トビリシ
ジョージアの首都 ウィキペディアから
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トビリシ(ジョージア語: თბილისი, Tbilisi [tʰb̥ilisi] ( 音声ファイル)、略称TBS)は、ジョージア(グルジア)の首都。邦訳表記はティビリシとも。時にティフリス(Tiflis)とも呼ばれる。トビリシとは「あたたかい」を意味するトビリに由来し、温泉と関係あるとされている。元史には梯弗里斯とも呼ばれる。人口は約110万人。
ジョージアの東部、クラ川の河畔に広がる。三方を山や小高い丘に囲まれている。
紀元前4000年ごろの居住跡が確認されている[2]。すでに4世紀のペルシア史料に、この地域に集落があったことが言及されている。今も市内に一部が残るナリカラ砦はこの頃に造られたものである。その後、5世紀にカルトリ[要曖昧さ回避](後にイベリア王国とも言われた)の王ワフタング・ゴルガサリ(ワフタング1世)がここに町をつくり、王の死後、息子のダチが遺訓に従い、6世紀の初めにムツヘタから遷都した。統一したグルジア王国の都ではなく、コルキスを含まない東グルジア(カルトリ)の都であった。ワフタング・ゴルガサリ王がこの地を発見したのには、有名な言い伝えが残っている。王が狩に出かけ、鷹を飛ばした。鷹は雉を追いかけて飛んでいったが、鷹も雉も行方不明となった。従者たちが探し回ると鷹も雉もアバノツバニにある温泉の中に落ちていた。温泉を発見したワフタング・ゴルガサリはそれをとても気に入り、この地に町を作るように命じた、という。グルジア語の古語で"Tpili"とは「暖かい」という意味で、それがトビリシの語源である。
570年以降、サーサーン朝ペルシアに征服され、627年に、東ローマ帝国とハザールの連合軍が陥落させた。736年にはカリフ・マルワーン2世に率いられたウマイヤ朝の軍が進入。以後、トビリシ首長国としてアラブ人に支配される。1068年、スルターン・アルプ・アルスラーンの下、セルジューク朝の侵略を受ける。1122年に、セルジュークとの激しい戦闘に勝利し、ダヴィド4世(ダヴィト建設王)がトビリシを解放してグルジアを統一。西グルジアのクタイシからトビリシに遷都し、全グルジアの首都となり王国の領土は拡大し繁栄の道を進む。タマル女王のもとで黄金時代を迎える。しかし1世紀で終わりを告げる。1226年、ホラズム・シャー朝のスルターン・ジャラールッディーン・メングベルディーの侵攻を受け、1236年にはモンゴルの統治下に入る。モンゴル支配下のトビリシは自治を享受できた時代であった。14世紀から18世紀にかけて、ティムールやタブリーズのシャー、白羊朝、など入れ替わり来襲を受ける。1522年、サファヴィー朝イランの侵攻を受けるもダヴィト10世に解放される。この時期は荒廃したトビリシの再建の時代であった。1795年、イランのアーガー・モハンマド・シャーの軍勢の前に、トビリシは灰燼に帰す。もはや、イランやトルコの侵攻の前に為す術も持たないグルジアは、ロシア帝国の庇護を求め、1801年、帝政ロシアに編入された。トビリシには総督府が置かれ、カフカース(コーカサス)支配の拠点となった。その間、都市は大きく発展し、近代ヨーロッパ的な町並みが形成される。1811年には8500人であった人口は、1825年には2万人になったという。19世紀末にはトリビシ・ポチ線、パトゥミ・トリビシ・バグー線の鉄道敷設で交通の要衝となった。当時ペルシャ、オスマン、スウェーデン、ベルギーの公館も建ち、国際都市の様相を呈した[3]。アレクサンドル・プーシキンやレフ・トルストイが幾たびも訪れ、ロマノフ朝の王族の屋敷も市内に作られた。1918年にグルジアが独立した際、トビリシはグルジア民主共和国(1918年-1921年)の首都となる。以後、グルジア・ソビエト社会主義共和国(1921年 - 1922年、1936年 - 1991年)、ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国(1922年 - 1936年)の首都を経て1991年にジョージアが再び独立を果たして以後、今日まで同国の首都である。
気候は温暖で、年間の平均気温は12.7 °C。年間降水量は568mm。ケッペンの気候区分では温暖湿潤気候に属する。内陸部に位置するため、夏は暑く冬は比較的寒い。 最も寒い1月の平均気温は0.9 °C、最も暑い7月の平均気温は24.4 °Cである。
トビリシの気候 | |||||||||||||
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月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 19.5 (67.1) |
22.4 (72.3) |
28.7 (83.7) |
34.3 (93.7) |
34.9 (94.8) |
38.7 (101.7) |
40.0 (104) |
40.3 (104.5) |
37.9 (100.2) |
33.3 (91.9) |
27.2 (81) |
24.0 (75.2) |
40.3 (104.5) |
平均最高気温 °C (°F) | 6.3 (43.3) |
7.1 (44.8) |
12.4 (54.3) |
19.0 (66.2) |
23.0 (73.4) |
27.3 (81.1) |
30.8 (87.4) |
30.4 (86.7) |
26.3 (79.3) |
19.7 (67.5) |
12.9 (55.2) |
7.7 (45.9) |
18.6 (65.5) |
平均最低気温 °C (°F) | −1.9 (28.6) |
−1.1 (30) |
2.6 (36.7) |
8.2 (46.8) |
11.8 (53.2) |
15.5 (59.9) |
19.0 (66.2) |
18.2 (64.8) |
14.9 (58.8) |
9.1 (48.4) |
4.1 (39.4) |
0.0 (32) |
8.4 (47.1) |
最低気温記録 °C (°F) | −24.4 (−11.9) |
−14.8 (5.4) |
−12.8 (9) |
−4.8 (23.4) |
1.0 (33.8) |
6.3 (43.3) |
9.3 (48.7) |
8.9 (48) |
0.8 (33.4) |
−6.4 (20.5) |
−7.1 (19.2) |
−20.5 (−4.9) |
−24.4 (−11.9) |
降水量 mm (inch) | 20 (0.79) |
29 (1.14) |
31 (1.22) |
51 (2.01) |
84 (3.31) |
84 (3.31) |
41 (1.61) |
43 (1.69) |
35 (1.38) |
41 (1.61) |
35 (1.38) |
23 (0.91) |
517 (20.35) |
出典:Pogoda.ru.net 8.09.2007 |
10の区がある[4]。
2002年の統計では、
などとなっており、年々グルジア人(カルトヴェリ人およびその支族とされるミングレル人、ラズ人、スヴァン人など。統計上は区分されていない)の割合が高まっている。 住民の85%がキリスト教の信者であり、グルジア正教会を中心にロシア正教会・アルメニア教会を信奉している。イスラム教は主としてスンナ派で人口の8%、ユダヤ教の信者は2%である。
1918年に創設されたトビリシ国立大学など、多数の高等教育機関や、劇場、博物館、国立オペラ・バレエ劇場などがあり、学術・文化面でも重要な都市である。また、たくさんの古い教会があるほか、モスクやシナゴーグもある。2004年には至聖三者大聖堂(ツミンダ・サメバ大聖堂)が竣工した。クラ川東岸、トビリシ旧市街のアヴラバリにあるメテヒ教会は5世紀にグルジア正教会に改宗したヴァフタング1世が建築した。敷地内にはトビリシの創設者であるヴァフタング1世を称えたヴァフタング1世像がメテヒ岩の台座に聳え立っている。
トビリシ市街南西部の、険しいナリカラの丘の上にあるナリカラ要塞は4世紀にサーサーン朝が不快要塞 (シュリス・ツィヘ)[注釈 1]という名で建設し[6]、後にモンゴル帝国がナリカラと改名した。ナリカラ要塞の横にはカルトリス・デダ (ジョージアの母像)が、丘の向こうにはトビリシ植物園がある。 ナリカラの丘の麓には温泉街で有名なアバノツバニがあり、旧市街の趣が感じ取られる。
トビリシは以下の都市と姉妹都市の提携をしている。
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