北宋の政治家 ウィキペディアから
趙 普(ちょう ふ、龍徳2年(922年)- 淳化3年7月14日(992年8月14日))は、北宋の政治家。字は則平。諡は忠献。幽州薊県(現在の北京市大興区)の人。北宋初期の宰相で宋朝建国の元勲。しばしば「学究」とあだ名された。
元は後周の下級役人に過ぎなかったが、当時義成軍節度使であった北宋の太祖趙匡胤の知遇を得て掌書記(書記官を掌握する職務)に迎えられ、ブレーンとなった。顕徳6年(959年)に世宗が急逝し、その後継者となった恭帝が幼少であったために軍部が動揺すると、趙匡義とともに陳橋の変を主導し、趙匡胤を擁立して北宋を建国した。
太祖からは左右の手と評されるほどの信頼と重用を受け、枢密使を経て乾徳2年(964年)には宰相となった。一時は翰林学士盧多遜の讒言を受けて失脚したが、再び宰相へ復帰し、淳化3年(992年)に致仕するまで在職した。
下級役人上がりで教養がないと批判されたが、「沈毅果断、天下を以って己が任と為す」といわれた冷静沈着な名宰相で、盛唐から五代十国時代にかけて戦乱の原因となった節度使の無力化や、文人の登用などを進言し、北宋・南宋合わせて300余年にわたる王朝の基礎を築いた立役者と言われる。
ただし、清廉潔白な人物とは言えず、御史中丞雷徳驤に強要・収賄を弾劾された際には、社稷の臣であることを理由に却下されている。子に趙承煦があった。
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