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日本の冶金学者 ウィキペディアから
三島 徳七(みしま とくしち、1893年(明治26年)2月24日[1] - 1975年(昭和50年)11月19日)は、日本の冶金学者。アルニコ磁石を発見し、その一つとしてMK鋼の発明者として知られる。東京大学名誉教授[1]。文化功労者。勲一等旭日大綬章追贈。
1893年(明治26年)、兵庫県津名郡広石村下組(現:洲本市五色町広石下)の農家である喜住甚平の5男として生まれる[1][2][3][4]。1907年(明治40年)に広石尋常高等小学校を卒業した後、独学で学び1911年(明治44年)に立教中学校への編入試験の末、同校に入学した[3]。その後、旧制第一高等学校を経て、1920年(大正9年)、東京帝国大学工学部冶金学科を卒業した。同年に三島通良と養子縁組し娘の三島二三子と結婚して三島姓となっている[3]。同大学の助手、講師を経て翌年に助教授へと進んだ[2][5]。1922年(大正11年)のころより後藤正治と共同でアルミニウムの二元・三元合金の状態図作成の研究を続け、1928年(昭和3年)に「ニッケル及びニッケル鋼合金の焼鈍脆性」の研究で工学博士の学位を取得した[2]。
1930年(昭和5年)、鉄‐ニッケル合金の磁気非可逆性について究明する中で、鉄にニッケルを加えたニッケル鋼は磁石とならないが、この合金にアルミニウムを加えることにより強大な永久磁石となることを発見した[2]。これにコバルトや銅を加えるなどの改良の末、1934年(昭和9年)6月23日に、強磁性合金を発明して特許を取得した[1][2][6](96371号)。徳七はこの合金を三島と旧姓である喜住の頭文字からMK鋼と名付けた[1]。MK鋼は発電機、通信機、スピーカーなど様々な用途で使われ、世界で使われる永久磁石の8割を占めるまでになった[1]。アルミニウム・ニッケル・コバルト系永久磁石は現代でもアルニコ磁石として頻繁に使われており、MK鋼はその先駆けとなった[7]。1938年(昭和13年)、東京帝国大学工学部冶金学科教授に就任した[4]。徳七の発明は評価され、1949年(昭和24年)に日本学士院会員を拝命し、1950年(昭和25年)に文化勲章を受章した[1]。1953年(昭和28年)に東京大学を退官し、同名誉教授となっている[1][7]。
東京大学教授退官前後から、日本鋳物協会会長、日本シェルモールド協会会長、綜合鋳物センター会長、新技術開発事業団開発審議会会長、日本鉄鋼協会会長、日本金属学会会長、日本学術会議会員など各種機関の重要な位置を歴任し[1][4]、1975年(昭和50年)11月19日に東京で没した[1][5]。墓所は東京都府中市の多磨霊園にある。1985年(昭和60年)には工業所有制度百周年記念行事委員会より日本の発明家10傑の1人に選ばれている[1]。
1917年にKS鋼を発明した東北帝国大学の本多光太郎は磁石開発における競争相手であった。KS鋼に比べ、MK鋼は材料価格も安く、製造費用を抑えることができ、また、KS鋼の倍の500エルステッド以上の保磁力を有していた[8]。本多は、1934年にMK鋼を上回る新KS鋼を開発し、MK鋼とほぼ同水準の材料を作りあげている。
長男は三島良績(元東京大学工学部原子力工学科教授)[3]、孫は三島良直(日本医療研究開発機構理事長、元東京工業大学学長)[9]。
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