平岡 太吉(ひらおか たきち、天保4年10月18日(1833年11月29日) - 明治29年(1896年)6月3日)は、日本の農民、金融業者。
弁護士、政治家・平岡萬次郎、内務官僚・平岡定太郎兄弟の父。農商務官僚・平岡梓の祖父。作家・三島由紀夫の曾祖父。
天保4年10月18日、播磨国印南郡西神吉村宮前(現在の兵庫県加古川市西神吉町宮前)の百姓・平岡太左衛門の息子として生まれた。平岡家の過去帳によると、父の太左衛門は6代目で、初代は元禄時代(1688年 - 1703年)の平岡孫左衛門である。
太吉は持庵という医師の教える塾で、読み書き算盤を習った[1]。
太吉が幼少の頃、一家の所払い(太吉が領主から禁じられていた鶴を射ったためという説と、太左衛門が菩提寺の真福寺に赤門を寄進し、この行為が“お上をおそれぬ、ふとどきもののおこない”とされたという説と、2通りある)により、志方村上富木に移住し、幼い太吉は塩浜で働いたが、やがて一家の暮らしは再建する。
安政3年、太吉は、印南郡東飯村の寺岡久平の長女・つると結婚し、安政6年8月、前戸主の父・太左衛門から家督相続をし、戸主となる。万延元年11月に長男・萬次郎、文久3年6月に二男・定太郎、慶応元年に三男・久太郎、明治5年(1872年)に長女・むめ、の三男一女を儲ける。幼い息子たちを皇道精神を基調とする鼎塾に、明治8年(1875年)まで学ばせた。その後、萬次郎、定太郎を、神戸の漢学塾・乾行義塾、神戸師範学校(御影師範学校、現・神戸大学)で学ばせ、萬次郎を東都の専修学校(現在の専修大学)、定太郎を帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)へ進ませた。2人の息子は東京での学業中、太吉の伝手であった姫路藩出身の士族・古市公威を頼り、書生や塾教師などの仕事の世話してもらう。
板坂剛によると、太吉は金貸し業で成功し、さらには畑仕事を一手に引き受けていた妻・つるの農業的な才覚やアイデア(果実の栽培の成功)により、平岡家に莫大な利益がもたらしたという。[2]。過去帳によると、「平岡太吉は裕福な地主兼農家で、田舎ではいわゆる風流な知識人で腰には矢立を帯び短冊を持ち歩いた」、「萬次郎、定太郎両名を明石の橋本関雪の兵父の漢学習字の塾に入れ勉学させ、次いで東都へ遊学させた」、「太吉の妻(つる)もすこぶる賢夫人として土地では有名であった」とある[3]。
- 太吉の孫の嫁(久太郎の二男・平岡義一の妻)である平岡りきによると、太吉は幼少(5、6歳)の頃に、領主から禁じられていた鶴を射ったため、一家に“所払い”が命じられ、志方村上富木(現在の加古川市志方町上富木)の横山部落に移り住んだという[4]。この鳥については、鶴であったという説と雉子であったという説と、あるいはその両方であったという説がある。板坂剛によると、「鶴か雉子かどっちなのだろう、と思っていると、現地で郷土史に明るい教育関係者がこんなことを言っていた、と伝えてきた人がいた。それによると、『鶴やら雉子やら、その他の色んな鳥を殺していた。常習犯だったようだ』」という[2]。
- 板坂剛は、「それにしても何故少年はそんな凶器を手にして禁を犯すような行動に走ったのか?理由は誰も書いていない。地元の人たちの間ではあまりに貧しくて食料がなかったために、御禁制の鳥まで殺して食べていたのだという説も囁かれている。そうだとしたら平岡家は、かなりの極貧だったことになる。しかし、父親の太左衛門だってまだ二十代前半だったのである。その父親がやったというならともかく、どんなに食料に困っていたからといって、五歳か六歳の子供に密猟させるとは、どう考えても異常であり、信じがたい。神吉村は貧しい村であり、そこで塩や塩製品を販売していたとしても食料が充ち足りていたとは思えないが、太左衛門は小規模ではあっても金貸し業まで営んでいる。そこまで飢えていたと考えるのは無理があるといえるだろう。おそらく太左衛門は何も知らなかったのではないだろうか。知っていたら止めたはずである。息子はそして、“禁じられた遊び”で得た獲物の屍を、近所の子供に見せびらかして自慢したに違いない」と推測している。また、「この歳の子供ならせいぜい手作りのオモチャの弓矢で、スズメか鶏を狙うぐらいが限界だろうと思うのだが……。もちろん本物の弓矢など手に入るわけではないのだから、それはやっぱり手作りのものであったに違いない。それでも鶴や雉子を射止めることができたということは相当の殺傷力を持っていたことになる。もし太吉が自分でそれを作ったとすれば、年齢を考えれば“天才”と呼んでもいいくらいである」という見解を述べている[2]。
- 野坂昭如によると、「(所払いで塩庄屋を追われた後、)二十五歳の太左衛門は一家をひきつれ、着のみ着のままで隣り村へ移った。昔からとむらい道と呼ばれる小高い岡の裾をたどり、宮前から八丁ほどの、荒蕪地、縁者知人の助けをかり身を入れるだけの住いを建てると、太左衛門は、開墾に打ちこみ、妻は木綿織り、幼い身を長男太吉は塩浜で働いた。どん底に落ちて以後、それまでのおっとりぶりが別人の如く、積極的に家業の幅をひろげ、というよりはかつかつ生きるための方策だが、炭を焼き、藍草を栽培し、周辺に柿、栗、桃を植えた。[5](中略)少しゆとりが生じると、太左衛門は、太吉を持庵という医師の教える塾へ通わせた、読み書き算盤を心得なければ、今後、世に立てぬと見きわめ、この庭訓が、太吉をして、長男萬次郎、次男定太郎を最高学府に学ばしめる」こととなったという。また、「所払い以後、にわかに顕(あら)われた太左衛門の才覚は、太吉に継がれた。開墾の成果水田六反畑一反二畝の他、飛び地ながら買い入れた水田六反、村では大百姓の、農作業は妻にゆだね、太吉は商いと金貸しに打こんだ。丹精こめて作物を育てるより、これを扱って利ざやを稼ぐ、父より手広く金融業を営み、安政四年、太左衛門が病に臥すと、二十数年間掘立小屋につぎはぎして暮した住いを、近隣の眼をそばだてしめる豪邸に建て直した」という[6]
- 板坂剛によると、「上富木の平岡家が住み着いた地から、歩いても数分ぐらいの距離にあるひなびた飲食店で、私がその店の常連客から聞いた話では、『平岡の家が持ち直したのは、つるさんのおかげだそうですよ。太吉さんはあんまり評判よくなかったらしい。あくどいこともずいぶんしてたようです。畑仕事はほとんどつるさんにまかせっきりでね』 ここであくどいことと言われているのは金貸し業のことで、父親の太左衛門が畑仕事から得たわずかな金を元手に細々と再開していたその道を、太吉は一挙に拡大した。『百姓を酒に酔わせて必要もない金を貸し与え、返済期日もよくおぼえていないその百姓の土地を取り上げようとした。同じ手口で水利権を手に入れた』といった噂がのこっている。噂の真相はともかく、太吉が悪徳金融業者であったというイメージは、地元には長い間定着していたようである」という。また、板坂剛は、「所払いになった一家が周囲を圧倒する栄光を手にしたとなれば、近隣の住人にとってはおもしろくないのは当然である。(中略)所払いの時には同情的だった神吉村の住人まで、太吉の豪邸に“成金”の所業と決めつける妬みのこもった視線を投げつけるようになった」と述べている[2]。
- 『月刊噂』によると、「皮肉なことに、平岡家の勃興はじつにツルを射った太吉の活動から始まる。つまり梓の祖父、三島由紀夫の曽祖父にあたる人物である。安政六年に没した父のあとを受けた太吉は所払いという屈辱感と同時に、横山の土地にしがみついても暮してゆかねばならぬ切迫感を抱いて必死に働いたらしい。文字通り、当時の横山は松の木が生い繁った山であった。地形からしても決して地味豊かな土地ではなく岩石も多い。おそらく、かれは厳しい開墾作業の毎日をつづけたものと思える。(中略)岡住職によれば、やはり夫の太吉が偉かったのだいうことになる。単なる百姓ではなくて、篤農家と称するほうがふさわしかった。ひとにも増して働くばかりではない。百姓にしては度胸もよく、機を見るに敏で、商人的な理財観念が発達していた。冷害や旱魃などがあっても損害を最小限度に押えて収穫し、気候を予感して作付けするなど、俊敏である。ある大酒飲みがいくばくかの金と酒一升をかれから借りたとき、不用意に自分が名代になっている共同用池を担保にした証文を差し出した。このために、その借金の主は、とうとうかれによって共同用池をまきあげられる羽目に陥ったという噂もある。事実かどうかはわからないが、太吉という人物が目先のきく男と見られていたことを示している。」という[4]。
- 野坂昭如によると、「太左衛門は、自分の代で失った塩庄屋の身分を取戻すことを悲願とし、何度も取得入札をねがい出たが許されず、六年果せぬまま亡くなった。太吉は遺志を継ぎ、やがて明治。(中略)万事御一新の世の中、今度こそ塩田買戻しがかなうかと考えたが、入札参加は、「会所御吟味ノ上平岡太吉儀相成ラズ」と断られ、むしろ父の時代より強硬な断り状だった。これは以前からの既得権を守ろうとする、また身分制の崩壊に危機感を募らせた旦那衆による拒否、所払いの者が、金貸しなど営んで、成り上がっても、塩浜には立入らせぬというのだ。太吉は、(中略)(萬次郎、定太郎を)評判の高い鼎塾に通わせていたが、この因襲の地にいても志は遂げられぬとつくづく悟り、開港で賑わう神戸、さらに東京で学ばせ、天下に飛躍をと願ったのだ」という[7]。
板坂剛『極説・三島由紀夫』(夏目書房、1997年)
「三島由紀夫の無視された家系」(梶山季之責任編集『月刊噂』1972年8月号所載)
- 梶山季之責任編集『月刊噂』1972年8月号所載「三島由紀夫の無視された家系」)
- 板坂剛 『極説・三島由紀夫』(夏目書房、1997年)
- 安藤武 『三島由紀夫の生涯』(夏目書房、1998年)
- 猪瀬直樹『ペルソナ 三島由紀夫伝』(文藝春秋、1995年)
- 猪瀬直樹『ペルソナ 三島由紀夫伝』(小学館、2001年)
- 野坂昭如『赫奕たる逆光 私説・三島由紀夫』(文藝春秋、1987年)
- 越次倶子『三島由紀夫 文学の軌跡』(広論社、1983年)