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平安時代初期から前期の貴族・文人。菅原清公の四男。従三位・参議 ウィキペディアから
菅原 是善(すがわら の これよし)は、平安時代初期から前期にかけての貴族・文人。従三位・菅原清公の四男。官位は従三位・参議。
幼い頃から聡明で才知があり、弘仁年間の末に11歳にしてに召されて殿上に侍し、常に嵯峨天皇の前で書を読み詩を賦したという。
承和2年(835年)文章得業生となり、承和6年(839年)対策に及第して従六位下から正六位上と三階級の加叙を受ける。大学允/助・大内記を経て、承和11年(844年)従五位下に叙爵。承和12年(845年)文章博士に任ぜられる。のち文章博士を務める傍らで越後介・讃岐権介と地方官を兼ね、皇太子・道康親王の東宮学士にもなった。
嘉祥3年(850年)道康親王の即位(文徳天皇)に伴い二階級昇進して正五位下に叙せられる。引き続き文章博士を務める一方で、大学頭・左京大夫・加賀権守・美作権守・伊勢守・備前権守を兼ねた。また、この間の斉衡2年(855年)には従四位下に叙せられている。
清和朝に入ると文章博士に播磨権守を兼ね、貞観2年(860年)には従四位上に昇叙された。のち、弾正大弼・刑部卿・近江権守・伊予権守を経て、貞観12年(870年)式部大輔に任官する。貞観14年(872年)には参議に任じられて公卿に列し、議政官として勘解由長官・刑部卿などを兼任した。貞観15年(873年)正四位下、元慶3年(879年)従三位。元慶4年(880年)8月30日薨去。享年69。最終官位は参議従三位行刑部卿。
文徳・清和両天皇の侍読となって『文選』や『漢書』の進講を行ったり、内記として起草した詔勅や願文が多く残されている。都良香らと『日本文徳天皇実録』を撰し、『貞観格式』の編纂にも参画、また自ら『東宮切韻』『銀牓輪律』『集韻律詩』『会昌分類集』などを撰している。家集に『菅相公集』がある。
当代随一の文人として、詩家の宗匠小野篁あるいは在朝の通儒春澄善縄・大江音人と親交があったという。上卿良吏・儒者詞人の多くを弟子としていた。俗世間の事柄に興味が薄く、世間を忘れたように風月を観賞して詩を吟じた。仏道を崇めて人々を慈しみ、孝行は天に至るほどで、殺生も好まなかった。臨終の際、初冬の梅の季節に自らの法要を営むことのみ一言し、他には何も語らなかったという。[1]
注記のないものは『六国史』による。
是善を主祭神として祀る神社も存在する。
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