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井田 譲(いだ ゆずる、1838年11月8日(天保9年9月22日[1]) - 1889年(明治22年)11月29日[1])は、日本の大垣藩士、陸軍軍人、官僚、外交官。最終階級は陸軍少将。元老院議官[1]・正三位・勲一等・男爵。字・子載、通称・五蔵[2]。号・雷堂、梧窓[2]。
大垣藩儒・井田徹助(藤右衛門)の長男として生まれる[2][3]。安井息軒に学ぶ[3]。大垣藩では、藩主侍講、砲術教授方、評定役、京都留守居役などを勤め、第2次長州征討に出征した[3]。その後鳥羽・伏見の戦いに従軍[2][3]。
1868年、新政府に出仕し軍務官判事試補となる。徴士・軍務官権判事、会計官権判事、造幣局知事、生野県権知事、生野県知事、久美浜県知事、長崎県知事、大蔵大丞、兵部大丞、福岡藩知参事などを歴任し、1871年、陸軍少将となった[2][3][4][5]。
鎮西鎮台出張、陸軍省秘史局長、福州在勤領事、上海在勤総領事を経て、1874年2月、陸軍に復帰[2][3][4][5]。広島鎮台司令長官、陸軍省第1局長、同第4局長、兼同第1局長などを歴任し、西南戦争に出征した山縣有朋の代理として陸軍卿代理となる[2][3][4][5]。広島鎮台司令長官などを経て、1880年3月、再び外交官となる[3][4][5]。オーストリア在勤特命全権公使、フランス在勤を経て、1883年4月に帰国した[2][3][5]。同年9月19日に元老院議官に就任[2][3][5][6]。後に北白川宮別当を兼任(1886年3月11日[7]~1887年11月4日[8])。その死の直前、1889年11月22日に男爵を叙爵し華族となる[1][3][5][9]。
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