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『建国史 尊王攘夷』(けんこくし そんのうじょうい)は、1927年(昭和2年)製作・公開、池田富保監督による日本の長編劇映画、サイレント映画時代の剣戟映画である。タイトルは単に『尊王攘夷』とも。
1927年(昭和2年)、当時の日活太秦撮影所長・池永浩久総指揮のもとに製作された15巻ものの大作である[1]。タウンゼント・ハリスの上陸から安政の大獄、桜田門外の変までを描く。本作は、日活が配給し、同年10月1日に神田の神田日活館、浅草公園六区の観音劇場を初めとして全国で公開された[1]。
本作の上映用プリントは、現在[いつ?]、東京国立近代美術館フィルムセンターにも[2]、マツダ映画社にも所蔵されていない[3]。しかしフィルムは現存し、日本のビデオグラムメーカーのディスクプランが2009年(平成21年)4月25日に『尊王攘夷』のタイトルで、「100分」の上映尺のDVDをリリースしている。同DVDの冒頭は、題名やキャストのカットタイトルは残っておらず、装置(美術)・照明・美髪・衣裳・字幕・撮影調達のスタッフのクレジットが1枚、次に補監督・撮影・撮影(補助撮影)・助監督のクレジットが1枚、「時代劇部 現代劇部 總出演」のタイトルが1枚、説明書が1枚、「原作・監督 池田富保」のタイトル1枚、で始まっている[4]。
クレジットおよびデータは日本映画データベースの本項参照[1]。『尊王攘夷』DVD画面にあるクレジットはそれに準じる[4]。
幕末、安政5年6月(1858年7月)、アメリカ合衆国の全権総領事タウンゼント・ハリスが神奈川沖に投錨した。幕府側の代表である井上信濃守(中村仙之助)、岩瀬肥後守(実川延一郎)と交渉するが、開国と友好を求めるハリスらに井上らは強硬姿勢を見せる。ハリスらは清国がイギリスに上海を乗っ取られた例を挙げ、友好の必要を説く。その報告が江戸城に伝えられると、幕府大老の井伊直弼(大河内伝次郎)は、客観的な国力の違いから、命を張っても開国すべきだとの姿勢である。13代将軍家定(市川百之助)も病に伏せている。一方、水戸齊昭(山本嘉一)らは開国に反対であり、水戸藩士たちも同様である。
水戸の巷で開国反対を説くヒゲの大男・関鉄之助(新妻四郎)がいる。正義漢で直情型の関は、有村治左衛門(尾上多見太郎)、森山繁之助(谷崎十郎)の仲間である。
やがて、頼三樹三郎(岡崎晴夫)、鵜飼吉左衛門(中村時五郎)、梅田源次郎(三桝豊)ら危険人物たちを井伊直弼は次々に捕らえさせる、のちに安政の大獄(安政5年(1858年) - 安政6年(1859年))と呼ばれる強硬手段に出る。なかでも梅田は、乳飲み子をかかえる病弱な妻おせつ(沢村春子)と別れる羽目になり、連行される梅田を、おせつは病身を押して道にまろびながらも追うのだった。
有村らは、水戸齊昭に暇を乞い、井伊直弼を討つ決意を固める。有村は新しい刀を購って準備を進めるが、森山はシャイな関を芸妓遊びに連れ出し、芸妓のおあき(酒井米子)とくっつけようとする。
安政7年3月2日(1860年3月23日)いよいよ、明日決行、夜には雪が降る。翌朝、江戸城桜田門で斬りかかる有村ら。いよいよ籠のなかから井伊直弼が現れる。井伊も命をかけて開国を推進する身、有村も命がけである。井伊は国賊と叫ばれるが、お互い思想が違うが、国を思う心は同じだと動ぜず、そんなに井伊の首が欲しければ、と雪の庭に座する。井伊の首を取る有村、勝鬨を挙げる関、森山たち。
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