ヴィクトル=マリー・ユーゴー: Victor-Marie Hugo[3] [viktɔʁ maʁi yɡo] ( 音声ファイル)1802年2月26日 - 1885年5月22日)は、フランスロマン主義詩人小説家七月王政時代からフランス第二共和政時代政治家。『レ・ミゼラブル』の著者として著名。

概要 ヴィクトル・ユーゴー フランス子爵 (1845–48), セーヌ県選出の元老院議員 ...
ヴィクトル・ユーゴー
フランス子爵 (1845–48)
Thumb
Étienne Carjatによるウッドベリータイプ、1876年
セーヌ県選出の元老院議員
任期
1876年1月30日  1885年5月22日
選挙区パリ
セーヌ県選出の国民議会議員[1]
任期
1871年2月16日[1]  1871年3月8日[2]
選挙区パリ
セーヌ県選出の代議院議員
任期
1848年4月24日  1851年12月3日
選挙区パリ
アカデミー・フランセーズ席次14
任期
1841年1月7日  1885年5月22日
前任者ネポミュセーヌ・ルメルシエ
後任者シャルル・ルコント・ド・リール
個人情報
生誕ヴィクトル=マリー・ユーゴー
(1802-02-26) 1802年2月26日
フランス共和国ドゥー県ブザンソン
死没 (1885-05-22) 1885年5月22日(83歳没)
フランスの旗 フランス共和国 パリ
墓地パリ、パンテオン
国籍フランスの旗 フランス
政党秩序党 (Parti de l'Ordre)フランス語版(1848–51)
無所属リベラル派 (Libéraux Indépendants) (1871)
共和連合 (Union républicaine)フランス語版(1876–85)
配偶者
アデール・フシェ
(m. 1822; d. 1868)
子供
  • レオポール・ヴィクトル・ユーゴー
  • レオポルディーヌ・ユーゴー
  • シャルル・ユーゴー
  • フランソワ=ヴィクトル・ユーゴー
  • アデール・ユーゴー
教育リセ・ルイ=ル=グラン
職業小説家
詩人
政治家
ジャンル 小説, 演劇,
文学活動 ロマン主義
代表作 『エルナニ』(1830年、戯曲)
ノートルダム・ド・パリ』(1831年)
『静観詩集』(1856年)
レ・ミゼラブル』(1862年)
九十三年』(1874年)
活動期間 1829–1883
署名 Thumb
ウィキポータル 文学
テンプレートを表示
閉じる

少年時代から文学者を志し、『東方詩集』などでロマン詩人の中心的存在となった。政治にも関心を持ち、ナポレオン3世のクーデターに反対して亡命生活を送った。この間に『静観詩集』などと大作『レ・ミゼラブル』を完成。その死は国葬をもって遇された。

1959年から1965年まで発行されていた5フラン紙幣に肖像画が採用されていた。

日本での「Hugo」の表記は、「ユーゴー」と「ユゴー」が併用されているが、ここでは「ユーゴー」を採用する。

生涯

出生から青年期まで

私生活

共和派ナポレオン軍の軍人ジョゼフ・レオポール・シジスベール・ユーゴー[注 1] とソフィー=フランソワーズ・トレビュシェ[注 2] の三男として、父の任地だったフランス東部のブザンソンで生まれた。ユーゴー家はロレーヌの農民の出だが、父親はフランス革命以来の軍人。母親はナントの資産家の娘である[4]。アベル・ジョゼフ[注 3] とウジェーヌ[注 4] という2人の兄がいる。

生まれたときは小柄で、背丈が包丁ほどしかなく、ひ弱な赤ん坊だったといわれる。生後6週間目に一家はマルセイユへ転居した。以降、コルシカ島バスティアエルバ島ポルトフェッラーイオパリナポリマドリード、と主に母親らとともにヨーロッパのあちこちを転々とする。というのも、生粋のボナパルト主義の父ジョゼフ・レオポールと根っからの王党派の母ソフィーの間で政治思想の違いによる確執が生じ、それが夫婦の間に不和をもたらしていたのである。この確執はのちに『レ・ミゼラブル』の、マリユスの父ポンメルシー大佐とマリユスの祖父ジルノルマンの確執の原型となる。いずれにせよ、生まれたときの状態や長きにわたる父親不在の生活のおかげで、マザーコンプレックスが非常に強かった。

1812年、母と次兄ウジェーヌと一緒に再びパリに帰る[注 5]1814年、次兄ウジェーヌとともにサン・ジェルマン・デ・プレ教会[注 6] の近くの寄宿学校に入る。その間にナポレオンによる帝政が完全に終わりを告げ、父ジョゼフ・レオポールはスペイン貴族の地位を剥奪され、フランス軍の一大隊長に没落してしまう。彼は寄宿学校に4年とどまるものの、最後の2年はリセ・ルイ=ル=グラン[注 7] にも通った。父親は彼を軍人にするつもりだったが、本人は詩作に夢中で[4]1816年7月10日には詩帳にこんな言葉を残している。

――シャトーブリアンになるのでなければ、何にもなりたくない。

17歳でアカデミー・フランセーズの詩のコンクールで一位を取り、自ら詩の雑誌も発行した[4]。母ソフィーはヴィクトルの才能を認め、文学での成功を期待していたが、幼馴染であり恋人であったアデール・フシェ[注 8] との結婚には猛反対していた。彼は18歳のときから始めた文通を翌年に再開する。しかし、その年(=1821年6月27日に母ソフィーが他界する。ユーゴー一家に二度と娘を逢わせないと誓っていたアデールの両親も、彼の情熱に折れてしまい、結婚を了承した。同年10月12日、アデールとサン・シュルピス教会[注 9] で結婚し、ル・シェルシュ・ミディ通り[注 10] に居を構えるに至る。1822年には、『オードと雑詠集』によって国王から年金をもらえることになり、ロマン派の旗手として目覚ましい活躍を始める[4]

1823年7月16日、長男レオポール[注 11] が誕生する。すべてが順風満帆に見えたが、同年10月9日にひ弱だったレオポールが亡くなってしまう。翌年の1824年8月28日に生まれた長女にはレオポルディーヌ[注 12] と命名する。

1825年4月29日、23歳という若さでレジオンドヌール勲章(シュヴァリエ、勲爵士)を受ける。同年5月29日にはランスで行われたシャルル10世聖別式にも参加した。こうして少しずつ名誉が与えられてゆく中で、少年時代は疎遠であった父ジョゼフ・レオポールとの仲も親密になっていった。愛する父のために、それまで疎んじてきたナポレオンを讃える詩を書いたところ、これをきっかけにナポレオンを次第に理解し、尊敬するようになる。さらに、聖別式でウィリアム・シェイクスピアのフランス語訳詩を耳にしたことで、シェイクスピアを尊敬するようになる。

1826年11月2日には次男シャルル[注 13] が生まれ、創作熱も加速していくが、1828年1月28日、パリで父ジョゼフ・レオポールが他界する。しかし、悲しみにくれる一方で朗報もあり、同年10月31日、父の才能を受け継いだ三男フランソワ=ヴィクトル[注 14] が誕生する。

1830年4月、ジャン・グジョン通り[注 15] へ転居する。そこで七月革命の混乱が押し寄せる。たとえルイ18世から年金を貰っていた身分であっても、七月革命に参加していたのは『エルナニ』でともに文学革命に参加した仲間であったため、己に危害が加えられる心配はなかった。

そんな混乱のなか、同年7月28日、次女アデール[注 16] が誕生する。

創作

1819年2月、トゥルーズのアカデミー・デ・ジュー・フロロー[注 17] のコンクールに詩が2編入賞する。5月には、詩1編がアカデミー賞[注 18] に輝く。12月には『コンセルヴァトゥール・リテレール』[注 19] 誌を創刊、1821年3月まで月2回のペースで発行していた。1820年3月9日、『ベリー公爵の死についてのオード』でルイ18世から下賜金を受け、ビッグ・ジャルガルを『コンセルヴァトゥール・リテレール』誌に掲載する(1826年に刊行)。

1822年8月4日に出版した『オードと雑詠集』[注 20] が当時のフランス国王ルイ18世の目に留まり、国王から年1000フラン年金をもらえるようになる。この年金のおかげで、彼はアデールとの結婚を許可される。1823年2月8日に、17世紀末のデンマーク宮廷の陰謀をテーマにした純愛小説『ハン・ディスランド』[注 21] を匿名で発表し、新雑誌も創刊した。

1829年1月に『東方詩集』、2月7日に『死刑囚最後の日』を刊行する一方、コメディ・フランセーズ[注 22] で上演予定だった『マリオン・ドロルム』が8月13日に上演禁止令を受けてしまう(以降、彼の手がけた戯曲が上演中止に追い込まれるケースがたびたび起こる)。理由は、この作品に登場するルイ13世の境遇が悪すぎて、シャルル10世の非難を買ったからであった。

それから約2週間後の1829年8月29日から9月24日に戯曲『エルナニフランス語版』(Hernani)を執筆した。10月5日にコメディ・フランセーズ座で上演する運びとなった。古典派の常識を逸脱したこの戯曲はたちまち問題となり、『エルナニ』公演の初日、開幕前からロマン派と古典派のこぜりあいが始まり、幕が上がるとこぜりあいは一気に暴動に転じた。いわゆる『エルナニ合戦』である。これ以降、ユーゴーはロマン派と古典派の戦いに巻き込まれることとなる。しかし、この『エルナニ』はロマン派を世界文学の主流に据えるきっかけをつくり、公演は大成功を収める。

中年期

私生活

『エルナニ』で大成功をおさめ、ロマン派の詩人・作家として名声と富に恵まれたユーゴーは、1832年10月8日、ジョン・クージョン通りの家を引き払い、ロワイヤル広場(現在のヴォージュ広場)にある赤いレンガ造りの豪華な邸宅に引っ越す。この頃になると、妻アデールがサント・ブーヴと恋に落ちてしまい、彼は寂しさに胸を詰まらせていた。8月の終わりにはサント・ブーヴとの交際を絶った。翌年にはサント・ブーヴが彼の作品『たそがれの歌』を酷評したことで決裂が決定的となってしまう。

31歳になる直前のマルディグラ、つまり1833年2月19日の夜、彼は『リュクレス・ボルジャ』(ルクレツィア・ボルジア)に出演していた女優ジュリエット・ドルエ[注 23]愛人になる。この日付は『レ・ミゼラブル』の中で、マリユスとコゼットが結婚する日付でもある(『レ・ミゼラブル』ではマルディグラが2月16日だったとなっているが実際のマルディグラは2月19日)。別荘を行き来したり連れ立って旅行に出かけたりするなど、二人の仲は徐々に深くなってゆく。

執筆に情熱を燃やし、ジュリエットとの恋愛に溺れる一方で、私生活では悲しい出来事が続いていた。1836年2月18日12月29日にはアカデミー・フランセーズに2度も落選し、翌1837年3月5日には、妻アデールを愛したがために発狂してしまった次兄ウジェーヌが入院先のシャラントン精神病院[注 24]自殺してしまう。

同年7月3日にレジオンドヌール勲章(オフィシエ[注 25]、将校)を授与される。その間、戯曲や詩を創作しながら、ブルターニュベルギーシャンパーニュプロヴァンス、と各地を転々と旅する。

1837年、ルイ・フィリップの長男オルレアン公フェルディナン・フィリップの結婚式に呼ばれる。オルレアン公妃エレーヌが大のユーゴー・ファンであることがきっかけとなり、以後ルイ・フィリップ父子とも親交が深くなる。

もうすぐ38歳になる1840年1月、文芸家協会長となり、少しは光明が見えてきたかと思われた矢先、同年2月20日、アカデミー・フランセーズ3度目の落選となる。しかし、翌年1841年1月7日にようやくアカデミー・フランセーズの会員に当選する。彼は亡くなるまで、第10代座席次14番を受け持つことになる。

1843年2月15日、41歳の誕生日を間近に控えたユーゴーは、長女レオポルディーヌとシャルル・ヴァクリー[注 26] の結婚を見届ける。しかし同年9月4日、レオポルディーヌは夫とともにヴィルキエ[注 27] を渡るセーヌ川にて19歳で溺死した。その頃、愛人ジュリエットと旅をしていた彼は、事故から5日後の9月9日に悲報を知り、9月12日にパリへ戻った。

レオポルディーヌの死はユーゴーの心に大きな穴を開けた。父に似て絶倫であった彼は、かねてよりアデールやジュリエット以外の複数の女性と恋愛関係にあったが、1845年7月5日、サン・ロック通りのアパルトマンで、画家のオーギュスト・ビヤールの妻レオニー・ビヤール[注 28] と姦通している現場を警察に押さえられてしまう。彼は貴族院議員の不可侵権を利用して釈放されたが、レオニーは当時の法律によりサン・ビヤール監獄に収容された。このスキャンダルにより、彼は他の議員の絶好の攻撃の的となったが、彼を可愛がっていたルイ・フィリップはビヤールにヴェルサイユ宮殿の壁画を描く仕事を与え、ヴィクトルに有罪の判決が下らないよう説得した。結局、レオニーは修道院で数ヶ月の謹慎処分ののち、再び世間に出た。同年8月14日にビヤール夫妻の別居を認める判決が出たとき、彼はレオニーを経済的に支援しなければならなかった。以後、2人の恋愛関係は長く続くことになり、ジュリエットを苦しめることになる。

創作

公では喜ばしい出来事が続いていたユーゴーは、恋の情熱や死別の悲しみを詩に託している。ジュリエットとの交際が始まって1年が過ぎた1834年、彼女との恋をうたった『ロマン主義詩編の最高傑作』との評判名高い『オランピオの悲しみ』を生み出す。また、愛する長女レオポルディーヌが没してからちょうど1年後、長い間娘の喪に服した彼は、娘が逝った街ヴェルキエで傑作詩編『ヴェルキエにて』の第1篇を書き終える。

しかし、1843年から1852年までの約10年間、作品を1冊も出版していない。これにはレオポルディーヌの死はもちろん、戯曲『城主』の失敗とそれにともなうロマン派文学の凋落、議員活動の忙しさもあったと思われるが、もうひとつ大きな理由があった。それが、のちにフランス文学史上屈指の名作といわれるようになる『レ・ミゼラブル(邦題:あゝ無情)』(当時の題名は『レ・ミゼール』[注 29])の執筆である。執筆は1845年11月17日から始まった。この作品を書くきっかけになった大きな理由には諸説あり、当時新聞に載っていた小説が彼の心を強く惹きつけたとも、少年時代に見てしまったギロチンの光景が彼を人道主義者にし、この作品を書かせたとも言われている。

政治活動

1845年4月13日、オルレアン公爵夫人エレーヌの後ろ盾があったおかげで、ルイ・フィリップから子爵の位を授けられた。貴族になったことで政治活動にも身を置くようになった彼は、翌年の1846年3月19日の貴族院にてポーランドに関する政治演説を行う。

だが、1848年2月の二月革命で、ルイ・フィリップはイギリス亡命する。ユーゴーはあくまで、幼いパリ伯(オルレアン公フェルディナン・フィリップの遺児でルイ・フィリップの嫡孫)を即位させ、母エレーヌを摂政にすべきだと考えていたが、それを望まぬ者もいた。結局、フランスは第二共和政へ移行することとなる。ユーゴーは同年5月の立憲議会の補欠選挙に立候補して、保守派の支持を受けて当選した[5]。政治家としてのユーゴーは1830年代より続けていた死刑廃止運動や、教育改革、社会福祉などを主張した。1848年には共和派となり、1848年12月10日の大統領選挙ではルイ・ナポレオンを支持し、強力な論陣を張って彼を支援した。しかしナポレオンは次第に独裁化し、連続再選禁止条項の改正を国民議会に提出するなどして、このころにはユーゴーはナポレオンの強力な反対者となっていた。ナポレオンは1851年12月2日にクーデターを起こして独裁体制を樹立し、反対派への弾圧を開始した。ユーゴーも弾圧対象となり、12月11日ベルギーへと亡命を余儀なくされる[6]。以後19年に及ぶ亡命生活の始まりであった。

亡命期

ベルギーの首都ブリュッセルに落ち着いたユーゴーは、さっそくナポレオンへの批判を開始した。1852年8月にはブリュッセルでナポレオン3世を弾劾した「小ナポレオン」を出版した。これは1843年の戯曲『城主』の失敗以来10年ぶりの新作であり、以降ユーゴーは再び精力的に執筆を再開する。「小ナポレオン」は熱狂を引き起こしたが、フランスからベルギーへの圧力を恐れたユーゴーは出版の前日に英仏海峡に浮かぶイギリスチャネル諸島ジャージー島へと移住し[7]1855年までここに住むこととなった。ここでは1853年に、やはりナポレオン弾劾の書である「懲罰詩集」を発表している。1855年には隣の島であるガーンジー島に移住し、1870年にフランスに帰還するまでの間15年間ここで過ごした。ガーンジー在住中には、1856年に「静観詩集」、1859年には「諸世紀の伝説」の第1部、そして1862年には中断していた『レ・ミゼラブル』が完成してベルギーより出版され、大反響を巻き起こした。「レ・ミゼラブル」の成功は、彼に莫大な収入をもたらした[8]

最短の電報

『レ・ミゼラブル』が出版された直後、海外旅行に出かけたユーゴーはその売れ行きが心配で、出版社に一文字?と書いただけの電報を送ると、その後出版社から!とだけ書かれた返信が届いた。「上々の売れ行きです!」というわけである。事実数日で完売・売切れの状態であったという。これは世界で最も短い手紙として『ギネス世界記録』に掲載されている[9][要検証][10]

帰国

1870年に勃発した普仏戦争はフランスの大敗北に終わり、セダンの戦いプロイセン王国の捕虜となったナポレオン3世は失脚した。これによってユーゴーは帰国を決意し、19年ぶりに祖国の土を踏むこととなった。フランスでは英雄として迎えられ、1871年2月にはセーヌ県より立候補して当選し、議会の置かれたボルドーへと向かったが、ユーゴーの属した左派は少数派に過ぎず、3月8日にはアルジェリアから立候補して当選していたジュゼッペ・ガリバルディの当選無効に抗議して議員を辞職した[2]。1872年1月には再び議会に立候補するものの落選した[11] が、1876年1月には元老院議員に立候補して当選した[12]。その後も1877年には「諸世紀の伝説」の第2部を発表するなど活発な活動を続けた[13]。なお、日本の自由党総理・板垣退助が、1882年から1883年にかけてのフランス、イギリス・オランダ視察の際、ヴィクトル・ユーゴー、ジョルジュ・クレマンソーらと交流したとする記録がある[14]

1885年5月22日パリにて死去。83歳没。国葬でもって葬られ[15]、文豪としてパンテオンへと埋葬された。

作品の一覧

Thumb
1853年
Thumb
レオン・ボナ画(1879年
Thumb
1883年

主要な作品は小説や、膨大な詩である。

さらに見る 年, 邦題 ...
邦題原題
1822年オードと雑詠集フランス語版英語版Odes et Poésies Diverses
1823年アイスランドのハンフランス語版Han d'Islande
1824年オード集Nouvelles Odes
1826年ビュグ・ジャルガルフランス語版英語版Bug-Jargal
1826年オードとバラッドフランス語版英語版Odes et Ballades
1827年クロムウェルフランス語版英語版Cromwell
1829年東方詩集フランス語版英語版Les Orientales
1829年死刑囚最後の日Le Dernier jour d'un condamné
1830年エルナニフランス語版英語版Hernani[注 30]
1831年ノートルダム・ド・パリNotre-Dame de Paris
1831年マリヨン・ドロルムフランス語版英語版Marion Delorme
1831年秋の木の葉フランス語版英語版Les Feuilles d'automne
1832年王は愉しむフランス語版英語版Le Roi s'amuse[注 31]
1833年リュクレス・ボルジャフランス語版英語版Lucrèce Borgia[注 32]
1833年マリー・チュードルフランス語版英語版Marie Tudor
1834年ミラボー研究Étude sur Mirabeau
1834年文学哲学論集Littérature et philosophie mêlées
1834年クロード・ギューフランス語版英語版Claude Gueux
1835年パドヴァの僭主アンジェロフランス語版英語版Angelo, tyran de Padoue[注 33]
1835年薄明の歌Les Chants du crépuscule
1836年ラ・エスメラルダLa Esmeralda[16]
1837年内心の声フランス語版英語版Les Voix intérieures
1838年リュイ・ブラースRuy Blas
1840年光と影フランス語版英語版Les Rayons et les ombres
1842年ライン河フランス語版英語版Le Rhin
1843年城主フランス語版英語版Les Burgraves
1852年小ナポレオンフランス語版英語版Napoléon le Petit
1853年懲罰詩集フランス語版英語版Les Châtiments
1855年ルイ・ボナパルトへの書簡集Lettres à Louis Bonaparte
1856年静観詩集フランス語版英語版Les Contemplations[17]
1859年諸世紀の伝説フランス語版英語版La Légende des siècles
1862年レ・ミゼラブル[注 34]Les Misérables
1864年ウィリアム・シェイクスピアフランス語版英語版William Shakespeare
1865年街と森の歌フランス語版Les Chansons des rues et des bois
1866年海の労働者フランス語版英語版Les Travailleurs de la Mer
1867年パリParis : Préface de Paris Guide
1869年笑う男フランス語版英語版L'Homme qui rit
1872年恐るべき年フランス語版英語版L'Année terrible
1874年九十三年Quatrevingt-Treize
1874年我が息子たちMes Fils
1875年言行録:亡命以前フランス語版Actes et paroles - Avant l'exil
1875年言行録:亡命中フランス語版Actes et paroles - Pendant l'exil
1876年言行録:亡命以後フランス語版Actes et paroles - Depuis l'exil
1877年諸世紀の伝説 第2巻La Légende des Siècles 2e série
1877年よいお祖父さんぶりフランス語版英語版L'Art d'être grand-père
1877年ある犯罪の物語 第1部フランス語版英語版Histoire d'un crime - 1re partie
1878年ある犯罪の物語 第2部フランス語版英語版Histoire d'un crime - 2e partie
1878年法王フランス語版英語版Le Pape
1880年既成宗教と真の宗教フランス語版英語版Religions et religion
1880年ろばフランス語版L'Âne
1881年精気の四風フランス語版Les Quatres vents de l'esprit
1882年トルケマダフランス語版英語版Torquemada
1883年諸世紀伝記詩集 第3巻La Légende des siècles - Tome III
1883年イギリス海峡の群島L'Archipel de la Manche
閉じる
死後に出版された作品
さらに見る 年, 邦題 ...
邦題原題
1886年自由劇Théâtre en liberté
1886年サタンの終わりフランス語版英語版La fin de Satan
1887年見聞録フランス語版 第1集Choses vues - 1re série
1888年竪琴の音をつくして 第1集Toute la lyre
1890年アルプスとピレネーAlpes et Pyrénées
1891年フランス語版英語版Dieu
1892年フランスとベルギーFrance et Belgique
1893年竪琴の音をつくして 第2集Toute la lyre - nouvelle série
1896年書簡集 第1巻Correspondances - Tome I
1898年書簡集 第2巻Correspondances - Tome II
1898年不幸な年月Les années funestes
1900年見聞録 第2集Choses vues - 2e série
1901年わが生活の追伸Post-scriptum de ma vie
1902年最後の詩の束Dernière Gerbe
1934年Mille francs de récompense
1942年詩集・大洋Océan
1942年雑記・小石の山Tas de pierres
1951年Pierres
閉じる

主な日本語訳書

  • 『ヴィクトル・ユーゴー文学館』 潮出版社(全10巻)、2001年。作品選集
  1. ヴィクトル・ユゴー詩集 稲垣直樹・辻昶・小潟昭夫訳[注 35]
  2. レ・ミゼラブル1 辻昶
  3. レ・ミゼラブル2
  4. レ・ミゼラブル3。新版・潮文学ライブラリー(全5巻)、2009年
  5. ノートルダム・ド・パリ 辻昶・松下和則訳。新版・岩波文庫(上下)、2016年
  6. 九十三年 辻昶訳。新版・潮文学ライブラリー(上下)、2005年
  7. アイスランドのハン、ビュグ=ジャルガル 小潟昭夫・野内良三ほか訳
  8. 海に働く人々・小ナポレオン 金柿宏典ほか訳
  9. 死刑囚最後の日・見聞録・言行録 稲垣直樹・小潟昭夫訳
  10. クロムウェル・序文、エルナニ 西節夫・杉山正樹訳

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

Wikiwand in your browser!

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.

Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.