鐵砲洲稲荷神社
東京都中央区の神社 ウィキペディアから
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鐵砲洲稲荷神社(てっぽうずいなりじんじゃ)は東京都中央区湊にある稲荷神社。平安時代創建の古社で、京橋地域の産土神である。
平安時代の承和8年(841年)4月15日(ユリウス暦841年5月9日)、凶作に悩む荏原郡桜田郷の住民が産土神を生成太神(いなりのおおかみ)として祀ったことに始まる。
入江埋立に伴い京橋に遷座し、更に室町時代末期の大永年間に後の新京橋(現・銀座一丁目付近)へ遷座し、八丁堀稲荷神社と称した。
江戸時代初期の寛永元年(1624年)、桜川が亀島川に合流する地点、稲荷橋南東詰(現・湊一丁目8番地付近)に遷座し、もとあった八幡神社を摂社とした。
一方、18世紀中期の『事跡合考』によれば、昔八丁堀一丁目南岸にあったが、家屋が過密になり、八丁目に移転したという。
江戸の水路網の入り口に位置することから、全国からの船乗りの崇敬を集めた。
江戸時代後期には吉田家により湊神社と名付けられ、また「浪ヨケイナリ」とも称された。安政期に歌川広重が描いた『名所江戸百景』「鉄炮洲稲荷橋湊神社」には朱塗りの壁と社殿が見える。
明治元年(1868年)土地が収用され、120m程南の現在地に遷座した。
大正12年(1923年)の関東大震災では大きな被害を蒙ったが、昭和10年(1935年)以降本殿や神楽殿が再興され、現在の形が整った。昭和20年(1945年)の東京大空襲では被害を免れ、昭和初期の神社の形式を今に伝える。
昭和37年(1962年)には隣地に区内初の児童公園が完成した。
2018年(平成30年)、例大祭の際に暴力団からの奉納金の受け取りを拒否。後に神社側を脅迫したとして関係者が逮捕されることがあった。2019年(平成31年)には改めて暴力団排除宣言を行っている[2]。
境内には区内唯一の富士塚がある。富士山の熔岩を用いたもので、頂上には末社鉄砲洲富士浅間神社が鎮座する。
寛政2年(1790年)に築造されて人気を集めた。『江戸名所図会』や歌川広重の『絵本江戸土産』では本殿より大きく描かれており、当時かなりの威容を誇ったと思われる。
神社遷座2年後の明治3年(1870年)に新地に移築され、明治7年(1874年)再築された。以降明治18年(1885年)、昭和3年(1928年)、昭和11年(1936年)と3度境内で移築され、現在の高さは5.4mである。
富士山の山開きに合わせて、7月1日のみ登拝が可能である。
氏子を構成するのは京橋五之部の湊一~三丁目・明石町・入船一~三丁目・新富の8町会、四之部の銀座一~五丁目東・六七丁目東・六七丁目西・八丁目東の8町会、及び新川二丁目越一(えちいち)町会(一部)の計17町会である。
五之部・四之部とは明治初年に実施されていた大区小区制の名残で、現在も中央区では連合町会の単位として機能している。五之部は鉄砲洲と俗称される地域に相当し、湊一丁目及び二丁目町会は祭事には合同で宮元町会を結成する。四之部は銀座の内三十間堀川より東、旧・銀座東の区域で、戦前に木挽町と呼ばれた地域を中心とし、氏子には歌舞伎座や新橋演舞場も含まれる。
新川二丁目は南高橋を渡って対岸の霊岸島にある。主に富岡八幡宮の氏子だが、一部区域が当社の氏子となっている。町会名の 「越一」は旧町名の「越前堀一丁目」を意味する。
氏子組織には崇敬会・敬神婦人会・弥生会がある。弥生会は戦後途絶えていた神輿渡御復活を目的として平成10年(1998年)に設立された。
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