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カーデン・ロイド豆戦車(カーデン・ロイドまめせんしゃ、Carden-Loyd tankette)は、イギリスの第二次世界大戦前の豆戦車で、戦間期に開発された。機関銃を装備したトラクターや牽引車と言うもので、軽戦車に満たないものであった。いくつかの国でライセンス生産され、それを元に様々な型のものが派生した。
より大きな戦車の「斥候」などとして活動できるような、ごく小型で速度重視の装軌車両の構想は、第一次世界大戦終結直後からあった。
また、イギリス陸軍は、A1E1 インディペンデント重戦車のような多砲塔戦車の研究を進めており、当然ながら大型で高価な戦車となる。そうした中、ハイ・ローミックスのローを担う、あるいは多砲塔戦車を戦艦に喩えて(そもそもイギリスにおける戦車開発は、陸上軍艦:Landshipを出発点としている)、これに随伴する巡洋艦や駆逐艦的な存在としての小型戦車のニーズが生まれた。これに応え、A3E1豆戦車が、A1E1とともに、同時開発(試作)されている。
そうした中、イギリス陸軍少佐(後の中将)サー・ギフォード・Q・マーテルは、個人的に、自宅ガレージで自動車部品などの様々な廃品から1人乗りの小さな戦車(One-Man Tank)を作り上げた。このモーリス・マーテル豆戦車(Morris-Martel Tankette)は中古のマクスウェル社エンジンやフォード・トラックの車軸などを流用したもので、特別に作られたのはロードレス・トラクション社による履帯だけだった。自動車のステアリングと幅広の履帯をそなえたハーフトラック形式だが、一般のハーフトラックと違い、履帯が前側、車輪が後ろ側だった。この車輪は、前期型菱形戦車の車体後方に付けられていた、超壕補助兼操行補助用の尾輪(ステアリング・ホイール)を模倣したものだと、考えられる。操縦士の肩と頭部はむき出しで上部構造も木製のままだった。
1925年にお披露目されたこの1人乗りの車両は「歩兵を機械化する」手段としてリデル・ハートを含む人々の注目を浴び、兵器局もその改良型の生産を認めた。改良型はモーリス社の手により1926年3月に最初の車輌が完成した。2tあまりの車体に16馬力のモーリス製エンジンを積んだ車輌で4輌が製作された。この内、3輌が1人乗りで、1輌が2人乗りであった[1]。1人乗りのタイプは、操縦と射撃を同時に行うことができない点が問題となって後に放棄されることとなる。
こうした流れの一方で、同じく歩兵機械化の課題に取り組んでいたのが、ロンドンでパートナーのヴィヴィアン・ロイドとともに車両設計のガレージメーカーを開いていたサー・ジョン・カーデンであった(なお、後に、サー・ジョン・カーデンは、ヴィッカース社に移り、戦車設計者として、イギリスの1920年代末~1930年代前半の主要戦車を次々と開発し、その名を馳せることになる)。カーデン設計の豆戦車は、当時、多数生産されており安価に入手・整備が可能であったフォード・モデルTのエンジンを用いたものだった。カーデンは兵器局に自らのデザインを売り込み、その結果、(A3E1豆戦車の代替車輛候補として、)1926年末にはカーデン・ロイド Mk.V 豆戦車とモーリス・マーテルの両者8輌ずつが「タンケッティ(豆戦車)」の名の下に新たに作られて、ともに実験機械化部隊で試された。
試験運用ではモーリス・マーテルの車両の優秀性が指摘されたものの、この時点でモーリス社は商用車などの生産に注力するため手を引くことになった。マーテルはその後クロスレイ・モーターズと組み、シトロエン・ケグレス方式のサスペンションとゴム製履帯を持つ(しかしやはり後方車輪式の)ハーフトラック形式のクロスレイ・マーテル豆戦車を製作したが、後方配置のエンジンが砂塵を吸い込むこと、サスペンションの過負荷などから、それ以上の開発は行われなかった。
その結果この種の車両としては、カーデン・ロイドが残ることになった。ただし、その後の機械化部隊での試験に基づき、インディペンデント重戦車の装備化は実行されず、随伴する小型戦車は不要となった。また、もともと構想されていた斥候・偵察任務は、より車格の大きな軽戦車に割り振られることになり、カーデン・ロイドの車両は「マシンガン・キャリア(機関銃運搬車、機銃運搬車)」と位置付けられることになる。しかし、その後も輸出向けには、豆戦車の名は使われた。
こうした試験的運用の中で、カーデン・ロイドの車両自体も試行錯誤を重ね、1928年、集大成とも言えるカーデン・ロイドMk.VIが誕生した。それまでのカーデン・ロイドの車両は、装軌式と、装輪・装軌切り替え式が並行して試されていたが、Mk.VIでは結局、装軌式のみに落ちついた。Mk.VIは偵察車両と機関銃運搬車として、カーデン・ロイド豆戦車シリーズにおける最終発展形態となり、様々な派生型が誕生した。
しかし偵察任務にも、機関銃運搬や砲・物資の牽引用としても、この車格は小さすぎ、この後、ヴィッカース・カーデン・ロイドの開発は、砲塔(銃塔)を持つ軽戦車系列と、積載量や牽引量を増したキャリア系列の2種に分岐することになる。
また、軽量な車体に(重量に対し相対的に)高出力エンジンを搭載した(出力重量比が小さい)カーデン・ロイド系豆戦車/軽戦車は、(装輪装軌併用式戦車から発展した)クリスティー系快速戦車と並んで、1930年代の戦車の高速化に大きな役割を果たしたと言える。
もちろんそれは、装甲(軽装甲)よりも速度に重点を置く(高出力エンジン搭載)ことによって、達成されたものではあるが、始まりはそうであっても、いったん(部隊全体の)高速化が達成されれば、もう後戻り(退行)はできないのである。その後の戦車は、その高速を維持したまま、装甲を厚くする方向へ進化することになる。
生産は1927年から1935年まで行われた。1928年3月に小規模ベンチャー企業だった「カーデン=ロイド・トラクター社」は大手の「ヴィッカース・アームストロング社」に吸収され、Mk.VIの生産はヴィッカース・アームストロング社で行われた。1933年から1935年までの生産は「ロイヤル・オードナンス(Royal Ordnance、王立造兵廠)」が行った。
フランスのルノー FT-17 軽戦車の4分の1程度という低価格とヴィッカース・アームストロング社の販売力により、世界中の国々で販売され、ベストセラーとなった。
イギリス軍は325輌のMk.VIを使用していた(別のデータでは348輌)。機関銃運搬車をベースに、砲牽引車、煙幕車、補給車、小型牽引車など様々な用途に用いられた。
カーデン・ロイド豆戦車は、一人用はリアエンジンフロントドライブ(RF)方式、二人用はミッドエンジンフロントドライブ(MF)方式の、スプロケット・ホイールが前方にある前輪駆動方式である。乗員が2名の場合は、車長が機銃手を、操縦手が整備士を兼ねる。
第一次世界大戦によって登場した"新兵器"である戦車は、当然ながら各国陸軍の垂涎の的であった。しかしながら高価な戦車を多数装備できる国は少なかった。カーデン・ロイド豆戦車は低コストであったことから、戦車を欲する各国のニーズに合致し、多数が輸出され、400輌以上が輸出されたベストセラーとなった。
1929年、ベルギー軍は、6両のカーデン・ロイド Mk.VIを取得した。
1930年代初頭、ベルギー軍は対戦車能力のアップグレードを検討しており、豆戦車コンセプトの人気により、カーデンロイド Mk.VIは、完全に機械化された対戦車能力を開発する最初の試みの基礎として選ばれた。
1931年、砲の牽引実験をした後、砲を牽引するよりも車体に搭載した方が良いという、より統合されたアプローチが選択され、カーデンロイド Mk.VIの最重武装バージョンとなった。なお、イタリアにも、「セモヴェンテ L3 da 47/32」という、同様の試作車両がある。フランスにも、「ルノー UE 57」という、6ポンド(57 mm)砲を搭載した、より強力な試作車両がある。また、ヴィッカース社でも、短砲身のヴィッカース QF 47 mm 騎砲を、車体前部右側に備えた、軽自走砲のバリエーションを用意していた。
1931年、2両が試作車両に改造された。1つはFRC(Fonderie Royale de Canons=王立砲兵工廠) ハースタル M1931 47 mm対戦車砲を、もう1つはFRC 76 mm低速歩兵砲を、車体前部に固定式で搭載した。76 mm装備のバージョンは、砲を発射する際に途方もない反動を経験し、発射後の激しい揺れと不安定さをプラットフォームにもたらした。
その結果、76 mm砲装備のプロトタイプは47 mm砲装備の戦車駆逐車バージョンに作り変えられた。しかし、戦車駆逐車バージョンも満足のいくものとは見なされなかった。47 mm対戦車砲を発射することによる反動は、76 mmバージョンよりも小さかったが、3トンの車両にはまだ大きすぎた。2人の乗員で砲を操作することは労働集約的すぎると考えられ、弾薬貯蔵庫は小さすぎた。そして、薄い(4-9 mm厚)装甲の後方跳ね上げ式の正面シールドを除いて、乗組員は完全に露出していた。主砲の重量が加わったことも小型エンジンに過負荷をかけ、車両全体の消耗が高すぎるとみなされた。最高速度は48 km/hであった
にもかかわらず、この実験はベルギー軍に貴重な経験を齎した。それはT-13戦車駆逐車とT-15軽戦車の成功で頂点に達し、その生産は1935年に始まった。
残りのカーデン・ロイドMk.VIも改造され、全部で6両製造された47 mm対戦車砲搭載 試作駆逐豆戦車(戦車駆逐車)も運用され、精鋭のシャスール・アルデネ山岳師団に配備された後、山岳地帯では役に立たないと見なされ、すぐに国境警備隊の「Cyclistes Frontière/Grenswielrijders」に引き継がれた。
1940年5月にベルギーの戦いが始まったとき、それらはまだ使用されており、ドイツ軍の侵攻の日である5月10日の朝に、ヴィヴェーグニスとリクシェの間のムーズ(マース)川の西岸の、固定された待ち伏せ位置からではあったが、それらがいくつかの弾丸を発砲したことが知られている。
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