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日本の彫刻家 ウィキペディアから
北村 西望(きたむら せいぼう、1884年(明治17年)12月16日 - 1987年(昭和62年)3月4日)は、長崎県出身の日本の彫刻家。本名は北村 西望(きたむら にしも)。
昭和を代表する彫刻家の一人。代表作に長崎平和公園設置の巨大像「長崎平和祈念像」[6]、国会議事堂内設置の「板垣退助翁」などがある[3]。文化勲章[3]・紺綬褒章受章者、文化功労者。日本彫刻会では西望の功績を称え、同会展覧会における最優秀作品に贈られる賞の名称を「北村西望賞」(西望賞)としている。
また、個人寄付により小中学生の教育美術振興を目的とした「北村西望賞基金」を設け[7]、これは2016年12月現在[update]、「北村西望賞教育美術展」として公募展の形で継続している[8]。
1884年(明治17年)12月16日、長崎県南高来郡南有馬村白木野[2]字宮野木場(現南島原市)の旧名家に生まれる[3]。父・陳連(のぶつら)、母・サイの四男で末子であった[10]。1892年(明治25年)に白木野尋常小学校に入り、1896年(明治29年)に有馬尋常高等小学校に進んで1900年に卒業すると、同年12月、小学校準教員免許を取得して南有馬尋常小学校に臨時採用(3ヵ月)され[注釈 1]、翌年、母校の白木野小学校に転じて、月給6円の代用教員兼準訓導として働くうち、正教員を目指して教職をやめると長崎師範学校に進む[10]。ところが入学した1902年(明治34年)に風土病にかかり、長期欠席のため退学となると帰郷して療養、このころ父の隠居所の欄間を彫る[10]。天満神社の神官に京都の美術学校で学ぶよう勧められて入学を志す[10]。
病気退学して療養中に彫った欄間3面[11]を褒めた家族[12][13]と天満神社神官の勧め[10]で、1903年(明治36年)改めて京都市立美術工芸学校彫刻科(現京都市立銅駝美術工芸高等学校)に入学[2]、補欠であった[10]。彫刻とは木を彫ることだと捉えていた頃、生涯の最愛の友でライバルの建畠大夢と出会う[10]。1907年(明治40年)に同校を首席卒業し、同年東京美術学校彫刻科に進む[2]。
東京美術学校時代は1908年(明治41年)開催の第2回文展出品作「憤闘」が初入選、以後1909年(明治42年)第3回文展「雄風」褒状、翌々年1911年(明治44年)第5回文展「壮者」も褒状を受賞[2]。1912年(明治45年)、同校を首席で卒業した[2]。
1915年(大正4年)第9回文展「怒涛」が二等賞となり、翌1916年(大正5年)第10回文展出品作「晩鐘」が特選を受賞、以後1917年(大正6年)第11回文展「光にうたれた悪魔」が無鑑査となる[2]。この1917年より西望は東京市滝野川区(現・東京都北区 [9])に居を構え、制作につとめた。
文展が帝展に改まった[14]1919年(大正8年)第1回帝展以降は審査員を務めた[2]。同年、曠原社(こうげんしゃ)を結成した[2][9]。
1921年(大正10年)より母校の東京美術学校教授に就任[注釈 2]、翌1922年(大正11年)には彫刻研究のため西ケ原彫刻研究所を開設した[2][9]。
1925年(大正14年)には帝国美術院会員となっており(40歳)、1933年(昭和8年)からは東邦彫塑院顧問を務めた[2]。
戦前の作品は、「児玉源太郎大将騎馬像」「山県有朋元帥騎馬像」など勇壮な男性像かつ戦意高揚を意図した作品を多く手がけた[2]。西望が指導し、石原昂ら7人の彫刻家「報国芸術会」によって制作された戦没者7点[注釈 3]の胸像が1939年3月19日、遊就館に献納されている[15]。このほか、大政翼賛会の会合にも芸術界の代表者として参加している[16]。
戦後になると西望の彫刻モチーフは平和、自由、宗教に変化し、そういった作品を多く制作し日展に出品した[2]。
西望の代表作でもある長崎平和祈念像は青銅製高さ10メートル弱の巨大男性像[17]であり、長崎市の委嘱を受けて1951年(昭和26年)より4年の歳月を費やし[2]、公費で足りない制作費を内外からの浄財3千万円でまかない作成した。1955年(昭和30年)に完成し同年8月8日、長崎平和公園に設置されている[18]。
この他にも、西望は長崎原爆のみならず広島原爆の被害を受けた広島市の市民に対しても「飛躍」や平和観世音菩薩像など多くの平和祈念像を制作している[2]。
1947年(昭和22年)より日本芸術院会員、1949年(昭和24年)日展理事[19]、1958年(昭和33年)日本芸術院選考委員[20]、1962年(昭和37年)より日本彫塑会名誉会長、1969年(昭和44年)日展会長に就任、1974年(昭和49年)日展名誉会長[2]。
1953年(昭和28年)に戦前より長く住んだ東京都北区から東京都武蔵野市に転居し、都立井の頭公園内に自身のアトリエを建立[2]、後に東京都にアトリエと制作した約350点にのぼる自作品を寄贈[21]、それらは井の頭自然文化園彫刻館で展示された[2]。なお、西望が寄贈した作品はその後も増加、最終的に約500点となっている[2]。
1986年(昭和61年)12月より風邪を患い自宅静養していたものの翌1987年(昭和62年)3月4日、西望は心不全のため東京都武蔵野市の自宅で没した。102歳没[2]。墓所は台東区寛永寺第三霊園。
西望の「平和を祈る」像は1987年(昭和62年)1月、東京都板橋区役所新庁舎前に設置され、生前に公開された最後の作品(絶作)である[2]。
各自治体(武蔵野市・島原市・南島原市・東京都北区・長崎県)は「初」の名誉市民・県民に選んだ。
島原市、1974年。
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