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大日本帝国海軍の一等駆逐艦 ウィキペディアから
陽炎型駆逐艦(かげろうがたくちくかん)は、大日本帝国海軍(以下「海軍」)の一等駆逐艦[18][4]の艦級である。全19隻が建造された。一番艦である陽炎の沈没後、書類上不知火型駆逐艦(しらぬいがたくちくかん)と改定された[19]。
陽炎型駆逐艦 | |
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竣工間もない舞風。[3] | |
基本情報 | |
種別 | 一等駆逐艦[4] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
建造数 | 19隻[4] |
前級 | 朝潮型駆逐艦 |
次級 | 夕雲型駆逐艦 |
要目 (計画) | |
軽荷排水量 | 1,844.4トン[5] |
基準排水量 | 公表値 2,000英トン[6] |
公試排水量 | 2,500トン[7] |
満載排水量 | 2,752.1トン[5][注釈 1] |
全長 | 118.50m[7][注釈 2] |
水線長 | 116.20m[7] |
垂線間長 | 111.00m[7] |
最大幅 | 10.80m[7] |
水線幅 | 10.80m[7] |
深さ | 6.46m[7] |
吃水 |
公試平均 3.755m[7] 満載平均 4.02m[7] |
ボイラー | ロ号艦本式缶(空気余熱器付) 3基[8] |
主機 | 艦本式タービン(高中低圧) 2基[8] |
推進器 |
2軸 x 380rpm[8] 直径3.300m、ピッチ3.545m[9] |
出力 | 52,000馬力[7] |
速力 | 35ノット[7] |
航続距離 | 5,000カイリ / 18ノット[7] |
燃料 | 重油 622トン[7] |
乗員 |
計画乗員 239名[10] 陽炎竣工時定員 225名[11] 1941年7月10日以降定員 228名[12] |
兵装 |
50口径三年式12.7cmC型連装砲 3基6門[13] 九六式25mm連装機銃 2基4門[13] (61cm) 九二式4連装魚雷発射管四型 2基8門[14] 九三式魚雷 16本[14] 九四式爆雷投射機1基、三型装填台1基[14] 爆雷投下台 水圧三型2基、手動一型4基[14] 九一式爆雷 36個[14](掃海具を装備しない場合[15]) |
搭載艇 | 7.5m内火艇2隻、7mカッター2隻、6m通船1隻(母港保管)[16] |
ソナー |
九三式探信儀(竣工時)[15] 九三式水中聴音機1組[17][15] |
その他 | 単艦式大掃海具1基、小掃海具一型改一 2基[14] |
1937年(昭和12年)からの第三次軍備補充計画(通称③計画)で15隻[21]、1939年(昭和14年)からの④計画で4隻が建造された[22]。軍縮条約の制限に縛られず、復元性能・船体強度にも留意した[15]日本海軍の艦隊型駆逐艦の集大成といえる駆逐艦[23]。第1艦(陽炎)が1939年11月に竣工[21]、最終艦(秋雲)が1941年(昭和16年)9月竣工[22]。太平洋戦争では新鋭駆逐艦として第一線に投入され、終戦まで生き残ったのは夕雲型19隻、前身となった朝潮型10隻と合わせて全48隻中雪風ただ1隻である[23]。
1921年(大正10年)ワシントン軍縮条約後に建造された「吹雪型駆逐艦」は好評であり、竣工時は航続距離の短さだけに不満があった[24]。また後の性能改善工事で速力が34ノット程度(計画は37.5ノット)に落ちてしまった[25]。1930年(昭和5年)のロンドン軍縮条約では駆逐艦を含む補助艦艇の保有合計排水量と個艦排水量の制限を受けることになり、海軍は吹雪型より小型でほぼ同等の兵装を持つ「初春型駆逐艦」の建造をスタートさせる[26]。しかし復元性能や船体強度が十分でなく、性能改善工事で兵装の削減が行われ、ごく平凡な性能の駆逐艦となってしまった[27]。続く「白露型駆逐艦」は初春型の改良型であり、満足のいくものではなかった[28]。次に建造される「朝潮型駆逐艦」は軍縮条約破棄を見越して船体規模を吹雪型程度に戻して兵装も同等とし、復元性能や船体強度も留意されたが、35ノットの速力と18ノットで4,000カイリの航続距離(計画)は海軍として不満が残るものであった[28]。また竣工後に旋回圏が大きいために艦尾形状を改めたり[29]、タービン翼の欠損が見つかる(臨機調事件)などトラブルもあった[30]。このような経緯があり、海軍は軍縮条約あけには条約の制限に縛られない駆逐艦の建造に着手する[15]。
軍令部の当初の要求は速力36ノット以上、航続力18ノットで5,000カイリ、兵装は吹雪型と同等、吹雪型程度までの大きさ、というものだった[28]。この要求を全て満たした場合には公試排水量2,700トン、全長120メートル以上で機関出力60,000馬力の大型艦になってしまい、出力60,000馬力のタービンを新設計する必要もあった[28](ちなみに吹雪型は公試排水量2,500トン程度(性能改善工事後)、全長118.5m、出力50,000馬力[7])。そこで速度の要求のみ35ノットに落とし、公試排水量2,500トン、全長118.5m、出力52,000馬力に計画がまとめられた[28]。基本計画番号F49[7][28]。設計は牧野茂が行った[31]。
1937年(昭和12年)に第三次軍備補充計画(通称③計画)では2,000トン型駆逐艦(後の陽炎型)18隻の予算が承認され、15隻が建造された[21]。残り3隻は、同じ時に建造が決定していた大和型戦艦の架空排水量(③計画では3万5千トン[32]、④計画では4万トンの戦艦として計上[33])分の不足予算を確保するため、陽炎型3隻分(および伊一五型潜水艦1隻)を架空計上したためである[23](④計画では駆逐艦2隻分+潜水艦1隻分の予算を2隻に分配)。
1939年(昭和14年)の第四次軍備充実計画(通称④計画)では、2,000トン型の駆逐艦(甲)は16隻の予算が承認され、陽炎型は4隻建造(残りは夕雲型11隻、島風1隻、2隻は架空計上)[22]、最終的に陽炎型は計19隻(③計画15隻、④計画4隻)になった[4]。
従来の陽炎型は計18隻とされていたが、近年になって後述の夕雲型に類別されていた秋雲が艦橋・艦尾の形状や「なぜ夕雲型のうち秋雲だけが2番主砲の撤去が行われたのか?(夕雲型は2番主砲の撤去は行われていない)」という疑問から、陽炎型であることが判明したものである[34]。
基本的に朝潮型とほぼ同じ艦型になる[28]。友鶴事件、第四艦隊事件の教訓を完全に盛り込んだ設計となった[28]。
船体は新たに線図が引き直された[28]。長さを抑えて、吃水を深く取り、肥痩係数※を若干大きくして重心の高さを抑えている[28]。艦尾水面付近には船体にナックルを付けて水流を抑え、抵抗を低くした[28]。朝潮型では船体強度を高めすぎた部分があり、本型では平板龍骨を厚くして船体縦強度と重心降下に留意する一方、他の部分は適正な板厚に抑えた[15]。
※ 船体の肥えた、痩せたといった度合いを示す係数[35]。方形肥痩係数 (Cb) と柱形肥痩係数 (Cp) があり[35]、朝潮型のCpは0.627、陽炎型は0.645[36]。
主機は朝潮型の主機を改良した艦本式タービンで、機関出力は朝潮型の50,000馬力から本型で52,000馬力になった[15]。タービンは高圧・中圧・低圧・巡航の4つのタービンで構成されており、巡航タービンは1段減速(朝潮型)から2段減速(本型)に変更、重量軽減と燃費の向上を図っていた[15]。
缶(ボイラー)は朝潮型と同様、ロ号艦本式重油専焼缶(空気余熱器付)3基を搭載する[15]。朝潮型の蒸気圧力22kg/平方cm、蒸気温度300℃から本型では圧力30kg/平方cm、温度350℃にして出力増大をさせた[37]。天津風は蒸気圧力40kg/平方cm、蒸気温度400℃の缶を実験的に装備して好評であり、後に「島風」に採用された[23]。
なお竣工当初は速力が35ノットに達せず、推進器形状をいろいろ試して、35.5ノットを超えることができた[15]。
12.7cm連装砲は朝潮型と同じC型3基を装備した[15]。配置は吹雪型、朝潮型と同一で前部は艦橋前に1基、後部は背負い式に2基を搭載している[38]。大戦後半になり機銃増備のため2番砲は撤去された[23]。
竣工時より九三式魚雷(酸素魚雷)を搭載した最初の駆逐艦になる[15]。発射管は白露型から装備する九二式61cm4連装発射管を2基装備[39]、発射管の形式は白露型・朝潮型の2型から陽炎型以降は4型となり[40]、防盾の形状が変更されている[41]。位置は朝潮型と同様に艦の中心線上、1番発射管は第1煙突直後の上構上、2番発射管は第2煙突後方の探照燈台と後部上構の間の上甲板上になる[39]。1番発射管の装備位置は朝潮型より低くなっている[15][39]。
予備魚雷の位置は変更された[15]。朝潮型では1番発射管の後方(2番煙突の左右)に予備魚雷は置いたが、この場合1番発射管から2番発射管の予備魚雷まで連続して魚雷を配置することになる[15]。本型では1番発射管の予備魚雷を発射管前方(1番煙突の左右)に置いて、被弾時の誘爆を防ぐために魚雷を分散した[15]。
竣工時は25mm機銃連装2基を第2煙突前の機銃台に設置した。 駆逐艦での25mm機銃搭載は「朝潮」が試験的に搭載(他の朝潮型は13mm連装機銃)[42]、それに続いて本型では計画から搭載を盛り込んだ初めての駆逐艦になる[15]。
1943年(昭和18年)から機銃の増備が実施され、連装機銃は同3連装と交換、艦橋前に25mm連装1基、2番主砲塔を撤去した跡に25mm3連装2基を装備、あ号作戦時には合計25mm3連装4基、同連装1基となった[23]。その後は単装機銃が増備された[23][43]。
竣工時には電探(レーダー)を装備していない。1943年以降、前部マストを改造し対水上用22号電探1基を装備した[44]。電探室は艦橋後部、信号所の下に甲板室を増設して設置した[44]。あ号作戦時(1944年)には対空用13号電探も後部マストに装備している[43]。
九三式探信儀(アクティブ・ソナー)、九三式水中聴音機(パッシブ・ソナー)を竣工時から装備[15]。また九四式爆雷投射機1基、爆雷投下台6基を装備した[15]。投下台は後に投下軌条2条に改められた[45]。爆雷は18個で単艦式大掃海具を降ろした場合は36個搭載できた[15][45]。
陽炎型駆逐艦と改良型の夕雲型駆逐艦は日本海軍の期待を担って使用されたが、建造意図になかった空母や輸送船団の護衛、ガダルカナル島やニュージョージア諸島を初めとするソロモン諸島への輸送作戦(鼠輸送)に従事する事となる。しかし艦隊決戦を主目的に計画/建造されたために対空・対潜能力が優れているとはいえず、それらの作戦で次々と失われていった。また米艦隊との水上戦闘でも、舞風や野分を始め、数隻が撃沈されている。スラバヤ沖海戦、第三次ソロモン海戦、ルンガ沖夜戦、クラ湾夜戦、コロンバンガラ島沖海戦、レイテ沖海戦など、連合軍艦隊に対して雷撃を行ったケースも稀ではない。最終的に戦没せずに終戦まで生き残ったのは上述の通り雪風のみである。
舞鶴海軍工廠で5隻(陽炎[46]、親潮[47]、天津風[48]、嵐[49]、野分[50])、浦賀船渠で6隻(不知火[51]、早潮[52]、時津風[53]、浜風、萩風[54]、秋雲[55])、藤永田造船所で5隻(黒潮[56]、夏潮[57]、浦風[58]、谷風[59]、舞風[60])、佐世保海軍工廠で2隻(雪風[61]、磯風[62])、神戸川崎造船所で1隻(初風)[63]が建造された。
艦艇類別等級表による日本海軍の分類は、1番艦陽炎、2番艦不知火、3番艦黒潮、4番艦親潮、5番艦早潮、6番艦夏潮、7番艦初風、8番艦雪風、9番艦天津風、10番艦時津風、11番艦浦風、12番艦磯風(天津風(2代))、13番艦浜風、14番艦谷風、15番艦野分、16番艦嵐、17番艦萩風、18番艦舞風、19番艦秋雲である[4]。本型建造時、艦艇類別等級表への登録は命名時に行われたため[64]、艦番号と起工・進水・竣工の順番は一致しない。例えば、本型で最初に起工されたのは2番艦の不知火、また、8番艦の雪風は全19隻のうち3番目の竣工である。16番艦の嵐は起工・進水・竣工の総てで15番艦の野分より早い。ここでは、仮称艦番順に記す。
以上の艦の他に③計画では第32号艦、第33号艦、第34号艦の3隻が計画されているが、これは大和型戦艦2隻(大和、武蔵)の建造予算調達の為に計上された物で、実際に建造される予定は無かった。
呉鎮守府籍の陽炎・不知火と朝潮型駆逐艦の霰・霞で編成。1935年(昭和10年)4月1日に解隊した磯風型駆逐艦4隻からなる先代に続く三代目の第十八駆逐隊である。
呉鎮守府籍の親潮・早潮・夏潮で編成。後日、黒潮と陽炎を編入した。1939年(昭和14年)2月20日付で解隊した樅型駆逐艦4隻からなる先代に続く五代目の第十五駆逐隊である。
呉鎮守府籍の黒潮、初風・雪風・天津風・時津風で編成。1940年(昭和15年)10月15日に若竹型駆逐艦4隻からなる先代が舞鶴鎮守府第三十二駆逐隊に転出した後に続く、三代目の第十六駆逐隊である。
呉鎮守府籍の浦風・磯風・浜風・谷風で編成。戦争後半に雪風と初霜を編入した。1930年(昭和5年)6月1日に第6掃海隊に改称した海風型駆逐艦2隻、楢型駆逐艦2隻からなる先代に続く三代目の第十七駆逐隊である。真珠湾攻撃以降、太平洋戦争中の主要海戦に参加、終戦の日に解隊された。
横須賀鎮守府籍の野分・嵐・萩風・舞風で編成。1941年(昭和16年)3月31日付で解隊した峯風型駆逐艦2隻(編成当初は4隻)からなる先代に続く五代目の第四駆逐隊である。
横須賀鎮守府籍の陽炎型秋雲と夕雲型駆逐艦の夕雲・巻雲・風雲で編成。1939年(昭和14年)11月15日付で解隊した吹雪型駆逐艦3隻からなる先代に続く四代目の第十駆逐隊である。終始第10戦隊に属して機動部隊の直衛をもくろんだが、南太平洋海戦以降は機動部隊と分離して外南洋の水雷戦に臨んだ。風雲・秋雲以外の同型艦は外南洋で失われ、代わりに朝潮型駆逐艦朝雲が加わって3隻体制で隊を維持したが、1944年4月に秋雲、同年6月に風雲が相次いで沈没し、解散した。
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