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電気の絶縁のために用いる器具 ウィキペディアから
がいし(礙子、碍子、がい子)は、電線とその支持物とのあいだを絶縁するために用いる器具。一般には電柱・鉄塔などに装着される電力用または電信用のものを指すが、点火プラグや電熱器などにおいて電線を絶縁する器具を指すこともある。
がいしには、電気絶縁性や野外での耐候性、機械的な強度などが求められることから、多くは磁器を素材としている。ガラス製のものもあり、ロシア、モンゴルなどの旧共産圏や東ヨーロッパ、イタリア、日本国内で古くから敷設されている電線路で見ることができる。また、軽量なポリマー製がいしも北アメリカ・中近東などを中心に普及しており、日本国内では鉄道電気工作物で用いられている。
高圧の交流送電は通常、がいしを介して電柱や鉄塔などに支えられる。超高圧交流送電線では、がいしを連ねて絶縁性を確保する。数十個が連なって数メートルの長さに及ぶものも使われる。また、電線の張力を打ち消すために取り付ける支線の絶縁確保には玉がいしを用いる。
がいしに雨や塩分や汚れなどが付着するとがいしの表面に沿った漏れ電流や電気的破壊が起きやすくなる。がいしに波状の形状や円盤やカップを並べたような形状が多いのは、そのような場合に絶縁性が損なわれないように、表面に沿った距離(沿面距離)を稼ぐためである。カップ状になっているのは、雨などの状況でも片側を濡れにくくするためである。
落雷の際は異常な高電圧がかかり、大電流が流れるため、がいしが破壊される恐れがある。これを防ぐために、がいしの両端にアークホーンまたはアークリングと呼ばれる金属端子を付け、高電圧がかかったときには、その端子間で電流を流すようにしている物がある。
磁器製のがいしは、一般に以下の方法で製造される。原料としては陶石、長石、珪石、粘土などが用いられる。天草陶石を用いると高い強度のものが得られ、九州のみならず東海地方の製造業者もこれを取り寄せて原料としている[13]。高い性能を求められる用途には精製された酸化アルミニウムが加えられることもある。原料を粉砕して粉末にし、水を加えて泥状にする。円筒形のものは押出成形と切削法、懸垂碍子は丸鏝成形によって所定の形状に整える。プレス成形や鋳込み成形などの手法を用いることもある[14]。これを十分に乾燥した後、釉薬を塗布し1,300 - 1,350℃で焼成し焼結させて磁器とする[15]。
初期の碍子は木製あるいはガラス製であったが、後に絶縁性能や強度の高い磁器製品が使われるようになった。1890年代、アメリカ合衆国内やヨーロッパ[16]に電力網が普及する際には主として磁器製のピン碍子が使用された。1900年代には66,000ボルトに対応する製品も開発されたものの大型で高価であった。これに代わるものとしてLOCKE社により懸垂碍子が考案され1920年代から使われるようになった[17]。
1957年に環状脂肪族エポキシ樹脂が開発され、コイルの絶縁材料など屋内用として用いられていた。これを応用した屋外用碍子は1960年代前半にイギリスやアメリカ合衆国で製造されたが信頼性の低いものであった。実用的な製品は1964年にドイツで開発され、1970年代にかけてフランス、イギリス、アメリカ合衆国などでも製造されるようになった[11][18]。
1854年(嘉永6年)にアメリカ合衆国からモールス電信機がもたらされ、1855年8月 (安政2年7月) に小田又蔵と勝海舟が電信の実験を行っているが、この技術は実用されることはなく忘れられた[19]。榎本武揚はオランダ留学で電信技術を学び、1867年 (慶応3年) にモールス印字電信機とともに電線やがいしを持ち帰ったが、実用には至らなかった[20][要検証]。がいしを必要とするような長距離の通信網や送電網の登場は、明治維新を待たねばならない。
1869年10月23日 (明治2年9月19日) に東京—横浜間で公衆用電信線の建設工事が開始された。がいしの本格的な利用はこの頃に始まると考えられる。当時は、新陶器、インスレット、インシュレートル、電碗などと呼ばれていた[21]。当初は「赤碍子」と呼ばれるとび色の輸入品が用いられていた[22]。しかしながら輸入品は不良率が高く、1個あたり25-26銭もかかる高価なものであった (当時の白米1升が5銭)。このため政府は、がいしの国産化を推進した[23]。1875年発行の『電信頭第一報告』には、電線以外の部品や機器は電信寮 (逓信省の前身) 内で製造したり、外部の職工に命じて作らせるようになり、輸入品は非常に減ったとある[24]。有田焼の製造や貿易を手がけていた深川栄左衛門 (8代) は1870年 (明治3年) に電信寮からがいし製造の打診を受け、同年暮れに試作品を納入したところ採用されたという[25]。深川は後に香蘭社を設立した。
国産がいしは輸入品と遜色ない性能を持つようになったが、架線の距離が延びるにしたがって通信障害にみまわれるようになった。海岸近くの電信線で雨天に起こりやすいことから塩害による絶縁低下が原因とわかり、1883年頃から絶縁部の傘を二重構造に成形した二重通信用がいしを用いるようになった。これが国産通信用がいしの主流となった[26][22]。
1887年11月29日に東京電灯株式会社の第2電灯局 (火力発電所。日本橋茅場町) が架空電線による送電サービスを開始し[27]、大阪、名古屋、京都などでも電灯会社が開業した。当初は送電の範囲が狭かったため、発電所からの送電も125-220ボルト程度の低圧であり、絶縁には電信用のピンがいしが流用された。しかし後に発電所が集中化、大規模化して消費地との距離が増すと送電電圧も高くなったため、ピンがいしを多数連結した形式の懸垂がいしが用いられるようになった[28]。
食器と異なり外観品質を問われない碍子は生産が容易であり、陶磁器業界各社の重要な収益源となった。1907年(明治40年)、日本陶器合名会社(後のノリタケカンパニーリミテド)の百木三郎により15,000ボルトの送電に対応した製品が、1909年(明治42年)にはさらに45,000ボルトに対応したピン碍子が開発され[29][30]、同社の発展と電力網の発達に貢献した[31]。1910年(明治43年)、瀬戸町(後の瀬戸市)の加藤杢左衛門を称する工場において電力を利用した生産が始められた。電力網の発達により、1915年(大正4年)頃になると業界全体に自動化が普及し生産性が向上した[32]。
1990年(平成2年)頃、樹脂碍子を66,000ボルトから275,000ボルトまでの高電圧送電網に適用するための実用化試験が電力中央研究所や電力会社などによって始められた。同時期に鉄道総合技術研究所勝木塩害試験場において鉄道用途に対する試験も行われ、1993年(平成5年)には東海道新幹線での使用が始まり磁器製から樹脂製への置き換えが進んだ[12]。
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