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大屋晋三
日本の政治家、実業家 (1894-1980) ウィキペディアから
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大屋 晋三(大屋 晉三[1]、おおや しんぞう、1894年〈明治27年〉7月5日[2][3][4][5][6] - 1980年〈昭和55年〉3月9日[7][5][6])は、日本の政治家、実業家。運輸大臣、商工大臣、参議院議員、帝人社長。戦前から戦後にかけて通算26年間にわたって帝人社長を務めた。妻は大屋政子。
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生涯
要約
視点
生い立ち
群馬県邑楽郡佐貫村大字川俣(現・明和町)に生まれた[2][8][4][5]。父・央(なかば)は佐貫村尋常小学校の校長をしていた[2][2][8]。母・ツネは埼玉県粕壁の本陣杉田家の娘[2]。大屋家は代々川越藩士で、祖父は大屋門平といって柔術を指南していた[2]。晋三が生まれた佐貫村大字川俣は館林から利根川の岸に沿う街道筋で、明治のはじめまでは宿場として本陣もあった[2]。
学生時代
1901年(明治34年)に尋常小学校に入学[2][5]。2年になった時に大輪と川俣との中間の須賀に本格的な小学校が新築されてここに移った[9]。高等小学校の2年になる時に父が永楽村(現在の千代田町)の尋常小学校長に転任し、居を永楽村大字舞木に移した[9][5]。
1907年(明治40年)、高等小学校を卒業[10]。従兄に当たる高山守衛が、前橋で歯科医師として成功していたことから、そこに書生として住みこんで、旧制前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に通うことになった[10]。2年で太田中学校邑楽分校(現・群馬県立館林高等学校)に転入し、3年間分校と本校(現・群馬県立太田高等学校)には裸足で通学した[11][4]。
中学校卒業後、父の世話で1912年(明治45年)4月1日から長柄村尋常高等小学校の代用教員となった[12]。代用教員は1年ほどでやめて上京し、東京高等商業学校(現・一橋大学)に入学した[13][8][4]。1918年(大正7年)、東京高等商業学校を卒業[14][15][4][5][6]。
帝人
1918年(大正7年)鈴木商店に入社[16][15][4][6]。外国駐在員などを務める[17][15][4][5]。この時期、のちに代議士となる藤原米造と組んで「立憲青年党」を立ち上げるなど政治運動にも手を出したが、資金面から本格的な転向には至らなかった[17][15]。1925年(大正14年)、金子直吉の命で帝国人造絹絲(現在の帝人)岩国工場建設所長として派遣される[18][19][4][5]。
岩国工場が稼働を始めた1927年(昭和2年)、鈴木商店は破綻する[19][4][5]。帝人は三原工場建設に伴い「第二帝国人造絹絲」を設立し、大屋はその取締役に抜擢された(社長は秦逸三)[19][4][5]。同社は1942年(昭和17年)に帝人に吸収合併される[19][4][5]。
その後常務を経て[4][5]、1945年(昭和20年)11月には帝人社長に就任した[6][5]。以後、政界に進出していた時期を除き1980年(昭和55年)の死去までの通算26年間にわたり社長を務めた[4][7][6]。
政界
1947年(昭和22年)参議院議員に当選[20][5]。1948年(昭和23年)には第2次吉田内閣で商工大臣に任命され、帝人社長から退任することとなった[20]。その後も大蔵大臣臨時代行や運輸大臣を歴任[21][5]。大蔵大臣臨時代行として1ドル360円の為替レートを決定した[20][4][5]。空席となっていた帝人社長には1949年(昭和24年)に森新治が就任した[21]。
1951年(昭和26年)、帝人会長であった久村清太が死去し、大屋はその跡を継いで帝人代表取締役会長となった[21]。1956年(昭和31年)の参議院議員改選を機に政界を離れ、帝人へと戻ることとなる[20]。
帝人復帰
1956年(昭和31年)11月、帝人社長に復帰[22]。合成繊維で東レに遅れをとっていた帝人に、イギリス・ICI社からの技術導入を進める[22][23][5]。「テトロン」の成功により帝人の業績は回復を遂げ、大屋の経営者としての手腕も高く評価されることとなった[22][7]。
大屋は外部の人材導入にも積極的であり、東京大学名誉教授の厚木勝基や九州大学教授の秋吉三郎を顧問としたほか、中小企業庁長官だった乙竹虔三も帝人に招いた[24]。
1960年代には石油化学、さらに石油資源開発事業にも進出を図る[4][5]。1968年(昭和43年)には帝人に未来事業部を設置してさらなる新規事業の開拓を試みた[25]。ボルボ車の販売、パピリオ化粧品の買収、さらにはブラジルでの牧場経営なども進められることとなった[26][4][5]。
死去
しかし、末期には行き過ぎた多角化が裏目に出たことと、高齢からくる経営能力の低下に加え妻の政子が経営に介入する[要検証]など、その弊害が目立つようになった。
社長在任中の1980年(昭和55年)3月9日、急性肺炎により死去[7]。死没日をもって勲一等旭日大綬章追贈、正三位に叙される[1]。妻と共に大阪市内の法得寺に眠る[要出典]。
なお、帝人においてはその後、2000年代前半まで大屋時代の無謀な多角化の事業整理とリストラに追われ(さらにその結果、リスクを避ける消極的な社風の蔓延という副作用も生んだ)、その後始末に目処が付いたのは大屋から数えると5人目の社長となる安居祥策の時代になってからである[要出典]。
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人物
栄典
- 日本
- 藍綬褒章(1960年)[7]
- 勲二等旭日重光章(1965年)[7][29][30]
- 勲一等瑞宝章(1971年)[31][7]
- 勲一等旭日大綬章(1980年、没後叙勲)[5]
- 正三位(1980年、没後贈位)[5]
- 外国
家族・親族
- 祖父・門平 - 大屋家は川越藩士の家系で、門平は柔術を指南していた[2]。
- 父・央(教育者) - 父は十人きょうだいの末っ子だった[2]。正規の学歴は持っていなかったが、漢学に対する素養だけは相当にあった[2]。後半生を片田舎の平凡な小学校教員として終ったが、明治十年代の初めには西園寺公の一党として、自由民権運動に加わったこともあった[2]。大屋によれば「父は物に屈託しないのんきな性格の男で、酒好きでおしゃれ、虚栄心が強く、安月給にもかかわらず気ぐらいは高かった」という[2]。
- 母・ツネ(埼玉県粕壁宿の本陣杉田家の娘[2]) - 母の父・定八は本来は邑楽郡佐貫村大字大輪の早川家の当主で、国元に妻子を残して出奔し、粕壁の杉田屋の婿に入り込み、母とその姉をもうけた[2]。その後また他に女をつくって、それに杉田屋の当主又八郎を生ませた[2]。この祖父は品川台場築堤の人夫3千人を率いる元締をしていたような豪傑で、母もその血を受けてか伝法なところがあった[2]。
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脚注
参考文献
外部リンク
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