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滋賀県大津市の日吉大社より生じた神道の信仰 ウィキペディアから
山王信仰(さんのうしんこう)とは、比叡山麓の日吉大社(滋賀県大津市)より生じた神道の信仰である。
この記事のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。 (2023年6月) |
山王とは、滋賀県大津市坂本の日吉大社で祀られる神の別名であり、比叡山に鎮まる神を指したものである。
日吉神社・日枝神社(ひよしじんじゃ、ひえじんじゃ)あるいは山王神社などという社名の神社は山王信仰に基づいて日吉大社を勧請した神社で、大山咋神と大物主神(または大国主神)を祭神とし、日本全国に約3,800社ある。
神仏習合期には「山王権現」や「日吉山王」とも称され、今日でも山王さんの愛称で親しまれている。なお、日吉大社では猿を神使とするが、猿との関連性についてはよく分かっていない。おそらくは原始信仰の名残りではないかと推測されている。
日吉大社は、もともと近江国日枝山(ひえのやま:後に比叡山の字が充てられた)の神である「大山咋神」(おおやまくいのかみ)を祀っていたもので、後に近江京遷都の翌年である天智天皇七年(668年)、大津京鎮護のため大和国三輪山(三諸山(みもろやま)とも)の大三輪神(おおみわのかみ)、すなわち大物主神(おおものぬしのかみ)を勧請しともに祀られた。
比叡山に天台宗の延暦寺ができてからは、大山咋神・大物主神は地主神として天台宗・延暦寺の守護神とされた。延暦寺を開いた最澄は寺の周囲に結界を定め、その地主神を比叡山の「諸山王」として比叡社に祀った[1]。唐の天台山国清寺が地主神として「山王弼真君」を祀っていることに因み、延暦寺ではこの両神を「山王」と称した。なお、最澄にとって比叡山の「山王」とは、山岳信仰に基づく、アニミズム的な形態に近い信仰対象であった[1]。
最澄にとって、「山王」とは山の地主神を仏教的に表現したものであるといわれる[1]。最澄が著したと思われる文書には、神名ではなくほとんど「山王」が使われており、あえて「神」とは呼ばなかった点に、仏教徒としての配慮がうかがわれるという[1]。このような、最澄による「山王」の扱いが、後に神仏習合の「山王神道」の成立を導いていったともされる[1]。
天長2年(825年)に、天台宗の第2代座主である円澄が、延暦寺の西塔を開いた[1]。以後、西塔は独自色を深め、それまでの「東塔」での地主神信仰に対応させるかたちで、小比叡神を祀るようになった[1]。小比叡神には、八王子山の磐座の神である大山咋神が勧請され、小比叡峯にある磐座に神が宿るとされた[1]。
西塔の独立により、最澄が当初祀った諸山王は統合され、東塔と結びついて、比叡神または大比叡神と呼ばれるようになった[1]。西塔で祀られる神も山王と呼ばれたため、「山王」は東塔と西塔で二極化することとなった[1]。
その後、天台宗の第5代座主であり、夢で様々な啓示を受けたという伝承が残されている円珍が、円珍に夢で入唐を勧めたとされる「山王明神」を、自身の坊に祀るようになった[1]。このため、それまでは最澄の創建として、千手堂または千手院と呼ばれていた円珍の坊が、山王院と呼ばれるようになった[1]。このように、山王明神の信仰は、円珍が個人的に祀ったことから始まった[1]。
こうして、大比叡神(東塔)・小比叡神(西塔)・比叡山王(山王明神)の「両所三聖」が成立した[1]。なお、円珍にとっては、「両所三聖」の中でも山王(山王明神)は別格で、「両所二聖」を超える存在、つまり、大比叡神・小比叡神を含んだ「比叡山」そのものを象徴しており、最澄が祀った諸山王をひとつにまとめた、非常に大きな信仰対象であったといわれる[1]。
延暦寺の第18代座主であり、比叡山中興の祖とされる良源は、天禄3年(972年)に、比叡山の「横川」を、東塔・西塔に匹敵する地位を持つ独立地区として認めた[1]。もともと、横川の発展には良源が大きく関わっており、その独立の裏にも、良源の意向があったとされる[1]。以後、良源の意向は、古くから存在する東塔・西塔よりも、横川に大きく影響するようになった[1]。
独立した横川は、西塔と同じように独自の地主神を求め、聖真子(しょうしんし)を信仰するようになった[1]。聖真子の信仰は、既に、康保5年(968年)に認められるとされ、「聖真子」の名は法華経により、正統な仏法の後継者を意味するもので、神名であると同時に法号であり、日本古来の神々の系譜から切り離された独自のものとされるなど、神仏習合の最たるかたちを示しているとされる[1]。
ここに、良源の思惑により、大比叡神(東塔)・小比叡神(西塔)・聖真子(横川)の「地主三聖」が成立した[1]。
だが、円珍によって定められた「両所三聖」を信仰していた僧たちは、良源に導かれて成立した「地主三聖」の信仰に反発することとなった[1]。良源は「地主三聖」の信仰に反対する僧たちを僧籍から除名するなどし、後の山門・寺門分裂への流れを生み出していくこととなる[1]。
良源により「地主三聖」の信仰が定着するにつれ、「地主三聖」は徐々に「山王三聖」と呼ばれるようになっていった[1]。なお、「地主山王」と呼ばれた時期もあった[1]。「地主三聖」の語は三塔の存在を意識して、それぞれの「地主」を強調しているが、「山王三聖」の「山王」の語は、寺院というより、比叡山という山全体に関わる神を意識しているとされる[1]。
特に、正暦4年(993年)の叡山分裂以降、「山王三聖」の語は定着していったとされる[1]。なお、「山王三聖」の語が文献に現れた最初は、康保5年(968年)の太政官牒であるとされる[1]。
なお、円珍が個人的に祀った「山王(山王明神)」とは、円珍が実際に夢でお告げを受けたということから、確かに「実在」すると信じられた神を指したものであるが、良源の場合、「山王」の語には確かに実在するという重みはなく、ただ「地主三聖」の総称に過ぎず、抽象的な概念にとどまっていたとされる[1]。
天台宗が全国に広がる過程で、山王信仰に基づいて日吉社も全国に勧請・創建された。日吉(ひよし)神社・日枝(ひえ)神社、あるいは山王神社などという社名の神社は、日本全国に約3,800社ある。これにともない、日吉・日枝・比恵・山王・坂本などという地名が各地でみられる。
山王三聖には、本地仏として、大宮(大比叡神、東塔)に釈迦如来、二宮(小比叡神、西塔)に薬師如来、聖真子(横川)に阿弥陀如来が、それぞれ定められた。これらの本地仏が定着したのは、浄土教の影響により八幡神(聖真子と同一とされる)の本地仏が釈迦から阿弥陀に変わった11世紀以降と推定される[1]。本地仏の制定について、それぞれの由来には諸説があるが、定説といえるものはないとされる[1]。本地仏の制定は、日吉大社における、本格的な神仏習合の始まりであるともいわれる[1]。
やがて八王子(本地千手観音)、客人(本地十一面観音)、十禅師(本地地蔵菩醍)、三宮(本地普賢菩醍)を加えて山王七社(上七社)となすなど、総本山の威容を整え始めた。そして本地垂迹説によってさらに数を増し中七社、下七社を加えて「山王二十一社」と称した。
山王信仰は、「山王神道」とも呼ばれる信仰をも派生させた。山王神道では山王神は釈迦の垂迹であるとされ、「山」の字も「王」の字も、三本の線とそれを貫く一本の線からなっており、これを天台宗の思想である三諦即一思想と結びつけて説いた。また天台密教は、鎮護国家、増益延命、息災といった具体的な霊験を加持祈祷によって実現するという体系(使命)を持ち、山王にも「現世利益」を実現する霊威と呪力を高める性格を与えたようである。
中世に比叡山の僧兵が強訴のために担ぎ出した神輿は日吉大社のものである。
元亀2年(1571年)、織田信長の比叡山焼き討ちにより、日吉大社も灰燼に帰した。現在見られる建造物は、安土桃山時代以降に再建されたものである。
以下に現在の日吉神社の有力社殿(山王二十一社)を列記する。( )内は旧称。
なお江戸で「三大祭」として賑わったのは、山王祭(さんのうまつり)、神田祭、深川祭であるが、この山王祭は、徳川家康が江戸に移封された際に、同地にあった日吉社を城内の紅葉山に遷座し、江戸城の鎮守としたことに始まる。この社の由来は、太田道灌が江戸城築城にあたり、文明10年(1478年)に川越の無量寿寺(現在の喜多院)の鎮守である日吉社を勧請したのに始まるとされる。無量寿寺は平安初期の天長7年(830年)、淳和天皇の命で円仁(慈覚大師)が建立したとされる。ちなみに、この江戸の日吉社に日枝(ひえ)神社と名称が付けられたのは、慶応4年(明治元年)6月11日以降のことである。(神仏分離)
天台宗が全国に広がる過程で、山王権現も各地に勧請され、多くは天台宗の寺院の鎮守神とされた。明治の神仏分離の際に、仏教色を廃し寺院とは別れた。
社名については、「日吉」と書いて「ひえ」と読むもの、「日吉」と書いて「ひよし」と読むもの、「日枝」と書いて「ひえ」と読むものがある。
日吉神社(大崎市)[宮城県]
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