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加藤 大治郎(かとう だいじろう、1976年7月4日 - 2003年4月20日)は、埼玉県浦和市(現在:さいたま市浦和区)出身のオートバイロードレーサー。2001年のロードレース世界選手権250ccクラスチャンピオン。血液型A型。
加藤 大治郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
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ワイルドカードで参戦した1998年日本GPでのウィニングラン | |||||||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | 日本 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 |
1976年7月4日 埼玉県浦和市(現在のさいたま市浦和区) | ||||||||||||||||||||||||||||||||
死亡年月日 |
2003年4月20日 (26歳没) 三重県四日市市(三重県立総合医療センター) | ||||||||||||||||||||||||||||||||
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愛称は「加藤くん」「大ちゃん」「大治郎くん」「大治郎」である。本項では以下において加藤と表記する。
3歳の誕生日に両親からポケットバイクをプレゼントされたことをきっかけに[1]、5歳時にポケバイでレースに初出場[1]。自宅近くのサーキット秋ヶ瀬に通うことになる[1]。武田雄一、亀谷長純、阿部典史といった後のロードレースライダーが秋ヶ瀬に集っており、加藤は彼らと競うことで腕を磨いていった。秋ヶ瀬のオーナーの息子であり、後にフォーミュラ・ニッポン(現在の全日本スーパーフォーミュラ選手権)チャンピオンとなる本山哲を兄のように慕っていた。
11歳のときにミニバイクレースにステップアップ、連戦連勝を誇った。
1992年に、ロードレースデビューを果たす[1]。16歳で普通自動2輪の免許とロードレースライセンスを取得した加藤は、1993年に九州・熊本に本拠地を置くホンダ系名門レースチーム「Team高武」に加入した。九州選手権の3クラス(GP250・GP125・SP250)で出場した全てのレースで優勝し、3クラス全てでチャンピオンを獲得。関東選手権、鈴鹿選手権でも勝利を重ねた。同チームの先輩に柳川明、宇川徹、同年代に玉田誠、後輩に中冨伸一、清成龍一らがいる。
当時高校生であった加藤は、同じ関東出身でありながら熊本の高校に進学した宇川や高校中退して加入した愛媛出身の玉田とは異なり、レースの度に住んでいた埼玉と熊本を飛行機で往復していた。両親の方針もあり、レースがあるからといって高校を休むことはなかったという。
1994年、2階級の特別昇格により国際A級ライセンスを取得した[1]。Team高武から全日本ロードレース選手権GP250クラスにフル参戦。使用マシンはHRCキットパーツも組み込まれていない[2]ホンダ・RS250Rであった。転倒が相次ぐシーズンであったものの、終盤のTIサーキット英田(現:岡山国際サーキット)戦で初優勝を遂げる。阿部典史がヤマハに移籍し、起用できなくなった事による代役としてチームHRCからRVF/RC45を使用し鈴鹿8時間耐久ロードレースに初参戦。辻本聡とのペアで挑むもマシンが炎上し、さらにスペアマシンがなかったためリタイアに終わる。
1995年、前年の活躍を受けてHRCよりワークスマシンのホンダNSR250(最新モデルではなく型落ちモデル)を貸与される。2勝を上げ年間ランキング5位。この戦績からホンダより最新ワークスモデルのNSR250を貸与された1996年には4勝で年間ランキング2位。ロードレース世界選手権の日本GP(鈴鹿)にスポット参戦、3位に入る。
1997年、ホンダワークスチームのカストロール・ホンダに加入、チャンピオン候補の筆頭となった[1]。しかし全日本開幕戦の週の木曜日であった3月13日[3]、父親が所有するワンボックスカーを運転した際に当時居住していた埼玉県浦和市内で交通事故を起こし、加藤は衝突した際に車外に投げ出され、右足大腿転子骨を骨折しさらに頭部を7針も縫う大けがを負った。当時居住していた浦和市内の病院に入院した[4]加藤は、その週に鈴鹿で開催される予定であった全日本開幕戦を欠場し、スポット参戦予定であった日本GPへの参戦も「ダメかもしれない」と鈴鹿への移動の前に見舞いに来た武田に報告する[4]ほど危ぶまれたが、大治郎は欠場を促す主治医を「絶対に勝つから」と説得し、浦和の病院から転院した鈴鹿の病院からサーキットに通う形で、骨折を抱えた体で日本GPに臨んだ。予選3位からスタートし、ホンダとチーム高武の先輩でGPレギュラーの宇川、1993年GP250クラス世界王者の原田哲也とトップ争いを繰り広げ、最終ラップの最終コーナーでトップに立ち優勝。全日本選手権でも8勝を挙げ、初の全日本チャンピオンに輝いた[1]。幼なじみの武田とコンビを組み、チーム国光・HSCとして往年のホンダ・ロードレーサーRCカラーで参戦したこの年の鈴鹿8耐でもダンロップ製のQタイヤが効果を発揮し、台風9号の影響でスペシャルステージが中止されたことから規定によりポールポジションを獲得したが、決勝では台風の影響で2度転倒し、9位に終わった。
チャンピオンとして臨んだ1998年、HRCがNSR250をフルモデルチェンジしたものの、熟成が進まず、加藤のみならず世界選手権でも従来の1軸V型2気筒エンジンを継続したRS250やRSのエンジンに独自設計のフレームを組み合わせて参戦していたテクニカルスポーツ(現:TSR)やエンデュランスを除いてホンダGP250勢は不振に陥った。その中でもヤマハ勢の中野真矢、松戸直樹とのバトルを制して日本GPを連覇し、レース後には「今までのレースで一番嬉しい優勝」と語り、改めてその才能を世界にアピールした。しかし、この年の全日本選手権では1勝も挙げることなく、筑波の決勝で鎖骨を骨折しリタイアした後に復帰したものの、9月に行われたTIサーキット英田でのテスト時に指の腱を切断したことで入院し[5]、手術をしたことでTIサーキット英田と最終戦スポーツランドSUGOでのMFJグランプリの2戦もリタイアとなった。最終的に、このシーズンのリタイアは筑波で行われた全てのレースと8月のMINEサーキット、9月の鈴鹿と4度あったことから、ランキング8位に低迷してしまう。また、最終戦のスポーツランドSUGOでのMFJグランプリ戦では代役としてホンダエンジンユーザー勢で唯一全日本で勝利した玉田が代役としてHRCからNSRを貸与されている[6]。またこの年の鈴鹿8耐ではメインスポンサーにラッキーストライクが付いた他は前年と同じ体制でチーム国光・HSCから参加したが、2位走行中にヘアピンの先でチェーンが切れ、切れたチェーンが各部を暴れた際にマシンへのダメージが大きくリタイアとなった。
前年の苦悩を繰り返すまいと、1999年はNSR250の開発に尽力した。ヤマハ・YZR250を駆る松戸とのタイトル争いでは、後半戦に4連勝と巻き返したが、最終的に松戸とポイント・勝利数・上位順位獲得回数で並び、レギュレーションによって前年のランキングが上位であった松戸にチャンピオンの座を奪われた。この年の鈴鹿8耐はワークスのチームHRCではなく、サテライトのチーム高武と桜井ホンダの合同チームから盟友の玉田誠と組んで参戦。雨の影響で加藤が転倒し、その際に東コースショートカットの1周減算のペナルティと修理のため優勝こそ逃したが、それまでは優勝した岡田とバロスのマシンと優勝を争っていた。
2000年、ロリス・カピロッシが報酬を巡って交渉決裂しチームを離脱[要出典]で開いた穴を埋める形でイタリアに本拠地を置くグレシーニ・レーシングに加入し、GPライダーとしてロードレース世界選手権GP250クラスにフル参戦する。第3戦日本GP(鈴鹿)で宇川や中野との三つ巴戦を制してシーズン初勝利[7]、シーズン終盤にも3勝を挙げ計4勝、ランキング3位[1]。第15戦パシフィックGP(ツインリンクもてぎ)では、ヤマハの中野とファステストラップの応酬によるハイレベルなトップ争いを展開し優勝。この年の鈴鹿8耐には宇川と組んで出場し、最多周回記録を更新しての初優勝[1]。表彰台では宇川とともにツナギを脱いでファンにプレゼントした。
GP2年目の2001年、前年チャンピオンのオリビエ・ジャックをはじめ中野、宇川らランキング上位ライダーがGP500クラスにステップアップし、GP250クラスでは加藤の独擅場かと思われたが、前年までGP500に参戦していたアプリリアの原田と一騎討ちとなる。開幕4連勝でダッシュをかけた加藤に対し、原田は2位に入ることが多く、大治郎の落としたレースを拾ってなんとか喰らいついている状態であった。徐々に2人のポイント差は広がり、第15戦マレーシアGPで大治郎は自身初の世界チャンピオンに輝く。最終戦リオデジャネイロGPも勝利し、GP250クラスの年間最多勝記録に並ぶ11勝を挙げ、チャンピオン獲得に華を添えた[8]。翌年、この功績を称え、文部科学省から「スポーツ功労者顕彰」が贈られた[8]。
2002年、最高峰クラスにステップアップ。最高峰クラスはこの年から「MotoGPクラス」と名称が変わり、それまでの2ストローク500ccマシンに加え、4ストローク990ccマシンが参戦できるようになった。前年チャンピオンのバレンティーノ・ロッシの乗るホンダ・RC211Vなど、4ストロークマシンの多くは加藤の乗るホンダ・NSR500をはじめとする2ストロークマシンの能力を大きく上回り、ほとんどのレースにおいて2ストロークマシン勢は優勝争いに加わることは無かった。それでも、スペインGPでは2ストローク勢としてのシーズン最上位成績となる2位を獲得するなど活躍し、第10戦チェコGPからレプソル・ホンダが前半戦に使用していた型落ちのRC211Vを供給されるに至る[1]。チェコGPでいきなり2位に入り、ラムエア加圧仕様のRC211Vを供給されたパシフィックGPではポールポジションを獲得。MotoGPクラス初優勝が期待されたがリタイアに終わり、それ以降も優勝できないまま2002年シーズンを終えた。
2002年シーズンにおいて、体の小さい加藤は大きくパワーのあるRC211Vを扱いきれなかったことから、翌2003年には初優勝を遂げるべく、オフシーズン中に肉体改造に取り組んだ。ウィンターテストにも熱心に取り組み、王者ロッシも最大のライバルとして大治郎の名を挙げた。また、ホンダからもその期待の表れとして、ワークスのレプソル・ホンダ以外のチームでは唯一、ファクトリースペックのRC211Vを供給されている。
周囲から期待されてスタートした2003年シーズン開幕戦の日本GP(鈴鹿サーキット)で、予選は好調といえない状態で11位。4月6日の決勝ではまずまずのスタートを切り、4位争い集団につけていた。しかし3周目、130Rの立ち上がりでマシンが左右に激しく揺さぶられてコントロールを失い、立て直そうと試みたもののその先のシケインのスポンジバリアに激突した。コントロールを失ってから激突までわずか2秒程であった。大治郎はヘリコプターで三重県立総合医療センター[9]に搬送され、意識不明の状態が2週間続き、4月20日午前0時42分、脳幹梗塞のため死亡した[9][10]。26歳没。墓所は東京都渋谷区神宮前の妙円寺。
同年5月18日、ホンダ青山本社ビルにおいてお別れの会が催され、約9,000人のファンが献花に訪れた[11]。
同年10月、MotoGP殿堂入り。パシフィックグランプリが行われるツインリンクもてぎにてセレモニーが行われた[12]。殿堂入りは史上16人目で、日本人としては初である。また、使用していたゼッケンナンバー「74」が永久欠番に指定された[13]。
2004年5月8日、イタリア・ミサノ市で、ミサノ・サーキットのメインゲートに通じる新しい道路が完成し、大治郎を称えて「viale daijiro kato」(加藤大治郎通り)と命名された[14][15]。
ホンダは2003年4月25日に社外第三者による事故調査委員会を設立し、事故原因の調査を依頼し[16]、10月28日に調査結果報告会が行われた[17]。関係者への聞き取り調査、画像データや車載計測装置の記録などを解析した結果、車両の機能面の異常はなかったと判断し、「ライダーの車両操作」「サーキットのレイアウト変更」「バリアの設置方法の不備」といった要因が複合して事故が発生した、と報告した[18]。
鈴鹿サーキットは事故のあった2003年シーズン開幕前に、安全性向上のため130Rからシケイン・最終コーナーまでの区間の大幅な改修工事を行った。高速の130Rは85Rと340Rの複合コーナーに変更され、外側のランオフエリアが拡張(名称は130Rのまま)[19]された。シケインは65m手前に移設され、そこを通過したあと最終コーナー寄りにクランク状の2輪用シケインが追加された(通称「ダブルシケイン」)[20][21]。その結果、130R出口の速度がMotoGPマシンでは20km/h速くなりつつ、シケインまでの距離は短くなり、ライダーは高速でマシンを切り返しながら減速することが必要になった[18]。大治郎にとって鈴鹿は走り慣れたホームコースであったが、開幕前テストを海外で行っていたため、改修されたコースを走るのは日本GPが初めてであった。
決勝レース3周目、4位集団のうち3台が裏ストレートから並走する状態で85Rに飛び込み、イン側をとった大治郎は深いバンク角を保ちながら340Rを通過。シケインに向けてブレーキングを開始すると、後輪の横滑りが発生した。フロントブレーキをかけ足しながら切り返しを行うが、この操作で軽いハイサイドを起こし、身体を支えるためハンドルの左側を強く握り、後輪の接地荷重を増すためフロントブレーキを緩めた。その修正動作の結果、車体に左右1.2Gという強いウィーブモード(二輪車固有の振動現象)が発生し、ライダーが左側に振り落とされ、ハンドルにしがみつく状態でコントロールを失い、約170km/hでコース左側のランオフエリアに飛び出した[18]。
シケインへのエントリー部分は県道643号線をまたぐ跨道橋の上にあり、ランオフエリアの幅が一段と狭くなっている。大治郎は車両とともにコース脇に並べられたタイヤバリアに浅い角度でぶつかり、それを擦りながら進んだが、それに続くスポンジバリアの側面に埋まり込み、反動で跳ね上げられた結果、頸椎損傷のダメージを受けたと判断された。タイヤバリアとスポンジバリアのつなぎ目には120cmの隙間があり、その隙間が無ければスポンジバリアの側面に衝突することはなく、受傷の形態は違っていたものと思われる[17]。
5月に行われた全日本選手権でもシケインで接触や転倒が増加したことから、鈴鹿サーキットは6月にシケインの再改修を行い、ダブルシケインを廃止した。既設シケインを四輪用とし、それよりも奥に新たに二輪用のシケインを設置した[22]。
翌2004年鈴鹿サーキットでの日本GP開催は断念され、2000年からツインリンクもてぎで行われていたパシフィックグランプリを2004年以降、1999年と同じように日本GPとして開催することになった。
また、2000年シーズンオフまで大型自動二輪車運転免許証を取得していなかった。
シーズン | クラス | マシン | チーム | 出走数 | 優勝回数 | 表彰台数 | PP | FL | ポイント | ランキング |
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1996年 | 250cc | ホンダ・NSR250 | Team高武 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 16 | 23位 |
1997年 | カストロール・ホンダ | 1 | 1 | 1 | 0 | 0 | 25 | 19位 | ||
1998年 | 1 | 1 | 1 | 1 | 0 | 25 | 20位 | |||
1999年 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 11 | 20位 | |||
2000年 | アクソ・ホンダ・グレシーニ | 16 | 4 | 9 | 3 | 1 | 259 | 3位 | ||
2001年 | テレフォニカ・モビスター・ホンダ | 16 | 11 | 13 | 6 | 9 | 322 | 1位 | ||
2002年 | MotoGP | ホンダ・NSR500 ホンダ・RC211V | フォルトゥナ・ホンダ・グレシーニ | 16 | 0 | 2 | 1 | 1 | 117 | 7位 |
ホンダ・RC211V | ||||||||||
2003年 | テレフォニカ・モビスター・ホンダ | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | - | ||
合計 | 53 | 17 | 27 | 11 | 11 | 775 |
年 | クラス | マシン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 順位 | ポイント |
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1996年 | 250cc | ホンダ | MAL - |
INA - |
JPN 3 |
ESP - |
ITA - |
FRA - |
NED - |
GER - |
GBR - |
AUT - |
CZE - |
IMO - |
CAT - |
BRA - |
AUS - |
23位 | 16 | |
1997年 | MAL - |
JPN 1 |
ESP - |
ITA - |
AUT - |
FRA - |
NED - |
IMO - |
GER - |
BRA - |
GBR - |
CZE - |
CAT - |
INA - |
AUS - |
19位 | 25 | |||
1998年 | JPN 1 |
MAL - |
ESP - |
ITA - |
FRA - |
MAD - |
NED - |
GBR - |
GER - |
CZE - |
IMO - |
CAT - |
AUS - |
ARG - |
20位 | 25 | ||||
1999年 | MAL - |
JPN 5 |
ESP - |
FRA - |
ITA - |
CAT - |
NED - |
GBR - |
GER - |
CZE - |
IMO - |
VAL - |
AUS - |
RSA - |
BRA - |
ARG - |
20位 | 11 | ||
2000年 | RSA 2 |
MAL 3 |
JPN 1 |
ESP 2 |
FRA 6 |
ITA 3 |
CAT 4 |
NED 8 |
GBR 10 |
GER 4 |
CZE 6 |
POR 1 |
VAL 5 |
BRA 1 |
PAC 1 |
AUS 3 |
3位 | 259 | ||
2001年 | JPN 1 |
RSA 1 |
ESP 1 |
FRA 1 |
ITA 10 |
CAT 1 |
NED 11 |
GBR 1 |
GER 2 |
CZE 3 |
POR 1 |
VAL 1 |
PAC Ret |
AUS 1 |
MAL 1 |
BRA 1 |
1位 | 322 | ||
2002年 | MotoGP | JPN 10 |
RSA 4 |
ESP 2 |
FRA Ret |
ITA Ret |
CAT 8 |
NED 12 |
GBR 7 |
GER Ret |
CZE 2 |
POR Ret |
BRA Ret |
PAC Ret |
MAL 5 |
AUS 4 |
VAL 4 |
7位 | 117 | |
2003年 | JPN Ret |
RSA - |
ESP - |
FRA - |
ITA - |
CAT - |
NED - |
GBR - |
GER - |
CZE - |
POR - |
BRA - |
PAC - |
MAL - |
AUS - |
VAL - |
- | 0 |
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