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1977年にアメリカ合衆国シカゴで誕生した音楽ジャンル ウィキペディアから
ハウス・ミュージック (英名:house music) は、1977年にアメリカ合衆国シカゴで誕生した音楽ジャンルの一つ。単にハウスと呼ばれることも多い。1970年代のディスコやフィリー・ソウル、サルソウル・サウンドなどを起源としている。
「ハウスミュージック」は、ディスコや、フィラデルフィア・インターナショナル・レーベルやサルソウル・レコード[9]などの、いわゆるフィラデルフィア・ソウル(フィリーソウル)などの楽曲を音源とするものも多かった[9]。また、先駆者であるラリー・レヴァンや彼の「パラダイス・ガレージ」の客層と同様に、初期のハウスシーンは、ディスコと同様、DJ、客層ともに黒人やゲイが多かった。ディスコは音楽的な評価は低かったが、社会的にはゲイ、もしくはLGBTに対する性差別解消をテーマにする音楽であるとして、ある程度評価された[注 1]。
ハウスの語源は、シカゴのゲイ・ディスコ「ウェアハウス」が名称由来とされている。その後、80年代末~90年代以降、ハウスの中心地はアメリカからイギリスを中心とするヨーロッパに移ったが、イギリスでは同性愛者のムーブメント色は薄れ、ミックス技術を追究することが試みられた。21世紀には音楽のアレンジ(編曲)上の一手法として、世界のクラブに普及している。性差別をテーマとする一部のハウスは、1980年代後半から90年代にかけて、差別や貧困をテーマとする一部のヒップホップ (hip hop) とともに、DJ(ディスクジョッキ―)プレイで好まれる音楽ジャンルとして定着した。
ニューヨークの「パラダイス・ガレージ」のDJであったラリー・レヴァン[10]の友人で、自らも有能なDJであったフランキー・ナックルズ[11]は、1977年にシカゴに新たにオープンした「ウェアハウス[12]」の主力DJとしてニューヨークから招かれ、彼のDJは独特のミックス手法であって、特にゲイたちから高い人気を博したため、地元のレコード店が「ハウス・ミュージック(ウェアハウス・ミュージック)」と称して販売したのがハウスという名称の始まりと言われている。この成功の後、フランキーはウェアハウス経営者との衝突からウェアハウスを去り、シカゴ内の別の場所で「パワープラント」というクラブを始める。
ウェアハウスのオーナーは「ウェアハウス」を「ミュージック・ボックス」と改名し、新たにカリフォルニアからロン・ハーディーを後任DJとして招聘する。[13]ナックルズとハーディーの間の競争により、シカゴはダンス音楽界の中で、「ハウス」の普及とともにその地位を確立する。彼ら2人のプレイスタイルは、ラリーと彼のプレイしたいわゆる「ガラージュ」と呼ばれるスタイルの強い影響下にありながらも、ドラムマシンの使用によりアグレッシブな選曲の傾向を持ち、のちに一般的印象としての「ハウス」と呼ばれるスタイルの原型を築いた。
その後、ハウスの人気はイギリスへも波及し、1987年にM/A/R/R/Sがリリースした「パンプ・アップ・ザ・ヴォリューム (Pump up the Volume)」はヨーロッパで火がつき、全米チャートでもヒットとなった。また、1988年にイギリスを中心に発生したムーブメント「セカンド・サマー・オブ・ラブ」やレイブも流行した。こうした運動を契機として、世界でハウス、シカゴ・ハウス、アシッド・ハウスが流行した。1990年代に入ってからはC&Cミュージック・ファクトリー[14]、ブラック・ボックス[注 2]、スナップ、テクノトロニックらがヒットを放った。また、ハウスはさらにスタイル、ジャンルの細分化が進み、マドンナなどの有名歌手がハウスのリズムである4つ打ちを使用するようになった。
日本では1980年代後半頃より、アメリカでのハウス・ブームに呼応する形で、ハウスDJが登場するようになった。先駆的な活動を行ったDJとして、1980年に単身ニューヨークに渡り、ハウスを日本に伝導した高橋透がいる。高橋透は1989年に芝浦のクラブ、GOLDの立ち上げに伴って帰国、同店のサウンドディレクター及び毎週土曜日のメインDJを務めた。GOLDの毎週金曜日には当時、若手であった木村コウ (KO KIMURA) もプレイしていた。
ニューヨークへ渡り、フランキー・ナックルズらと交流を深め、巨大ディスコ「The Saint」のDJとして日本人で初めて抜擢された中村直 (NAO NAKAMURA) は、その後、約10年間、ニューヨーククラブシーンの最前線に立ったが、彼もまた芝浦GOLDの立ち上げに合わせて帰国した。また、1985年より活動を開始し、1989年に「コニーズ・パーティ」のレジデントDJ、その後、芝浦GOLD土曜のレジデントを務めたEMMAも先駆者の一人である。
1980年代後半に渡米し、デヴィッド・モラレス、フランキー・ナックルズと共にDef Mix Productionsの一員として活動を行った富家哲 (SATOSHI TOMIIE)、1990年にディー・ライト[15]の一員としてアメリカで『グルーヴ・イズ・イン・ザ・ハート』などのヒットを記録したテイ・トウワ、作曲家、リミキサーとして活動している寺田創一らもシーンに与えた影響は大きい。
更にレベッカのボーカル、NOKKOは90年代初期のソロ活動においてハウスを当時のメインストリーム歌手の中でいち早く取り入れ、テイ・トウワによるプロデュース『I Will Catch U』を発表するなどしていた[16]。
芝浦GOLDの出現、人気上昇、及び後を追うようにしてオープンした西麻布YELLOWなど、ハウスを中心とするクラブがオープン、また、音楽雑誌やAERAでも記事になるなど、ハウスに対する注目度が高まった。そして前述のラリーやフランキー、トニー・ハンフリーズ、ティミー・レジスフォード、デヴィッド・モラレス、ルイ・ヴェガなど、海外の著名DJも頻繁に来日するようになった。近年では、ニューヨーククラブシーンで異例のヒットとなった「Say That You Love Me」(2001年)のakや、Studio Apartment、Jazztronik、大沢伸一、田中知之 (Fantastic Plastic Machine) のように、日本人ハウスアーティストも現れるようになった。
2023年現在、イギリスを中心に、スペイン(イビサ島など)、フランス、イタリアなどヨーロッパ諸国が現在のハウスシーンの中心であるが、シカゴ、ボルチモア、ニューヨークなどのアメリカの諸都市、オーストラリアを中心にしたオセアニア、日本を中心としたアジアなどにも根強いシーンが存在している。また、イギリスのGlitterboxレーベルのアーティストたちを中心に、源流であるディスコへと回帰、ハウスとディスコが再融合した新たなシーンもあり、イギリス諸都市、イビサ島、クロアチアなどで、盛んにパーティーが開催されている。
なお、現在の日本のハウスシーンは、テック・ハウスをメインにプレイするDJが多く、テクノや新世代のベースミュージックと親和性が高まっているが、90年代までのハウスシーンのイメージからは遠ざかり、シーンの方向性や客層、そして雰囲気自体が大きく変わってしまったとも言える。
日本においてのハウスは90年代の全盛期ほどの人気はないが、今も昔からの根強いファンやDJ、または新世代の若手オーガナイザーたちにより、小規模ながらも様々なクラブイベント、パーティーが催されている。
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