「宇治十帖」(1998年)はその軌跡を語る上で欠かせない作品であるが、「ピアノ協奏曲第3番」は2010年にようやく初演されたものの、「宇治十帖」は未上演のままである。声の肉感性を極限まで追求した松平は、この時期からは濃厚なポルタメントも影を潜め、より起伏や展開の感じられない淡々とした音調を綴る事を好とした。ピアノ独奏のための「運動」(2000年)やフルート、ソプラノ、箏のための「三つのオルドルII」(1995年)では、高揚らしきものはほとんど感じられない。
音源と楽譜が比較的容易に入手できる後期作品としては、管弦楽のための「春鶯囀(しゅんのうてん)」(1987/1992年[注釈 11])とソプラノとオーケストラのための「迦陵頻(かりょうびん)」(1993-94/1996年)が挙げられる程度であり、1990年代からはほとんど新作の出版を行っていなかった。亡くなる数時間前までソプラノ、フルート、ピアノのための「迦陵頻(かりょうびん)」(2001、絶筆であり全曲は未完。最後の楽章に当たる「急の曲」は死の1週間前に完成しており、初演済)を作曲していたというほど、最期においても作曲家としての態度を一貫させた人生であった。野平一郎のための「ピアノのための運動」も一度は断った[6]らしいが、ほどなくして全曲が完成され無事初演されていた。
松平は委嘱を受けなくとも自らの意志で作曲を続けたので、作品の数は非常に多い。未上演、未出版の作品も多くある。
生前は龍吟社、音楽之友社、全音楽譜出版社、リコルディ社、ツェルボーニ社、ソニック・アーツなどにわたって作品を出版していたが、最重要作すらもこれらの出版社から入手できない。松平自身がピアニストであったこともあり、ピアノ作品にはこだわりある程度は出版され、未出版の作品も演奏の機会にはかなり恵まれていた。しかし、これらの作品を商用録音で聞ける可能性は、今もなお少ない。そもそも、源氏物語全曲のCDは生前販売されなかった。
明治学院大学へ移管された日本近代音楽館[8]と、上野学園大学短期大学部[9]や中部日本放送[10]には「ピアノソナタ」などの自筆譜がかなり収められている。その他の遺稿の整理は松平頼暁と平石博一が一緒に[11]行っており、確認が取れ次第日本近代音楽館へ寄贈された。
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