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『宋史』(そうし)は、中国の元代に編纂された正史(二十四史)の一つ。宋(北宋・南宋)を扱った紀伝体の史書である。至正5年(1345年)に完成。元の中書右丞相であったトクト(託克託・脱脱)が編纂した。16本紀47巻・15志162巻・2表32巻・197列伝255巻の計496巻。正史の中で最も膨大である。
『宋史』は他の正史と比較して、きわめて巻数が多く詳しいことが特徴である。北宋・南宋併せておよそ三百有余年であるが、ほぼ同年数存続した唐の正史(『旧唐書』200巻・『新唐書』225巻)に比べるとほぼ倍の巻数を有する。しかしその反面体裁に不備が多く、後世の史家たちの厳しい批判を受けざるを得なかった。これは以下の理由による。
この他に太祖から理宗まで15代の『実録』と度宗1代を扱った史料集『度宗時政記』があり、これに他の歴史資料を組み合わせて編纂されたと考えられている。
後世史家の『宋史』への批判は、単に体裁の不備にのみ寄せられたのではなく、イデオロギー的側面もあったことは念頭に置く必要がある。すなわち宋代以降、 朱子学的正統論が喧しくなるが、それは『遼史』・『金史』・『宋史』編纂方針にも向けられた。正統論を唱える者は、『宋史』のみが作られるべきであって、遼や金については外国志のレヴェルで十分という意見であり、三史それぞれ別に作ることに反対を唱えた。だが、前述のように元の宮廷内には遼や金の遺臣もおり、そのような批判が受け入れられることはなかった。また、元に降伏した恭帝を最後の皇帝として、南方に逃れた人々によって擁立された端宗・衛王(帝昺)を正式な皇帝と認めず本紀を立てなかったことも、朱子学者たちの激しい反発を呼んだ。
実際に元の支配が終わり、漢民族王朝である明代に入ると、柯維騏は『宋史新編』を著して、遼・金を「外国伝」に編入し、恭帝に従って元に降った高官達を「叛臣伝」に加えている。
また、『史記』以来儒学者のために立てられていた「儒林伝」とは別に朱子学者のために「道学伝」が立てられたり、北宋末期の新法・旧法の争いでは、王安石を除いた新法党政権の要人の多くが「姦臣伝」に入れられ、また金と講和した南宋の宰相秦檜も「姦臣伝」に加えられているのも、朱子学的イデオロギー者が強く反映された結果と言え、清代以後に彼らの業績を客観的に見る動きが登場すると、『宋史』の記述が旧法党や対金強硬派に偏っているとみなされるようになった。
『宋史』の不備を補うために、後代いくつも補遺・改訂の試みがなされた。さきに挙げた『宋史新編』の他にも、宋人の伝記に焦点を当てた陸心源の『宋史翼』や陳邦瞻の『宋史紀事本末』などがある。
『宋史』では日本は巻四百九十一、列伝第二百五十、外国七において「流求」国の少し後で触れられている。奝然が太宗に献上した『王年代紀』から引用して、天御中主から彦瀲尊まで23世と神武天皇から守平天皇(円融天皇)まで64世の系譜が述べられる。周の釐王の甲寅の年に神武天皇が即位したと記すが、『日本書紀』では即位は辛酉の年であり、甲寅は東征開始の年である。どちらも周の恵王の時代に当たる。聖徳太子が年3歳にして10人の言葉を聞き分けられたという逸話も紹介している。当時は歴代に加えられていなかった弘文天皇と淳仁天皇のうち、弘文天皇は記されていないが、淳仁天皇は「天炊天皇」と記し、神功皇后を「神功天皇」と記して歴代に加えているため、円融天皇を第64代とする現在の数え方と一致する。また日本が中国で滅失したものも含め多くの漢籍を蔵していることはこの頃から知られていたようで、「其國多有中國典籍」という記載も見える。記述は南宋の寧宗の嘉泰2年(1202年)の記事までで終わっている。
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