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日本の政治家 ウィキペディアから
川崎 秀二(かわさき ひでじ、1911年(明治44年)9月14日 - 1978年(昭和53年)2月22日)は、日本の政治家。父親は立憲民政党代議士の川崎克。元厚生労働大臣の川崎二郎は次男。
川崎 秀二 かわさき ひでじ | |
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1954年撮影 | |
生年月日 | 1911年9月14日 |
出生地 | 日本、大阪府大阪市 |
没年月日 | 1978年2月22日(66歳没) |
出身校 | 早稲田大学政治経済学部卒業 |
前職 | NHK社員 |
所属政党 |
(日本進歩党→) (民主党→) (国民民主党→) (改進党→) (日本民主党→) 自由民主党 |
親族 |
川崎克(父) 川崎勉(兄) 川崎二郎(二男) 川崎秀人(孫) |
第26代 厚生大臣 | |
内閣 | 第2次鳩山内閣 |
在任期間 | 1955年3月19日 - 1955年11月22日 |
選挙区 | 旧・三重県第1区 |
当選回数 | 11回 |
在任期間 | 1946年4月10日 - 1960年10月24日 |
在任期間 | 1963年11月21日 - 1972年11月13日 |
在任期間 | 1976年12月5日 - 1978年2月22日 |
大阪府大阪市生まれ。1929年(昭和4年)旧制芝中学校卒業[1]。1935年(昭和10年)早稲田大学政治経済学部を卒業。早大時代は陸上部に所属する傍ら、学内の弁論大会に参加し、痛烈な軍部批判を行って入賞したこともある。卒業後はNHKに入局するも、戦時中は応召により中国大陸を転戦、この時の経験から、戦後日中友好運動に挺身することとなる。
企画部副部長を最後にNHKを退職し、戦後初の総選挙となった1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙に父親の地盤を引き継いで旧三重1区から日本進歩党公認で出馬し当選、以後当選11回を数える(当選同期に小坂善太郎・二階堂進・江﨑真澄・小沢佐重喜・石井光次郎・坂田道太・水田三喜男・村上勇・井出一太郎・早川崇・中野四郎など)。炭鉱国管疑獄では、1948年(昭和23年)衆議院不当財産取引調査委員会に証人喚問されている[2]。
川崎は1期下の中曽根康弘らと青年将校の異名で活躍して、日中友好に精進した[3]。
民主党から国民民主党・改進党を経て、日本民主党に所属していた1955年(昭和30年)、第2次鳩山一郎内閣に厚生大臣として入閣、国民年金・国民皆保険の導入に向け尽力する。これらはいずれも1960年代初頭に実現をみた。
保守合同による自由民主党結党後は、松村謙三・古井喜実らとともに日中国交回復への土台固めに務める傍ら、尾崎行雄記念財団理事長として1960年(昭和35年)に尾崎記念会館(後の憲政記念館の母体)を建設する。
1958年(昭和33年)末に、警職法改正で混乱していた自民党の秘密代議士会の席上、川崎がかつて警職法の取扱いで岸信介首相と会見した際に、岸が「政権を持ってみると警察力を握っていないことは寂しく感ずるものだ」と語ったことを暴露し、それが岸が警職法改正案を提出した権力思想につながるものだと演説を行い、党紀委員会から離党勧告を受けている[4]。
1960年(昭和35年)の第29回衆議院議員総選挙と1972年(昭和47年)の第33回衆議院議員総選挙では落選。1976年(昭和51年)の第34回衆議院議員総選挙での当選(11期目)は、「老兵が不死鳥のように甦った」と言われたが、在職中の1978年(昭和53年)に肝不全のため66歳で急死した。墓所は伊賀市山渓禅寺。
この他日本陸上競技連盟、ユネスコ議員連盟の理事を歴任。また1965年(昭和40年)に国際的な視野を持つ青年の育成を目的として世界青少年交流協会[注 1]を設立。1969年(昭和44年)会長に就任し、自ら青年たちを伴って各国を歴訪するなど、国際交流の促進に努めた。
小説家・推理作家の江戸川乱歩は父・克の同郷の後輩にあたり、学生時代から川崎家に出入りしていた。少年時代の秀二の子守りをしたこともあるという[5]。
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